言葉ことはじめ 池内紀

2017.7.12

10ちょい役

 

 

 そんな人間がいるものだ。はなやかもの、世にトキめく人はイヤというタイプ。まん中よりも端がいい。旅行となると有名な観光地ではなく、小さな町をうろつきたがる。大相撲ではイザというときに弱い力士、ここぞのときカチカチになって、あっけなくすっころぶ親方泣かせ。野球だと毎年ビリを競っているチーム。女性でも、いつもめだたない人が好きだった。
 芝居や映画では「ちょい役」といわれる。「ちょい」はちょっと、少しのくだけた言い方で、「もうちょい!」といえば、もう少しの意味だ。
 同じちょい役でも、映画の場合は、ひょっとして主役に抜擢されるケースもあるが、芝居、とりわけ歌舞伎では、下積みは永遠に下積みである。生まれ、家柄で舞台の役まわりがきまっている。中堅役が一代で名前を大看板にしたケースもなくはないが、それは才能と努力と、それに運がはたらいてのこと。ちょい役は入念に身ごしらえして登場しても、ほんのちょいと舞台の点景になるだけ。煮売り屋、商家の丁稚、廓(くるわ)の若い衆、船頭、尻っぱしょりした駕籠かき。あるいは二人コンビで虎になって、ヒーローに退治される。
 もとより錦絵になることもなく、見せ場があるわけでもない。ふんどし一丁ですごんでも、仲間(ちゅうげん)の無法者という役まわりで、手もなく川へ放りこまれる。濡れねずみで這い上がったところを睨(にら)まれてふるえ上がり、自分から川へ飛びこんだ。
 名前もヘンテコで、三人吉三(きちざ)のわきにいて、茹蛸(うでたこ)おいぼ、虎鰒(とらふぐ)おちょん、婆ァおはぜといったぐあいだ。幕開けに風呂敷包みをかかえて通りすぎるだけのこともあれば、鳶の者の一人で、屋根からトンボを切ってとび下りる。魚の行商人は「鰹、カッツウー」と威勢よくひと声あげて、舞台をすっとんでおしまい。
 そんなちょい役専用の役者について書かれた本で知ったのだが、なぜかもの堅い家庭の生まれ育ちが多いそうだ。父親は裁判所の廷吏だったり、歯科医だったり、東京電力勤務だったり。半ば偶然のいたずらで、人生がガラリと変わったが、裁判所や東京電力の倅では、どうあがいてもちょい役どまり。それを承知でこの世界に飛びこんだ。
 荷売りの二八蕎麦屋が、主人公の注文を受けて鍋のふたを取る。パーと勢いよく湯気が上がる段どりで大鍋にドライアイスが入れてあるのだが、ドライアイスの煙は重いので、景気よく上がってくれない。モロモロと下へ這っていく。煙を上へなびかせるには、どうすればいい? ちょい役が聞かれて答えていた。鍋の蓋を取ると、その蓋で自分の口もとを隠して一気にフーと煙を向こうへ吹き上げる。
 苦心の演出ながら客はもとより気づかない。そもそも誰も二八蕎麦屋など見ていないのだ。目に映っていても、まわりの点景と同じで、筋の運びでそこにいるだけ。
 役者がそれだけ工夫しているのに、誰もまるきり目にとめない。ひところ、ひそかに義憤に駆られて、ことさらちょい役に目をこらし、気がつくとメモをとったりしていた。自分では上々の観客のつもりでいたが、そのうち気がついた。上々でもなんでもない。そんな目で芝居を見ていると舞台にとけこめず、雰囲気に入っていけない。
 そもそもちょい役自身、ことさら見られるのを願っていないだろう。見過ごされ、気づかれなくていいのである。へんにめだつと芝居をこわす。ごく自然に舞台を通り過ぎて、それでもって場の空気をつくればそれでいい。
 いかにも軽い役柄ながら、主役、中堅に加えて端役がいないと舞台が成り立たない。セリフはほんのひとことでも、それでもって季節なり天気模様なりを先ぶれしている。番頭のちょっとしたしぐさで、主人の人となりがうかがえる。長い年月のなかで磨いてきたムダのない動きに、さりげなく工夫が仕込んである。名優が一座のちょい役を大切にするのは、芝居にとって地の塩のような存在であるからだ。
 一瞬目の底に役柄がのこって、あらためてながめると、油紙でつつんだような渋いのが小腰をかがめて袖へと引っこんだ。見る人に見てもらって、そのあとすぐに忘れられるのが、花も実もあるちょい役哲学というものである。

(第10回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年7月25日(火)掲載