言葉ことはじめ 池内紀

2018.2.6

24和菓子語

 

  駅前のキオスクで豆大福を見つけた。久しぶりの和菓子である。いや、十日ばかり前、どらやきが食べたくなって買ってきた。秋のお彼岸におはぎをいただいて、どうやら舌が和菓子に目覚めたらしい。たしかに「あん」ものは、ケーキやクッキーとはまるで異質の味である。長く海外にいると、おりおり、急にからだがあんものを欲しがるそうで、急拠もなかを航空便で送ってもらう人もいる。日本人の味覚がうずくわけだ。
 和菓子の製法はいたってシンプルで、小麦粉か米粉をこねて、のばし、飴をつつみこんで蒸す。大筋はただこれだけ。それが添え物しだいで無限に変化する。どらやきは形が銅鑼(ドラ)に似ているからの命名だろう。きんつば(金鍔)も刀の鍔(つば)になぞらえ、それに豪儀な「金」をかぶせたものと思われる。おはぎは別名がぼたもち、花の牡丹にあやかっている。きんとん(金団)となると厄介だが、言葉のひびきぐあいからして中国から入ってきて、そのときの名前が日本語化したのではあるまいか。
 それよりも何よりも和菓子の特徴は、季節と強く結びついていることだろう。日常の嗜好品が、これほど風土なり気候なりとかかわっているケースは、世界的にも珍らしい気がする。ケーキやクッキーには、およそ見られないとくせいである。
 おのずと地方性と関係していて、つくり方や名称も土地ごとにちがってくるが、一般名にひきもどせば、和菓子歳時記といったものがつくれるだろう。
 もっとも手近なトッピングは身近な草であって、草もちとして香りの強いよもぎが使われた。よもぎもちが甘党一年の幕開けになる。全体が清々しい緑色で、いかにも萌え出た春を思わせる。もちといっしょに季節を食べているわけだ。
 つづいてはおなじみのさくらもち。桜の満開の下で、さくら色をした、さくらの葉でつつんだもちと対面する。葉っぱは塩づけされていて、ややしょっぱい。葉を取って、もちだけ食べる人がいるが、やはり葉ごとパクつきたいものである。あんの甘味と葉っぱの塩味がまじり合って、なおのこと味わい深い。店ではきっと渋茶が出されるもので、もちの残り味と、ふうふういって飲む舌を焼くように熱いお茶がまじり合う。誰が考案したのか知らないが、さくらもちは二度たのしめる。
 同じく桜のころにお目見えするのが花見団子であって、へんてつのないあんころもちを串に刺しただけであっても、「花見」の命名であでやかになる。秋の月見団子も同様で、九月、十月の十五夜にもてはやされる。団子以上に言葉を食べている。
 五月は若葉の季節だが、実をいうと和菓子の季節でもあって、わらびもち、牡丹もち(ぼたもち)、ちまき、かしわもち、葛もち(葛まんじゅう)……地方ごとに無数のあんこものが控えている。ちまきやかしわもちは、もともと春の節句の応じていたのだろう。白米を粉にして、あんをつつんで蒸したのをしんこもちというが、これをかしわの葉でつつめばかしわもち、ささを巻いてちまき、葛をあしらってまんじゅうにしたり、もちにしたり。工夫好きで、手間ひまをいとわない日本人らしい食文化である。
 ある古い町の和菓子店だったが、五月のおすすめとして、水まんじゅう、福もち、銘柄で「宮の渡し」「若鮎」といったビラが張り出されていた。工夫すると、年ごとに新作が登場する。
 秋はもっぱら栗が主役で、栗まんじゅう、栗きんとん、たいてい栗の甘露煮が一粒まるごと入れてあって、まんじゅうかたがた、こくのある栗をいただく。栗に代わってくるみとなると、小さな粒にして白みそであえたり、そばを使えばそばまんじゅうになる。あんんにしても、つぶあん、こしあんで味わいがうんとちがう。ささで巻くとささ団子、ほう葉でつつむとほう葉巻、黒糖をあしらうと黒糖まんじゅう。おもえばあきれるほど変幻自在な食べ物なのだ。
 先だって伊豆へ行ったら、古風なお茶屋に「へらへらもち」とあったので、一皿400円をいただいた。水ぎょうざのような形で、みそ仕立てタレがかかっている。たしかにもちであるが、歯ざわりがツルンとしている。たずねたところ、自然薯(じねんじょ)を加えて練ってあるせいだという。もともと農家で自家用につくって食べていたので、家ごと味がちがったそうだ。
 茶屋ではみそに白ごまをまぜて風味をきかせてあった。つぶつぶとツルリがいいぐあいにまざっていた。どうして「へらへらもち」なのかたずねると、食べると旨いので「へらへらになる」からだという。べつにへらへらにはならなかったが、皿のへらへらもちを見ていると、なるほど、「へらへら」がピッタリに思えてきた。

 

(第24回・了)

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次回2018年2月20日(火)掲載