言葉ことはじめ 池内紀

2017.11.10

18終の住みか


 中高年といわれるなかの「高」にちかい。その世代の最後の大仕事が「終(つい)の住みか」をつくることだ。住み慣れたわが家を建て替える。老いた身に住みやすい家に造り替える。

つい(終) 「最後」の意の雅語的表現。
〔ついのすみか、ついの別れ(死)〕

(新明解国語辞典)

  住み慣れたわが家ではあるが、もはや住みいい家ではないのである。ある日、玄関のたたきですっころんだ。コンクリートの飾りに使われているガラス製の丸石は、濡れるとすべりやすい。大雨のその日、傘をすぼめて入ったとたん、両足をとられ、あお向けざまに上がりがまちへ倒れた。頭を打って、あやうく気を失うところだった。
 風呂場で腰を打ちつけて、一週間ちかく這うように歩いていた。ラセン状の階段を踏み外して、三段分を転げ落ちた。骨折しなかったのがふしぎなくらい―。
 どこよりも安全なはずのわが家が、気がつくと、とびきり危険地帯になっていた。「終の住みか」どころか、「終の別れ」の原因になりかねない。
 正確にいうと、わが家に罪はないだろう。住人の老化のせいである。それが証拠に、念願のマイホームを手に入れたとき、玄関のガラス石の飾りが自慢だった。ラセン状の階段がシャレていた。風呂場が狭いのは建て売りだからやむを得ない。見てくれは気にしても、そこですべったり、転げ落ちたり、腰を打ちつけるなど思いもしなかった。そういえば老父が同居していたころ、小さな敷居にすっころぶのを見て、不注意をきつく叱った。二度、三度とくり返されて、舌打ちしたこともある。自分が同じ轍を踏むなどと、およそ夢にも思わなかった。
 おもえば花の中年期には、なんとさまざまなことがあったものか。身を刻むような緊張で過ごした日もあった。念願のマイホームを手に入れたからには、以後さっぱり「住」のことは考えなかった。さしあたり大型の電気冷蔵庫とクーラーだった。つづいては車のこと。二度買い替えた。その間に、わが家がひそかな凶器になっていた。どうして凶器が終の住みかになり得よう。
 貯金通帳が揃っていれば住居は建て替えられる。しかし、終の住みかは、それだけでは実現しない。建て替えは古い壁や古い屋根を捨てるだけではないからだ。古い記憶の中の暮らし、懐かしい思い出も捨てなくてはならない。それもテキパキと、情無用に処分する。少しでもスキを見せると、旧の部分が押し入ってくる。
 建て替えるからには、当然のことながら、これまでの暮らし方が関係してくる。古びた虫くい状態になっているのは、家だけにかぎらない。住人もまた相当の虫くい状態を呈している。さらに建て替えるからには、これからの暮らし方もかかわってくる。老いた夫婦がそれぞれの「終」の日まで、いったい何をしたいのか。どのように生きたいのか。そのためにはどんな住まいが望ましいのか。どちらか一方が自立できなくなったとき、どうするつもりか。建て替えが、いや応なく、人生のチェックポイントの役まわりをおびてくる。夫婦の再生物語を含んでいる。
 そのためだろう、家づくりにかかわっているはずが、家以前のことに直面する。建築家によると、古いものにこだわって残そうとするのは、たいてい夫の方で、そこから悶着が起こるそうだ。旧の部分を残すとなると設計が難しいし、そのぶん費用がかかる。「お金がかかる」ことを告げると、ようやく覚悟がきまるそうだ。
 素人は建築家に希望を伝えさえすれば希望どおりの家ができると思いがちだが、それは錯覚であって、建物のなかに希望は採用されていても、採用された構造は、まるきり希望どおりではないといったことが大半なのだ。建築家は建物のことは考えても、住人のことは考えない。住む人の立場を考えると、設計が極度に難しくなる。クライアントはそのことをまるきり理解しないのだ。
 すったもんだの末に、ようやく完成。晴れて仮住まいから老夫婦の「新居」へとお引っ越し。アルバイトの男の子が布団袋を落としてしまった。ヘンな音がしたのは、布団のあいだに、終の住みかの客間に飾る予定の秘蔵の染つけ大皿を入れておいたからだ。あわてて袋をあけてみると、こなごなに割れていた。あとでわかったことだが、布団のあいだに割れ物をはさむのが、いちばん事故のもとになる。有意義なことは、きまってあとになってわかるものだ。
 荷解きしてまたわかったが、食事のときのたのしみにしていた切子のグラスが壊れていた。いっぽう安物のグラスはみんな無傷だった。腹立たしいことに、人生の真理が、こんなところにも顔を出す。

(第18回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年11月24日(金)掲載