言葉ことはじめ 池内紀

2018.7.31

35ことばの発見Ⅱ



 高校に入り、最初の実力テストで愕然とした。206人中168番。ビリから数えた方が早いのだ。168の数字が信じられず、何度も成績表を見返していた。
 中学のときは、わりとできた。悪くても学年で20番以内、クラスで2、3番に入っていた。それが一挙に3ケタに落ちた。
 理由は簡単で、数学がまるでできない。代数、幾何ともにダメ。因数分解といわれてもチンプンカンプンで、サイン、コサインは何のことか、判断もつかない。教師は努力が足りないと言ったが、自分にとっては、努力すればできるといったたぐいのものではないのである。そのことは本能的にわかっていた。
 数学ができなければ物理、化学もできない。一つが極端にできないと、ほかにも影響して、国語、英語もダメ。地方の古くからの名門校には秀才がそろっていた。毎日、鬱々としてたのしくない。誰とも口をきかなかった。
 ある日、ふと思い立って、図書館の書庫にもぐりこんだ。伝統校の強みで蔵書が豊かで、司書が二人いた。一人は品のいい中年女性で、いつも和服だった。もう一人は断髪の若い女性で、テキパキとものを言った。石川啄木の歌集を差し出すと、和服の人は受けとり、貸出票を見ながら、けげんそうな顔をした。
 「イケウチ君、啄木読みたいの?」
 それから、どうして啄木を知ったのかとたずねた。雑誌で見かけて興味をひかれたと答えると、フーンとうなずいて、ペタリと判を捺してくれた。
 あとで知ったのだが、その人は当地で歌人として知られた人だった。短歌雑誌を主宰している。戦争で夫を亡くして、高校の司書になった。
 とはいえ高校生には、歌人には何の関心もなかった。ただ啄木が気に入った。暗記するほど読んだ。チンプンカンプンの数学の時間は、啄木短歌を思い出していた。「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」。書庫で『啄木写真帳』という本を見つけて借り出した。啄木ゆかりの土地の写真に短歌がついている。「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」。痛切に函館に行きたいと思った。啄木の北海道放浪を地図にして、授業中もながめていた。友の恋歌にくらべれば、となりの秀才など何ものでもないのである。
 あるとき歌人司書から「読むだけでなくつくってみたら」とすすめられた。しばらく意味がわからなかった。自分で短歌をつくるといわれれて、なおもわけがわからない。
 「五七五にすればいいの。簡単よ、やってみたら」
 毎日つかうことばのほかに、つくることばがあると、その人は言った。ことばでつくっていいのである。どんどん、つくってみたら?
 「つくることば」というのは、新鮮な驚きだった。その日、帰りの道すがら、お守りのように思い返した。つかうことばはウソがあってはならないし、つかったからには責任が生じてくるが、つくることばは、まったく自由である。つくるのであれば、事実でなくともかまわない。ウソであろうとなかろうと、そんなことは問題にならない。要は、よくつくれたかどうかなのだ。ヘタにつくれば振り落とされる。
 狭い一室に閉じこめられているような状況にあって、頭上に小さな風穴があいたような気がした。そこから涼しい風が吹いてくる。広い、高い空が見える。躍り上がりたいような発見だった。
 さしあたり身近な人を相手にした。チョークで板書している物理の教師。薄い髪、くたびれた背広、うっすらチョークの粉がついている
 「――物理教師の肩のきびしさ」
 ちゃんと歌になる。大学ノートに気どった字で「歌稿ノート」とつけ、そこに書き入れた。体操の教師は大酒飲みで、鼻の頭が南天の実のように赤い。それも歌にした。せっせと新聞や雑誌に投稿した。南天の実の一首が、新聞に「高校二年生の作」として掲載されたとき、歌人司書は少し困ったような顔で笑っていた。そして寺山修司のことを教えてくれた。五年ばかり前に、さっそうとしてデビューした天才歌人だと言った。青森の高校生で、短歌雑誌のページをひとり占めにした。その雑誌を貸してくれた。
 「向日葵(ひまわり)は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し」
 「マッチ擦(す)るつかのまの海に霧ふかし身捨(みす)つるほどの祖国はありや」
 何を言いたいのか、何を伝えたいのか、よくわからなかった。啄木短歌とはまるきりちがうことは、すぐにわかった。同じく「つくる」にしても、こんなつくり方があったわけだ。どこか数学の因数分解と似ているような気がした。
 一年あまりして短歌の腕はかなり上がっていたのだろう。短歌雑誌にチラホラ掲載されるようになった。同人誌から誘いを受けた。学校の成績はあいかわらず3ケタだったが、なぜか英語はよくできた。断髪の司書は英文科の出身で、英文解釈だけではダメで、原語でドンドン読まないと、本当の英語は身につかないと言って、ペンギン・ブックを貸してくれた。作者はヘンな綴りのモームと言って、画家の生涯が語られていた。
 気がつくと歌稿ノートは満パイだったが、つくる気持はうすれていた。三十一音の小さな容器がつまらなくなってきた。器用さと物マネでつくれる。それがものたりない。ペンギン・ブックのように何万語、何十万語をついやして語る世界こそ本物ではあるまいか。
 聞くところによると、天才歌人寺山修司は短歌をやめて劇を書いているらしい。病気で入院中とも聞いた。入院はともかく、歌をやめたのは、なんとなくわかるような気がした。
 大学入試が半年後に迫っていた。貧しい劣等生は学費の安い国立大学で、もしかすると自分が受かりそうなところを探して一つだけ見つけた。そこは英語の配点が法外に高く、おまけになぜか入試に数学がなかった。的をしぼって、夜遅くまで勉強をした。何年かぶりで勉強にもどったような気がした。
 半年後、なんとか合格をかちとり、とび立つように郷里をあとにして東京に出た。昭和三十四年(一九五九)四月、世は皇太子(のちの平成天皇)御成婚でわき立っていた。東京の人口九百万を突破と新聞が報じた。その9000000分の一として、北区のオンボロアパートに住居を見つけた。

 

(第35回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年8月15日(水)掲載