言葉ことはじめ 池内紀

2018.7.11

34ことばの発見Ⅰ



 ずっとあとで知ったことだが、「ことば遊び」と呼ばれるものだったのだろう。もじりやシャレや掛けことばをきかして、ことば自体で遊ぶわけだ。
 幼い私たちは、むろんそんなことは知らなかった。おもしろいから口にしたまでで、カンシャクもちの体操の先生は、「消し炭のタドンで、すぐにオコる」のだ。何で聞き覚えたのか、「いつも遊べば食うに困る」につづけて、「年の若いのに白髪(しらが)が見える」とわめき返したが、それが「地口」などと分類される用例だとは夢にも思わなかった。「お寺の坊さん、何してる」で始まるヘンテコな文句を、いまなお切れぎれに覚えている。ことば遊びの「早ことば」と呼ばれるたぐいだったにちがいない。息せき切って長いセリフを言い終わるやいなや、「夜とぎの坊さん、屁をこいた」とさけんで、ゲラゲラ笑いころげた。
 昭和二十年代の半ばすぎで、テレビはまだなく、ラジオが日常の娯楽の王様だった。NHK一局だったところへ、民間放送がいっせいに産ぶ声をあげた。関西の城下町の少年には、性能の悪い真空管ラジオが魔法の箱だった。そこから驚くべきことばが送られてくるのだった。
 NHKでは戦前からの漫才コンビ林田十郎と芦乃屋雁玉(かんぎょく)が「浪花寄席」の司会をしていた。
 「手前はどっかで見たような」
 「そういや、どっかで見られたような」
 テンポの遅い、もっちゃりした語り口だったが、ニワカ仕込みのとぼけたやりとりが、少年には奇妙に新鮮だった。
 民放では当代きっての人気者、ダイマル・ラケットが「お笑い街頭録音」の司会をしていた。「パチンコは是か非か」、「亭主の浮気は許すべきか許さざるべきか」といった、もっともらしいテーマを立てて、街頭の意見を聴くという趣向だったが、駄ジャレをちりばめたダイ・ラケの合いの手が何よりの聞きものだった。
 少年はとりわけ松鶴家光晴(しょかくやこうせい)・浮世亭夢若の「曽我物語」が大好きだった。
「恨みは永し十八年――」
「不俱戴天の父の仇(あだ)、向こうに見ゆる陣幕は――」
「これぞ余人にあらずして――」
「源家(げんけ)の頭領、源頼朝公の陣所なり」
「そのまた向こうに見ゆる陣幕は――」
「これぞ余人にあらずして――」
「灘の西門公(さいもんこう)の陣所なり」
「そのまた向こうに見ゆる陣幕は――」
「これぞ余人にあらずして――」
 つまるところ流れるような弁舌で、いともおごそかに名前をあげていくだけなのに、それがなんともおかしくてならない。と同時に、どうしてそれがおかしくてたまらないのか、それが不思議でならなかった。
 同じことばでありながら、自分たちの知っているのとは、まるきりちがった用向きで使われている。なんとヘンテコな使い方だろう!
 ことばは本来、役に立つはずのものではないか。学校の勉強はいうまでもない。私たちは一日の大半、たいてい親からことばを受け取っていた。それはつねに具体的な効用をおびていた。「宿題は帰ったらすぐにすます」「風呂の水をくんでおく」「ウソをついてはならない」「早く寝ろ」。どのことばも、ちゃんとした意味をもち、はっきり用向きを伝えていた。
 あるいは草野球のとき、下手っぴいのケイスケを、どちらのチームに押しつけるかでいつももめた。それでもともかく、試合開始にこぎつけたのは、ケイスケを押しつけるかわりに審判権を与えたりして、ことばのやりとりをかさねたからだ。
 ところがラジオから流れてくることばは、まったく効用をもっていないのだ。無用のことばであって、勉強とも、親の言いつけとも、仲間の説得ともかかわりがない。人を励ますのではなく、さとすのでも、なだめるのでもなく、叱咤するのでもない。ちゃんとした日常とは何の関係もないのである。つまりが役立たずなのだ。まったくのところ、「さてまた向こうに見ゆる陣幕は」が何の役に立つというのだろう。「これぞ余人にあらずして」が無用のことばであることは、火を見るよりもあきらかだった。
 にもかかわらず、おもしろくてならず、こよなく自分たちをたのしませてくれる。ことばそのものが、どんどんひとり歩きして、つみかさなるほどにおかしさが増していく。自分たちの知っていることばとは、全然ちがった効用をおびているらしいのだ。少年は、そんなことばに目をみはった。
 それは「発見」というのにひとしかった。実際、途方もない発見だった。まるきり役立たずのくせに、役に立つことばよりも何倍もおもしろいのだ。意味もないのに意味のあることばよりも、はるかに意味深く思われる。それはまるで首尾よくつかまえたトンボのように、手の中でカサコソ動きまわって、こそばゆい。しかもこれはトンボ釣りほど難しくないのである。自分たちの知っていることばに、ほんの少し手を加えさえすればいい。
 「下駄屋のオヤジは内閣草履大臣」で、「北に近けりゃ、南に遠いのだ」「見るはいっとき、見ざるもいっとき、さるのおけつはまっ赤でござる」。学校の先生からおそわるのとはちがって、こちらはいちど聞くと即座に覚えてしまって、二度と忘れない。心理学者はどういうか知らないが、いってみれば、いままで知らなかった「ある一点」に立ったかのようなのだ。そこから、はるかな言葉の野がひらけている。
 戦後まだまもないころで、誰もが貧しく、子どももまた家族の大切な働き手だった。庭そうじや、肥(こえ)くみや、風呂たきなど、子どもなりに朝から夜まで何らかの仕事があった。効用のあることばに追われていた。
 しかし、もはやそんなものは何でもない。効用のある言葉は一度目から二度目、二度目から三度目と効用を果たしていくうちに、急速に色あせ、たわいない記号になっていくのに対して、役立たずのことばは、いつまでたっても色あせない。少しも古びない。何度くり返してもくり返しとはならず、むしろおかしみをましていく。無意味の意味深い世界に根を下ろして、ますます大きくなっていく。
 耳から仕入れただけではなかった。ひそかに自分の口で工夫して、おそるおそる組み合わせを変化させてみた。その一点から日常をながめると、何てことのない毎日が、ことのほか新鮮だった。この発見は少年を一気に、ある一つの世界へ導いたようなのだが、もとより当人は何ひとつ気づいていなかった。
 昭和二十七年(一九五二)のことである。少年が父を亡くした年なので、よく覚えている。日航機「もく星」号が伊豆大島の三原山に墜落した。血のメーデー事件があった。ボクシングの白井義男が世界フライ級のチャンピオンになった。私たちは軍手に布きれをつめこんで、にわかボクサーになった。マンガ「少年ケニヤ」や「イガグリくん」に読みふけった。町では哀愁をおびた「上海帰りのリル」や「あざみの歌」がうたわれていた。

(第34回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年7月25日(水)掲載