言葉ことはじめ 池内紀

2017.7.25

11われをほむるものハあくまとおもふへし

 

 

 三重県津市の通りを歩いていたら、銀行の別館といったところで「半泥子(はんでいし)の焼き物」展をやっていたので寄ってみた。壺や皿のほかにも書画、俳句、書筒などが並んでいた。なかに「遺訓」という一枚書きがあった。半泥子当人ではなく、祖母が孫に書きおくったものだという。

  われをほむるものハ
  あくまとおもうへし

 突如カタカナが入ってくる読みにくい書き文字をメモにとった。「我をそしる者ハ善知しきと思へ…」。「善知識」は高僧のことだが、もともとは「良友」を意味していた。つまり、自分を誉める人間は悪魔と思え。悪く言う人こそ良き友なるぞ――
 川喜多半泥子(一八七八-一九六三)は本名を久太夫政令(まさのり)といった。たいそうな名前なのは、伊勢商人の豪家第十五代の長男として生まれたからだ。早くに両親を失い、わずか一歳で家督を継いで十六代当主となった。
 長じてのち、地元の百五銀行の頭取ほか、数々の企業の要職をこなすかたわら、写真、俳句、書画、焼き物に軽妙な才を見せた。とりわけ陶芸において、荒川豊蔵、中里無庵、金重陶陽といった昭和の名工たちの若き日のパトロンとして才能を開花させ、また自分でも窯をおこし、魯山人と並び立つような洒脱で遊び心あふれる作品をのこした。
 両親のいない子を育てたのは祖母のマサ(政)である。半泥子二十一歳の誕生日に祖母は思うところをしたため、「久太夫殿へ 婆々」として書き送った。すなわち一枚書きの遺訓である。
 昔かたぎの祖母は幼い当主を育てるにあたり、ことあるごとに帝王学を授けたと思われがちだが、自由奔放な半泥子の生き方にみるかぎり、その種のおさだまり型ではなかったようだ。少年が学校をうっちゃらかして写真に夢中になっても何も言わなかった。籍を置いた早稲田にろくに通わなくても目をつむっていた。ただ若いころに参禅させ、みずから心身を鍛えることは学ばせた。遺訓には、こんな言葉がある。

 「しつた計(ばかり)ニテおこなひが出来なくハやくニ立申候問…」

 半泥子はいち早く私財を投じて石水(せきすい)会館を設立し、地域振興、文化事業を強力におしすすめた。それはトヨタをはじめとする日本の代表的な企業が始めるよりも数十年早かった。おそらくロスチャイルドなど世界の財閥の手本にならったのだろうが、知っただけでなく役立たず、「おこなひ」をきちんと実行した。
 昭和六年(一九三一)の大恐慌の際、全国の銀行で取りつけ騒ぎが起きた。百五銀行では頭取みずから、ありったけの現金を窓口に積み上げ、預金引き出しを求める客には、すべて払いもどしに応じるよう行員に指示した。そのため顧客は安心して、なんら大事にいたらなかった。
 素封家の御曹司に、どのような人間が、どのようにすりよってくるものか、「婆々」はよく知っていた。言葉たくみにご機嫌をとる。媚びて誉めそやす。中国人はそれを「鹿を指して馬と為(な)す」やからと言った。目の前の鹿を平然として馬と言って権力者に近づいてくるタイプである。
 格言スタイルをとると、こうである。
「君子は千万人の諛頌(ゆしょう)を侍(たの)まず
一二(いちに)の有識の窃笑(せっしょう)を畏(おそ)る」
「諛」(ゆ)はへつらう、媚びる。「諛頌」は、媚びて誉めそやす。その手の腰巾着のいやしい面貌が見えるようだ。「窃笑」は、ひそかに忍び笑いをすること。すりよるやからは、かげではきまって「やはりおぼっちゃん育ちのバカだね」と笑っているものである。
 「婆々」の遺訓がいまもっともあてはまるのは、日本国首相安倍晋三だろう。「オトモダチ」がいかなるたぐいの人間かすらわかっていない。利権に鼻のいい連中であって、必要とあれば公然とウソをつく。法解釈をスリかえ、何ごとにも手廻しがよく、雲行きがあやしくなると、おそろしく逃げ足が速いのだ。
 それはそれとして、半泥子だが、祖母の遺訓をお守りのように、いつも懐中にしていたそうだ。

(第11回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年8月9日(水)掲載