生きていく上で、かけがえのないこと 吉村萬壱・若松英輔

2017.6.11

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吉村萬壱

 

 

 高校時代に、友達と一緒に弁論大会を開き、私も登壇した。
 私は「友情について」という講演をした。全く柄にもない演目だったが、これにはちゃんと種本があった。西尾幹二の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書)がそれである。
 その本の中に、『ツァラトゥストラ』の中からの次のような引用がある。
「君は君の友の前にいるときに、衣服を脱いでいたいと思うのか。ありのままの君を相手に与えることが、友の名誉になるとでもいうのか。だが友はそういう君を、まっぴら御免だと言うだろう!」
 この本は、当時のまま私の手元にある。このエッセイを書くに当たって今回第一章「友情について」を読み返してみたが、四十年前からこの本がいかに自分の友情観に影響を与え続けてきたかが分かって私は驚いた。この弁論大会で「声が大きかったで賞」を貰ったと記憶しているが、その時私が大きな声で主張したのは、ありのままの自分を見せることが真の友情なのでは決してないという一点だった。
 私はこの時、一緒に弁論大会を主催した友人のNに向けて声を張り上げていたに違いない。
 Nは才気溢れる友であった。私は文学や哲学や精神世界について、彼から大きな影響を受けた。Nはとにかく書き魔であった。小説や詩も書いていて、とても敵わないと思った。
 印象に残っている出来事が二つある。
 学校のトイレにNと二人で入り、並んで小便をしていた時のことである。彼は私の股間を覗いてきた。私は羞恥心から、とっさに自分の股間を隠した。すると彼は「何で隠すんや。まだまだやなお前は」と言った。
 もう一つは、彼が自分の日記を我々に見せたことだった。その中には、彼のありのままの心情が綴られていた。その中には、我々の共通の友人Hに対する批判めいた言葉もあった。私はこれを読むHの気持ちを慮り、暗澹とした。
 Nは、「在るがままに生きる」ということを実践していたのである。
 しかし私は、どこかついていけないものを感じていた。ありのままの自分を見せることが、正しいやり方だとはとても思えなかった。むしろそんなのはまっぴら御免だとさえ思った。私が弁論大会の演題として、ニーチェの友情論に飛び付いた、これが理由であったと思う。
 数年前、そのNが突然倒れた。
 心臓が止まり、脳への血流が停止して意識がないという。私はその知らせをHから受け取った。しかし私は病院に行かなかった。その時私の頭にあったのは、ニーチェの次の言葉だった。
「君は友が眠っているところを見たことがあるか、眠っているときにはどんな様子か知ろうとして」「君はいっさいを見つくそうとしてはならない」
 私はNは死ぬかも知れないと知らされていた。しかしもし私が彼なら、意識不明の自分の顔を見られたいとは決して思わないだろうと考えた。
 その後彼は奇跡的に意識を取り戻した。そして次第に喋れるように、歩けるようになっていく。NはHに「あいつはなんで俺に会いに来てくれへんのや?」と言ったそうだ。私はようやく見舞いに行き、死の縁から生還したNと言葉を交わした。
 Nはその後、小説や仏教の解説書を世に送り出すほどに、見事な回復を見せた。
 私には親友と呼べる友がいるだろうかと、時々考えることがある。
 私の結論は、いつでも「いない」である。
 そして友とは、互いに相手にありのままを晒す間柄ではなく、むしろ相手に対する美しき誤解を抱ける関係であれば、それで充分ではないかと考えることにしている。互いに尊敬し合い、その誤解によって自他共に高め合うことが出来るなら、それこそが真の友情ではないかと。馴れ合いのような友情なら、ない方がましだ、と。
 Nは今も在るがままに生きているように見える。
 そこに感じる違和感も相変わらずで、今でも私は自分の日記の中でNについて批判的に書くことが少なくない。ずっと過剰に意識し続けているのである。
 そして私は、実はその本当の理由に気付いている。
 私の心の中には、Nと出会った時から、いや恐らくそれ以前からずっと、Nのように在るがままに生きられない心のブロックが存在していて、私はこれをどうしても超えられないのである。それは羞恥心とも美意識とも言えるが、恐ろしいほど強い不自由さでもある。
 私は自由を謳歌するNに、四十年間嫉妬し続けてきたのだ。
 しかしもう、今となっては手遅れの気がする。私はNに、俺の臨終を見舞うなと言ってある。ここまできたら、せめて彼の前だけでも最後まで自分の美意識を貫きたい。
 弱りきった死に際の顔など、見られてたまるものか。

 

 

若松英輔

 

 話していることの多くは、何らかの意味でその人の心からあふれ出るものの顕われだという。
 たしかに、かなしいこと、嘆かわしいこと、あるいはうれしいことにおいても私たちはそれを語ることで心身に落ち着きを取り戻し、昇華させようとする本能がある。ときには、話すことで崩れ落ちそうなわが身を守ろうとさえすることもあるだろう。
「昇華」とはもともとは物理学の言葉で、固体が液体を経ないでそのまま気体になることを指す。それを心の状態に置き換えて用いるようになった。悲痛の出来事を詩にする。胸にあった動かないはずの悲しみと痛みが詩を書くことによってまったく別な意味を持つようになる、といった場合も、詩には悲しみを昇華するはたらきがある、といったりもする。
 話すというのは、私たちが日ごろ感じている以上に無意識的な営みなのだろう。人は誰も話しながら、自分でもまったく意識しないところで思わず自らの心のありようを披歴している場合も少なくない。「口は災いのもと」ということわざもある。
 書くという行為になるといっそう無意識のはたらきは強くなる。手紙を書きつつ、次々と目の前に現われてくる言葉に驚いた。そんな経験は誰にもあるだろう。人は思いのままに話しているのでも、書いているのでもない。
 冒頭の言葉にふれたのは二十代の半ば頃、ある心理学者の本においてだった。およそ三十年前のことなのに、この言葉は今も、ありありと心に刻まれている。誰かの話をうまく聴くことができないときなどに、どこからともなく湧き上がってくるからだ。
 ある人が何かを言う。すると私たちはそれに応じ、そこに対話が生まれる。だが、このとき何に注目しているかによって、対話の意味はまったく違ったものになる。
 語られている内容に関心を傾けるとき、話がつまらなければ次第に関心は薄れていって、あの人の話はつまらないといったりもする。だが、語られていることではなく、語っているということそのものに関心を寄せるとき反応はまったく変わってくるのではないだろうか。
 通常私たちは他者の発言に耳を傾ける。しかし親しい人、たとえば友人の場合はどうだろう。重要なのは何が語られているかではなく、今ここに、二人の人間が向き合っているという現実そのものになってくるのではないだろうか。対話は、語られた内容や事象であるだけでなく、今、ここにいるという存在の出来事になり、語り合った内容は、さほど大きな意味を持たないことすらある。
 このことは、いわゆる他者との対話においてだけでなく、独語にも当てはまる。独語は自己との対話だが、そこで何を語ったかはあまり重要ではないのかもしれない。何ごとかを自分に語りかけなくてはならない、そのときの心のありようを深く感じ直してみることの方がよほど大切なのではないだろうか。無意識が、意識にむかって何かを告げ知らせようとしているのかもしれないのである。
 信頼できる人間が近くにいるなら、ひと声かけて会えばいい。しかし、何らかの理由でそうできないときは相手に手紙を書くこともできる。会えないからと失望する必要はない。会わないからこそ、相手の存在をいっそう強く感じ、自らが本当に感じていることを語り得ることも少なくない。
「例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉へ。人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル」とある日、正岡子規は夏目漱石に手紙を送った。
 繰り返して読まれては困る。むしろ、記された内容は忘れてほしい。だが、手紙を書かずにはいられない気持ちを受け止めてほしい、というのだろう。
 二人は文字通りの親友だった。日ごろ、弱音を吐くことのない子規も漱石の前では赤裸々に自らの心情を語っている。別な日には、「僕ハモーダメニナッテシマッタ」と書き、こう続けた。

毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌へ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別に手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君の手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者の随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。(『漱石・子規往復書簡集』)

  ペンを握ることもなく、理由もなく号泣している。手紙も止めていたのが、ふと君を思い書くことにしたというのである。
 このころ子規は重篤な病を背負い、からだを自由に動かすことができない。いっぽう漱石は国の大きな使命を背負ってロンドンに留学している。「君の手紙」とは漱石がロンドンから送った書簡を指す。
 このときの子規にとって漱石は親しい隣人であるだけではない。自分の目には見えなくなった生きる意味をいとも簡単に見出してくれる他者となっている。自分よりも自分に近い他者、そうした存在を私たちは「友」と呼ぶのではないだろうか。


 

(season2  第18回・了)

この連載は月3回更新でお届けします。 次回は2017年6月20日(火)掲載