言葉ことはじめ 池内紀

2018.6.28

33二つの献上

 

 戦前、大阪で出ていた食の雑誌『食(くい)道楽』の復刻版を、ときおり開いてながめている。食通の自慢話もなくはないが、大半が実用に即していて、即物性がむしろたのしく想像力を刺激してくれる。「台所暦」のページが、一日の献立サンプルをかかげている。

  アサ
  はまぐりみそしる こかぶらにはいず いりたまご あきづけだい
  こん 
  ヒル
  ちくわ なまぶ しのだまき あまみそあえ ならづけ
  バン
  さくらえびにはいず たいきりみ うど しらたき あんかけ し
  そまき

 大阪のブルジョワの物静かな食堂を思い出す。炊きたてのホカホカごはんに、はまぐりみそしるの湯気が鼻先をくすぐりにくる。たまごは目玉でも半熟でもなく、いりたまごというのがうれしい。あさづけだいこんの鮮烈な白。

 にはいず(二杯酢) 酢にしょうゆを交ぜた調味料。
                   (新明解国語辞典、以下同)

 かぶらに「こ」がついて、それに二杯酢とくると、立派な料理のように思えるが、小さなかぶらに、あり合わせの調味料をふりかけただけである。二杯酢とはたのしい言い方だと思うのだが、ちかごろ聞かない気がするのは、どうしてだろう?
 ヒルのしのだまきは、油揚げのなかに材料を包んで煮込んだもの。おでんの余りものなんかだが、さめかけたごはんにおしるがしみて旨いものだ。あえものはあまみそときた。ほんの少々でいい。
 バンは渋いメニューだが、ひっそりとしたはなやぎがある。しらたきはどう調理したものか。あんかけのあんがくずあんだということは、小さいときに学んでおくことのひとつである。
 予備として、次のものがあげてある。
  「アサの部」 しらがこんぶ しんごぼう べにしょうが
  「ヒルの部」 にんにくみそに なまざけ てりやき くろまめ
  「バンの部」 いせえびのおにがらやき きのみあえ あなごのて
         りやき きんぴらに七味とうがらし はならっきょ
         う

 読んでいるだけで、食膳のにぎわいがホーフツとする。うつわとあいまって、料理のいろどりが絵のように美しい。かんざけをチビリチビリやりながら、まず目でたのしんで、それからやおら舌にかかる。
 「おにがらやき」とは、どんな焼き方だろう? 「きのみあえ」は木の芽を和えたもの、それもサンショウの若芽を指していた。らっきょうに「はな」がつくだけで、にわかにハナやいだ食べ物になる。人間は舌だけでなく、イマジネーションで食べていることがよくわかる。
 献立がまるで詩のように読めるのは、一つ一つの料理名が鮮やかなイメージをもたらしてくるからだろう。おおかたが土に芽ばえた。海でとれた。川ですくい上げられた。食べ物を通して、降りかかる雨が見える。雲が流れる。光と影が走る。沢づたいに下ってきた水音が聞こえる。
 同じころ、ある青年の日記より。ながらく結核で療養中であって、生活の大半は食べることと休むこと。日記の記述も、ほぼその二つにつきる。このとき作家、梶井基次郎、三十歳。死の前年にあたる。

  朝 ―― 味噌 漬物(蕪) 飯二杯 肝油。
  昼 ―― 味噌汁(菊菜) 大豆 漬物(蕪) 飯二杯 肝油。
  夕 ―― 鶏口白菜ノスキ焼 漬物沢庵 飯二杯半 肝油 アニモス
      ターゼ。

 かんゆ[肝油] タラの肝臓からとった薬用脂肪油。

 ビタミンA、Dを含有する。当時、結核などの消耗性の病気に、栄養補給の切り札とされていた。
 念のため翌日と翌々日の分。
  朝 ―― 味噌 漬物(蕪) 飯二杯 肝油。
  昼 ―― 味噌汁(豆腐) 飯二杯 肝油。
  夕 ―― 鮭半分 ホーレン草二杯酢 蕪漬物(蕪ハジメテウマ
      シ) 飯三杯 肝油。

  朝 ―― as usual
  昼 ―― 蜆味噌汁 漬物(蕪) 飯二杯 肝油。
  夕 ―― チリメンジャコ ホーレン草 飯二杯半。

 食のあとはきまって「悪感」の有無がくる。悪感に襲われると全身のふるえがとまらない。胸が刺されるように痛む。「エルポン」という薬が唯一の助けだったが、一時間ともたない。とても眠れない。
 「一度目ノンダトキカラ 二時間経(タ)タヌママニ マタ一服」
 「夜十時頃ヨリ寝タガ ヤハリ寝ニクシ。寝タノハ十二時過ギダッタローガ、ソレデモ夜明ケ頃目ガサメタトキハ、イクバクモネテイナイ感ジデアッタ」
 この種の記述が、こんこんとつづく。食事ごとに欠かさずついている「肝油」を除くと、難民収容所か囚人用のメニューと思うところだ。近代日本の作家のなかで、梶井基次郎はもっとも貧弱な食事と、もっとも少ない睡眠を強いられた一人だった。
 名作「檸檬(レモン)」に見るとおりである。熱っぽい身をかかえた青年が、ふと丸善に立ちより、積み上げた洋書の上に一個のレモンを置いてくる。悪感と咳に苦しみ、味噌汁と蕪の漬物と肝油の日々のなかで、この特異な物語作家は、最小のエネルギーでもって最大の効果を上げた。

(第33回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年7月11日(水)掲載