言葉ことはじめ 池内紀

2017.3.10

02小市民

 「小」は小さいである。気が小さい人は小心者(しょうしんもの)、才能が小さいのは小才(こさい)。「小才がきく」と言うのは、小さいことなら処理できるからだろう。器量や力量にかかわり、「大器晩成」の大器があるからには小器もあり、大人物に対して小人物もあるはずだが、まずもって言わないのは、とるにたらないのをわざわざ言うこともないからと思われる。
 では小市民はどうか? 小心者や小才と同じように、スケールが小さいことからの意味解釈がされているだろうと辞典をくってみると、まるきりちがっていた。
 「資本主義発達の所産である、サラリーマン(教員を含む)自由業者などの中産階級」これに「プチ・ブル」と添えてある。(『新明解国語辞典』三省堂)
 急に資本主義が出てきてとまどうのだが、プチ・ブルがヒントになりそうだ。戦前の左翼青年が「小さな幸福」に安住している市民層を槍玉にあげるときなどに使ったのではあるまいか。カッコして(教員を含む)とあるのは、亡き赤瀬川原平氏が目ざとく指摘したとおり、この国語辞典の特徴であって、おりおり編者が顔をのぞかせる。何を隠そう、教員のこのワタシもまた小市民の一人なんですヨー。
 「小市民」はプチ・ブルの訳語らしい。『日本語大辞典』(講談社)も同じ考えとみえて、「小市民」をひくと「プチ・ブルを見よ」とあり、プチ・ブルをひき直すと、「ブルジョワとプロレタリアの中間に位置する小所得者と俸給生活者・自由職業者をさすことば」とある。
 念のため『広辞苑』(岩波書店)にあたってみると、「資本家と労働者の中間の階級に属する人」。ここまではほかとほぼ同じだが、さらに説明がついていて、「思想面は資本家の考え方に近く、経済面、社会面では労働者の生活に近い」。思想と生活にかけちがいがあって、小さな幸福に安住しているわけではなく、むしろ大きな幸福を拒まれ、小さな幸福を強いられた不満組ともとれる。職種でいうと「中小商工業者、技術者、俸給生活者、自由職業人らを含む」そうだ。

 国語辞典の編者たちが定義に手こずっているのは、要するに小市民の実態がはっきりしないからではなかろうか。ごくふつうの市民であって、どちらかといえば、よき市民にあたる。大多数の国民がそうであり、政治家が「国民の皆さま」と呼びかけるときの「皆さま」である。
 いつの時代にも小市民はワンサといる。インフレの気配があると、あわてて買出しの列につくし、デフレの傾向がいわれると、ワリのいい金融を見つけて、小金をこっそり投資する。どちらの場合も、とりたてていい目を見たというのでもない。ろくすっぽいりもしないものをドッサリ買いこむだけだったり、ペテン師まがいの金融業者のカモにされたり。
 政治家はよく知っている。「国民の皆さま」は、いつも強いほうが好きなのだ。みんなといっしょの多数派にいたい。さもないと不安でならない。ほかの人に利益をさらわれそうで落ち着かない。なかには少数派のふりをして、そっと多数派ににじり寄るタイプもある。言行の不一致を問いただされると、言葉巧みに言いつくろう。モゴモゴと弁明する。ときには青筋立てて怒りだす。あるいは居直る。
 時と場に応じて時流に乗じていく風見鶏(かざみどり)、日和見主義者、時流便乗派――社会学者や心理学者はそんな小市民的性格を言うだろう。そこから行動パターンを割り出し、ある定まった人間の類型を論じるかもしれない。
 しかし、はたしてそれは性格だろうか。そもそもいかなる性格も持たないからこそ、どのような人間にもなれるし、いかなる信念に足をとられることもない。どのような性格とも縁がないからこそ、世の中の風向きしだいで方向を変えることができる。時流に合わせて泳いでいける。だがらといって悪人だろうか。とんでもない。悪人であるためには強烈な個性を必要とする。
 よき市民、またの名は永遠の小市民は国を問わず、どこにもいる。時代を問わず、いつの時代にもいる。一人の小市民のズルさ、小心ぶり、無責任を戯画化すれば、愉快なマンガができるだろう。それを笑うのは簡単だが、笑いがみるまにこわばっていく。当の自分の戯画であることに気がつくからだ。
 くり返しいえば、小市民はどこにも、いつの時代にもいる。失礼ながら、あなたの中に、そして私の中にも一人の小市民が巣くっている。そして何にもまして小市民の特徴だが、自分を偽(いつわ)るのがうまいのだ。過去を話すとき、巧みに事実をスリかえる。といって悪意あってのことではないのである。不都合なことはさっさと忘れ、無意識のうちにスリかえて、自分でもそのことに気づかない。彼は自家製の事実を、誰よりも熱心に信じている。

 

(第2回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年3月24日(金)掲載