言葉ことはじめ 池内紀

2017.6.12

08パンツ ズロースほか

 べつにたしかな根拠があっていうわけではないが、だいたい以下の齢ごろに知ったような気がする。

  パンツ  小学生
  ズロース  中学生
  コシマキ  高校生
  サルマタ  成人後

 当のそのものというより、そのものにまつわる微妙な想像と実感を知った。小学低学年では何でもなかったパンツが、高学年になるとちがってきた。とりわけ女の子のパンツ、それも少し気になる女の子のチラッとのぞいたパンツの白さがただならない。鉄棒の逆上がりでパンツが丸出しになると、見てはならないものに対面した思いで、あわてて目をそらした。見てはならないが、しかしなぜか同時に見たくもあるのだ。鉄棒の逆上がりが無法であって、さらにお尻を丸出しにするのは、不正なことに違いない。
 ズロースは実物よりも先に言葉を知って、即座にムセるような匂いと悪のけはいをかぎとった。単なる下着ではないだろう。たくらみを秘めていて、そこにあるだけで、よからぬことを誘いかける。
 「ドロワーズ」がなまってズロースになったと知ったとき、なにやら納得がいった。辞書には「女性用のゆったりした下ばき」とあるが、ズロースの音感自体がささやいている。ゆったりしたつくりというよりも、使用の頻度とともにゆるみが生じて、しどけなくなった。ゆるみを生じさせるムッチリした肢体に期せずしてたくらみがこもっている――
 パンツは「ズボン」をあらわすパンタロンの短縮形というから、現在つかわれているスラックスやズボン一般をいう言い方が正しい。応じてパンツは、かつての威光を失った。体の一部、微妙な一点、腹のつけね、腹が腹でなくなり、脚が脚となる寸前、そこを覆う小さい布切れにひめやかな神秘があった。男が勝手に神秘を思いえがいただけともいえるが、それだけではないだろう。肉体のヒダを覆うものが心のヒダにもくいこんでいた。
 その一点にまつわり、しばしば一つの事件が引き合いに出される。昭和七年(一九三二)十二月、東京・日本橋のデパート白木屋で火事があって、四階のおもちゃ売り場から出火。火は上に昇り、七階まで延焼。消防ポンプの水も梯子車もとどかない。屋上に避難した人に陸軍の飛行機がロープを投げ下ろして救助する作戦をとった。死者十四人、負傷者百数十人。当時、和服姿だったデパートの店員はズロースをつけていなかったので、ロープをつたって降りるのをはばかり、それで命を失ったというのだ。そんな噂が流れたようだ。以後、和服でもパンツ着用が急速に普及した――
 いかにももっともらしい通説だが、はたしてそうだろうか。むしろ逆であって、羞恥心があるから覆ったのではなく、パンツで厳しく覆うことによって、にわかに羞恥心が生じ、ふくらんでいったのではなかろうか。少なくともフンドシとコシマキ時代の風俗画や証言にみるかぎり、日本人はいたって大らかだったようなのである。フンドシもコシマキも簡単に外れるものであって、日常の実用に応じても羞恥心とはかかわりがなかったような気がする。
 パンツの登場とともに感性の変化が生じた。生と性を司る器官が「密閉」されて、ごく自然な心的バランスが崩れ、小さな布切れが羞恥心と刑罰の対象になった。応じて言葉にも呪術的な尊厳が付加されていった。ただし、それはあくまでも女性の場合であって、男にはサルマタといった、いたって散文的用語でことがたりたのである。
 パンツがパンティとブリーフになり、いま一度の感性の変化がみまったぐあいだ。呪術的な尊厳は、いまや消滅の段階にあると思われる。それは巷の下着売り場をひと目のぞけばわかることで、より小さく、より愛らしく、よりあでやかに工夫され、それはさながら、まさに消えなんとしている最後の羞恥心にアクロバットを演じさせるかのようなのだ。

 

(第8回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年6月26日(月)掲載