特別公開・リスクと生きる、死者と生きる 序章 石戸諭

2017.10.18

『リスクと生きる、死者と生きる』の序章を特別公開します

 

 このたび、亜紀書房から石戸諭(BuzzFeed Japan記者)の著作『リスクと生きる、死者と生きる』が刊行されました! 本書は、東日本大震災、福島第一原発事故の取材を続けてきた著者によるノンフィクション作品です。

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 本書の刊行にあたり、書籍の序章のおためし読みを下記に公開いたします。

 

『リスクと生きる、死者と生きる』序章

 あの震災、原発事故とはなんだったのだろう。ふと気がつくと、二〇一一年三月一一日を分岐点に考えている自分がいる。それは、あの日より前だったのだろうか、それともあとだったか、と。
 東日本大震災の被災地に入ったのは、この年三月二〇日のことだ。当時、私は毎日新聞の記者だった。岡山支局で五年を過ごし、五月から大阪社会部への異動が決まっていた。
 二〇代半ば過ぎで、仕事には自信があったし、何を取材していてもおもしろくて仕方なかった。事件を取材すれば特ダネが取れて社会面を飾ることもあり、コラムを書けばインターネットで少しばかり話題になった。震災の現場を自分で取材したいと思ったし、早く被災地取材班に加わりたい、と上司をせっついていた。
 大阪から飛行機で岩手県に入り、盛岡支局に立ち寄る。車をピックアップするためだ。支局では、連日の紙面作りに追われていた。誰かがドアを開けっ放しにしていると「ストーブの暖気が逃げていくだろう。簡単に燃料が手に入らないんだから注意しろ」と声があがった。 ガソリンが足りないから、給油地点には注意するように言われた。泊まる場所も現地で探さないといけなかった。はじめは沿岸部に向かう道路沿いにあったラブホテルを拠点にした。そのあと、沿岸部から少し離れた場所で温泉宿が確保できたという連絡があり、目一杯の人数で泊まった。あのときの被災地はどこも似たようなものだったと思う。
 一晩明けた三月二一日、私は担当を割り振られた岩手県宮古市の旧田老町を目指して、ハンドルを握った。吉村昭が一九七〇年に発表したノンフィクション『三陸海岸大津波』(文春文庫)にも登場する地区である。一九三三年に起きた津波を吉村はこう描写していた。 「田老は、一瞬の間に荒野と化し、海上は死骸と家屋の残骸の充満する泥海となっていた」
 道路を曲がり地区の風景が一望できる場所に車が入る。街の一切がなくなっていた。
 運転席から見える光景は現実なのだろうか、本当に起きたことなのだろうか。
 この光景を見たとき、報道は何も伝えていないと思った。
岩手の三月はデータの上では気温は低かったはずで、ときどき雪がちらつくこともあったが、寒さを感じた記憶はあまりない。海の匂いと泥の匂いが混ざった風が吹いていた。そのなんとも形容しがたい匂いは覚えている。
 描写する言葉が出てこなかった。何を書いていいのか、何を取材していいのか、この光景をどう伝えたらいいのか。さっぱりわからなくなってしまった。もう少し付け加えると、何を書いても言葉が上滑りしていくような気がしたのは、このときが初めてだった。どんな現実でも取材をして、調べれば記事を書ける、というのは思い込みでしかなかった。
あのとき、何があったのか。当時の取材ノートを開きながら、思い出してみる。


 三月二一日、沿岸部を男が一人歩いていた。年の頃は四〇歳前後だろうか。岩手県宮古市田老地区は津波に備えて海面からの高さ一〇メートルの防潮堤が作られていた。私も防潮堤を見に行った。過去の大津波の経験から導かれた対策だ、と男性は教えてくれた。しかし、今回の津波で防潮堤は大破した。「想定外というのは本当にあるんだ」と言った。別の場所でも口々に想定外という声を聞いた。
津波で何もなくなった田老地区で一人の女性が、がれきから家族の写真を探していた。「やっと見つかったから」と呟きながら、写真の泥をはたき、一枚、一枚倒れたコンクリート柱に並べていた。家族の思い出である。夜が明け、朝になるのと同時にがれきをかきわける被災者の姿を多く見る。釘がむき出しになっていて、余震もある。彼らはそれでも何かを探し出そうとしている。

 三月二二日、宮古市田老地区で、預金の一部払い戻しが始まっていると聞き、行ってみた。手続きにきた女性に対して、職員が「住所をここに……」と書くように促す。女性は「家はもうない」と消え入りそうな声で返答していた。手続きを終えて、すぐに帰っていく女性に声をかけられなかった。

 三月二三日、岩手県の被災地、宮古市の一角。中心部に近いエリアに津波で流された家と工場がある。そこにあった自宅に戻った五〇代の女性は「家もない、仕事もない。不安で不安で……。でも命が助かったのにそんなこと言えない」と話す。前を向いて復興に動き出す被災地、頑張る被災地という物語は必要なのだろうか。
市内の飲食店に立ち寄る。沿岸部を抜けて少し走ると暖かい食事を出してくれる飲食店は意外とある。地区によるだろうが、国道沿いはどこも大手飲食チェーンがかなりあるため、食糧事情は改善されそうだ。テレビのニュースで「××市は全壊」と報じていた。隣席に一人座ってラーメンを食べていた、二〇歳前後の金に近い明るい茶色の長髪、作業服を着た男性が「全壊じゃない、壊滅だ」と小さな声をあげていた。

 三月二四日、遺体発見の現場に立ち会うことになった。津波に流され、海岸からかなり離れた、がれきの下から見つかった。人が一人、目の前で行方不明者から死者に変わった。数だけではわからない感覚だ。「××さんは逃げる途中だったんだ。こんなとこまで飛ばされて……」と住民が語る。
 岩手県宮古市の一角、取材で訪れた小さな漁村の港近く。がれきを横にどけただけの道路を歩いていると「原発はどうなりそうなんだ。教えてくれ」と声をかけられた。漁村といっても、痕跡は何も残っていない。歩いていた港から高台にあがる道にあったはずの建物はすべて壊れていた。アスファルトはがれ、コンクリートでできた橋は真ん中から折れていた。
 船は高台の家の屋根に刺さっており、目につく車はすべてひしゃげている。残っているのは木片と、崩れたコンクリート片と電柱くらいだった。特産品だったワカメはロープごと陸に打ち上げられ、日に当たったせいか少し黄色くなっていた。
 声をかけてきたのは一人の男性だった。歳は六〇代半ば、白髪交じりの頭を短く刈り上げている。黒のタートルネックニットの上に、紫と黄緑のナイロンの上着を羽織り、足元は漁業用のゴム長靴を履いていた。
「原発ですか。放射性物質が飛散してはいるけど……」と説明しようとしたが、「健康はいいんだ。もうほれ、年寄りだから。海だ、海。この海にどんな影響があるんだよ。教えてくれ。情報が入らないんだ」。当然のように携帯電話はつながらず、地元新聞でさえ配達されていない。情報はもっぱらラジオのみ。男性の船も流され、陸で見つかったという。幸い、家族は無事だったが家も流された。
 漁再開のめどは立たない。質問をする前に男性は話し始めた。「漁に出れば金になる、そう言われた漁場なんだ、ここは。きれいだろ。この地区で取れるもんが悪く言われるのが嫌なんだよ、おらは。あわびもウニも定置網もワカメも、日本一なんだ」。きれいだったのだろう、と想像した。この日、一緒に見た海には、折れた防潮堤、そして沈んだ車から漏れ出した大量のガソリンが浮いていた。
 伝えられるだけの情報を伝えたが、おそらく納得していなかったと思う。住居を無くしても海の優先度が高い。何より海の無事を願う。それが漁師なんだ、と男性は言った。彼は特別な存在だろうか。津波に襲われた沿岸各地域に行けば、いくらでも同じような人に出会うことができる。

 三月二五日、岩手県宮古市の火葬場に向かう。列ができている。火葬を待つ女性は「一人でも辛いのに何千人も辛い思いをしてね」と言う。亡くなった姪は海辺のコンビニ勤務だったと話した。あぁ、と思い出す。私は、その場所を車で通っていた。いまは、がれきと看板だけがある。あと少し高台に走っていれば被害は免れたはず。そんな場所である。
 火葬場では、別の女性からも穏やかな表情で話しかけられた。「ご苦労様。いまね、旦那を待っているの。もう少しでお骨になるの」。昨日はがれきになってしまった家の近くで、写真を探したと語ってくれた。見つかったのは新婚旅行の写真だった。家を離れ、これからは息子夫婦と暮らすのだ、と言った。「もうね、なぁんにも残ってないから」。どうして話しかけてくれたかはわからない。取材をお願いしたが、彼女は首を横に振り、言葉を飲み込んだ。

 三月二六日、海上保安庁の捜索に立ち会う。漁業を営む男性は、妻が津波に流されて見つからないという。膝を折り曲げ、尻は地面につけず、手を組んだまま祈るような表情で捜索を見つめていた。いや、彼は祈っていた。妻が乗っていた車を海保の隊員が見つけたが、姿はなかった。それでも「よかった」と、隊員に礼を言っていた。隊員を仕切る海保の職員は「これで感謝されるんだ。こんなに辛い仕事はない」と言う。この職員は、目の前の現実を知らせてほしいと言った。

 当時のノートに記録されていたのは、いかにも社会面に掲載されそうな話ではなく、紙面化できるかもわからないような、そこにいた人たちの断片的なシーンであり、声であり、その時自分が考えたことだった。
実際、いくつかの話はさらに取材して記事になったものもあるが、大半はノートに書き込んだままか、少し短くしてツイッターにあげただけで終わった。ここにあるエピソードはとても小さいし、一本の記事にはならないが、それでも何かを伝えていると思った。
 いまなら「何か」がわかる。彼らが語っていたのは、他の誰でもない「自分」が感じた喪失だ。深い悲しみや喪失を経験した人は、言葉にできない感情をなんとか言葉にしようとする。それは、誰かに聞いてもらえなくてもいいと思いながら、振り絞って出てくる言葉なのだ。 私は彼らの声に強く心を揺さぶられたが、うまく言葉にすることができなかった。
 この本の原体験はここにある。「被災者」という名前の被災者はいない。そこにいるのは個人として生きている人の姿である。同じ喪失を経験した人も二人といない。喪失や悲しみは、徹底して個人のものだ。
そのときの私は、彼らの言葉に触れてもそれ以上の思いに踏み込むことはできなかった。知りたいと思っても、さらに踏み込むためには気持ちだけでなく、書き手としての力が必要だった。二週間弱の取材を終えて、私は岩手県をあとにした。
 その後、私は大阪、東京と異動し、二〇一五年末に約一〇年勤めた毎日新聞を退社した。この間も原発事故後の福島の描き方をテーマにした連載企画を展開したり、リスクの伝え方をテーマにしたコラムを書いたり、対談をしたり、震災や原発事故の取材を続けていた。新聞記者としての生活に大きな不満があったわけではなかったが、二〇一一年三月の出来事はどうしても消化できず、引っかかったまま時間が過ぎていった。 被災地や原発事故を取材していると、どこか饒舌な人たちと出会う。「××ではこうなっている」「××はそう考えている」。なるほど、取材や聞き取りを尽くせば、「被災者」の声を代わって語ることができるようになるのかもしれないし、ときとしてそうした形で声をあげることは必要だろう。
 でも、私にはどうしても主語が大きすぎるように聞こえてしまう。
震災と原発事故が投げかけているのは「喪失」という問題ではなかったか。喪失との向き合い方というのは、徹底的に個人のものでしかありえない。ある人を喪った、土地を離れざるを得なかった。失ったのはいずれも、自分が自分であるための大事な基盤である。その喪失と個々人がどう向き合っているのかは、他人にはわからないものだ。いや、当事者であってもわからないことも、当事者であるから言葉が揺らぐことも、言葉にできないこともある。それゆえに、誰かの経験を、誰かに代わって語ることに、慎重にならないといけないのではないか。
震災から現在に至るまで私が試みてきたのは、震災や原発事故を自分のこととして捉え、考えている人たちの声に近づき、彼らの揺らぎに接近することである。声を聞くこと、それもどこまでも個的に語られる彼らの言葉を聞くことで浮かび上がってくるものに、可能な限り接近したいと思った。
 新聞社を辞めて、二〇一六年一月に移籍したインターネットメディア「BuzzFeed Japan」で、私は震災、原発事故をテーマにした取材を続けることになった。ここに収録した文章は、大幅に手を加え事実上の書き下ろしになったものもあるが、初出はBuzzFeedに掲載したものだ。
はじめから大きなテーマを意識的に設定したわけではないのに、いくつかできあがった記事を並べてみると「喪失」と「個の言葉」という軸が浮かび上がってきた。あのときの取材ノートを読み返して、軸はさらに明確になったと思う。
 私は、何ものも代表せずに個人が個人として語る言葉を聞きたいと思って、彼らが住む場所や現場を訪ね歩いていた。
 彼らの言葉を、言いたかったことを本当に理解できたかどうかはわからない。しかし、間違いなく言えるのは、彼らはとにかく誠実に言葉を伝えようとしてくれたということだ。饒舌に何かをしゃべるのを一旦やめて、そっと耳を傾ける。そのとき、大きな主語から離れ、フラットに並んだ個人の言葉はどこかで共振を始める……。そんな気がするのだ。

 

(続きは書籍でご覧ください)