旅の食卓 池内紀

2016.5.2

22最終回 デニムとサワラ

 電車で来たわけではないが、井原駅頭でバスを降りた。駅舎の壁に「デニムの聖地」とあって、ショールーム兼ショップに手織りの織り機やミシンが並べてある。「世界に発信する井原デニム」と勇ましい。ショップの女性におそわったのだが、当地は井原市となるまでは、中国山地の宿場町で七日市と言った。「七」の日に市(いち)が立つ。
 「宿場町?」
 問い直してやっとわかった。現在の鉄道が頭にあるからいけないのだ。中世以来の山陽道は海沿いではなく山間部にのびていた。弥次喜多のころの旅人も、参勤交代の大名行列も、山あいの道を通っていた。現代でこそ井原は奥まったところだが、かつては五街道の賑(にぎ)わいをもつ町だった。
 すっかり宅地化されているが、以前は市外に綿の畑がひろがっていた。気候温暖な山陽路では、綿とともに藍(あい)を栽培した。綿と藍があれば織り物ができる。備中岡山産の袴は「厚手で丈夫」がキャッチフレーズだった。安くてモチがいいわけで、参勤交代の下級武士たちに人気があった。坂本竜馬がいつも身につけていた小倉の袴は、備中モノだったと言われている。幕末の志士たちのおおかたは下級武士で、肩肘張っていても懐中はさみしかった。竜馬らは幕藩体制のハミ出し者であって、そのはき古した藍色の袴は、当時のジーンズと言っていいのである。アメリカでリーバイ・ストラウスが堅い綿布を衣類に転用することを思い立ったのが十九世紀末ごろとすると、アメリカより先に日本産デニムが実用化されていたことになる。
 工場はどこも小規模で、「ジーンズ・カジュアル・マニファクチャー」といった看板がなければ、電気製品や車などの部品工場と思うところだ。輸入綿の紡績から、糸染め、糸巻き、のりつけ、防縮加工いっさいがオートメ化され、黒い機械が整然と動いている。ジーンズそのものができるのは別の工程で、井原は生地が主体であり、縫製スペースはごく小さい。
 そっとのぞいたら、ミシンにTOYOTAとある。どうしてトヨタがミシンにと思うところだが、思うほうがおかしい。世界の自動車メーカーは、もともとは豊田織機だった。トヨタの営業マンは、車ではなくミシンのセールスにとびまわっていた。
 イバラ・ジーンズは企画から裁断、縫製を一貫して行う手づくりハンドメイドの草分けである。はじめて知ったが、ジーンズは前ズボンのポケット縫いが手始めで、つづいて前の中心部、そのあと後ろにうつり、ポケット、尻ぐり、内股、脇、ベルト、ベルトループ、リベット打ちと仕上げていく。衣服に金属を打ちこむなど、衣服業界の目をむくようなことが、ジーンズには欠かせない。