ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2018.5.10

03ペルー(3) 先祖参りを沖縄で

 

 写真家の石川直樹さんのイベント「The Seven Continents」に呼ばれたのは、2013年の3月のことだった。東京の代々木上原のバーで飲んでいて、「今度ペルーで撮った写真のイベントやるんだけど、なんかパフォーマンスやってくれない?」と言われて、ぼくたちはワインをけっこう飲んでいて、酔いの勢いで引き受けた。そのときのパフォーマンスで使ったテキストを一部引用する。

 

 今日はイベントがあって、それに呼ばれてる。ペルーに関するイベントということで、ペルー生まれだから、呼ばれている。そもそも生まれただけ、そのあとは基本的に川崎に住んでる。
 そもそも東京近郊で生活しながら語れるペルーのことは、極個人的なことしかない。聞いてくれる人がどれだけ興味があるのかわからない。
 11歳のときに最後に会った、ばあちゃん、たまに旧かなづかいで手紙が来て、書いてあるのは、「会いたい。」
 弟が生まれるとき、1984年、百合丘のアパートにばあちゃんは来てくれた。ぼくの世話をするために。弟はばあちゃんのことを覚えているのか。そのときのことぼくは何も覚えてないよ。
 ばあちゃんは、もう80過ぎ。じいちゃんと結婚して、沖縄からペルーに渡った。まだ沖縄がアメリカだったとき。ばあちゃんはふだんはたぶんスペイン語しかしゃべっていない。でもぼくが行ったら、日本語でしゃべってくれるはず。
 1984年、百合丘のアパートにばあちゃんは来てくれた。ペルーから飛行機で。アメリカで乗り継ぎ、成田に降り立ち、百合丘まで来てくれた。1984年、2歳。そのときのこと、ぼくは何も覚えてないよ。
 ばあちゃんは百合丘まで来てくれた。
 ぼくは行ってないのに。

「ペルーのこと」より2013

 人前でしゃべってみると、ふだん自覚していないことを意識する。「ペルーに関係のある人間」として呼ばれたものの、自分には語れることがなかった。「本来知っているはずの場所」へ行って、自分がどう思うのか観察してみなければいけなかった。演劇公演がしばらく落ち着くタイミングで、ペルーへ祖母を訪ねることを決めた。

 同年7月、演劇作品のツアー最終地であった鹿児島から、15年ぶりくらいに沖縄へ向かった。ペルーに行くまえに、父方の出身地である沖縄本島に行っておこうというわけである。
 沖縄に行くことを父親に伝えると、4、5人の親戚の連絡先を教えてくれた。父親は仕事の関係で、一年の半分くらいは中南米に行く生活をしており、沖縄にはもうずっと行っていないはずだった。沖縄に何人かの親戚がいたということよりも、年賀状も母親に任せて人付き合いも少なそうだった父親が、その連絡先を持っていたことに驚いたのだった。
 那覇や名護、それから大宜味村に住む親戚を訪ねた。沖縄には、たしか中学生のころに、父親と弟と3人で来た以来のことで、それ以降は沖縄にまつわるリゾート的イメージを理由にずっと遠ざかっていた。自分の家族に関係のある場所、というようには捉えていなかった。
 けれども、沖縄にいた親戚たちは、ぼくの存在を知っていて、ぼくにとっては初めて会うつもりの、自分のことを知っている人たちと会って、近況報告のようなものをしたり、家族の話をしたりした。これまでぜんぜん現れなかったぼくを親族として受け入れることを、あまり気にしていないようで、そのことにも驚いた。

 

道の駅3


 名護市街地の、大きいガジュマルの木が立つ交差点の近くに、ペルーに住む祖母の妹の「米子さん」が住んでいた。米子さんは、ぼくの記憶のなかの祖母と瓜二つのようだった。米子さんはたまに祖母と国際電話をしているようで、ぼくが訪ねたあのときも米子さんが祖母に電話をかけ、ぼくも祖母と話した。
 米子さんの夫が運転する車で、国頭(くにがみ)郡大宜味村に初めて行った。祖母と米子さんの旧姓は「大嶺(おおみね)」といって、大嶺家のお墓に連れて行ってくれるということだった。
 北部の山間を抜け、やがて海岸線を走る気持ちのよい国道をいくと、大宜味村の道の駅があって、そこの食堂で豆腐チャンプルを食べた。それからさらに数キロいったところにある、国頭村との境にある田嘉里(たかざと)地区へ向かった。ここが、大嶺家も神里家もあったところである。
 芭蕉布で有名な喜如嘉(きじょか)を通り過ぎ、少しカーブしたところにある、信号もない道へ入ると、「国頭村」という表示がある。道はすぐに「国頭村」方面と、表示のない小道に分かれていて、ぼくたちは小道に入った。
 のどかな田園風景とは不釣り合いに落書きがされたバス停を過ぎ、あぜ道を行くと、両脇に集落が出てきた。そこが田嘉里の集落である。さらに道を進むと正面に空き地があった。空き地のまえで道は二手に分かれている。この空き地が、かつて大嶺家の屋敷があったところらしい。
 空き地には石垣があって、入口はロープでふさがれていた。いくつかの植物やシークワーサーの実がなっていて、土地の真ん中あたりには、枯れそうな柿の木が一本、立っていた。この木にブランコをかけて、祖母は小さいころ遊んでいたという。いま、この空き地は村が管理していて、かつて屋敷があり、ここが台所だったとかここが便所だったとか、そういう話を米子さんがして、ぼくはへーとかほーとか言って、あまりピンとこないのは、ずっと会っていない祖母がここで幼少期を過ごした、ということについて自分は関心があるかのように見せかけることしかできないからだった。

 

大嶺家屋敷跡5


 空き地を正面にすると、右側の道のほんの100メートルもいかないところには、かつて神里家だったという一軒家が建っていた。その家には、いまは沖縄の有名な歌手が住んでいるということらしかった。祖父と祖母は子どものころ、本当に目と鼻の先に住んでいた。ペルーからやってきた祖父は、この小さい集落でどのように見られたのだろう。
 車に乗り、左側の道をしばらく行くとゆるやかに上り坂になっていって、そしてすぐに下りの脇道が出現する。その下り道を行ったところに、神里家「本家」の娘である「栄さん」が住んでいた。つまりぼくの祖父のいとこだ。ペルーから来た祖父は神里「本家」に住んだという。栄さんと祖父は同じ家できょうだいのように過ごしたらしい。
 栄さんの家の、奥の仏壇には栄さんの父の勝二郎、つまりぼくの祖父の叔父さんの写真があった。手をあわせて口に出さずに自己紹介をした。ぼくはあなたの甥っ子の孫にあたるので、あなたの親族だと思っていいのでしょうか? という感じで。勝二郎のうえに異母兄弟の長男がいたが、彼はカナダかどこかに行ったまま消息を絶ってしまったらしい。そういう事情もあって、勝二郎が神里家では長男のようなポジションで、ぼくの曾祖父である勝富は次男に相当した。

 

神里さん家系図0510

 

 栄さんはぼくの母親のことも知っているようだった。娘さんたちといっしょに北海道で行なわれた両親の結婚式にも出席したらしい。そして、ぼくが赤ちゃんのときのことも。不思議なものだ。「親戚」とはどこまでの広がりを言うのだろうか。この人たちをぼくは親戚と呼んで差し支えないのだろうか……。両親の結婚式に出席したり、昔話をしたりしてくれている。
 仏壇で手をあわせたり、どっしりと座る栄さんの話を聞いたりしながら、そんなことを思った。90歳をこえた栄さんは耳は遠くなっていたが、意識ははっきりしていた、といったら失礼だが、記憶はたしかなようだった。勝富の曾孫が来たということで、とてもうれしそうだった。小一時間ほど栄さんと話し、ぼくはそれまで想像もしていなかった家系の広がりを感じることができた。
 また来ますと言って、ぼくと米子さんたちは栄さんの家をあとにした。いっしょに住んでいる栄さんの娘さんが、「いつでも来てね」と笑顔で言うので、これは本当にいつでも来ていい感じの笑顔だなと思って、いい気分になった。なんの努力もせずに、彼女たちの家に上がり込み、話を聞いたり、自由気ままに歴史に思いを巡らせたりすることができる権利を得た気分だった。

 ハイビスカスがそこここに咲き乱れ、鳥が木々の隙間から羽ばたくのを見ながら、ジャングルのなかのような坂道を来たとおりに戻り、あの空き地を通り過ぎて、集落の売店でおみやげに田嘉里酒造(2017年に「やんばる酒造」に社名変更)の泡盛を買って、それからぼくたちは大嶺家のお墓参りに行った。
 山とさとうきび畑に挟まれた道の途中にお墓はあった。
 生い茂った雑草をかき分けると細い道が現われ、それを上がるとお墓にたどり着く。お墓のまえには八畳くらいのスペースがあり、角に竹ぼうきが置かれている。
 お墓はさとうきび畑を望むように、山の斜面にめりこんでいた。ここに代々の先祖が眠っているという。すべてを取り込もうという出で立ちの墓は、女性器を表しているのだそうだ。生まれたところに帰る。生きているものたちは、そのまえで掃除をし、食事をする。
 シーミー(清明祭)は、もう終わってしまったので、このとき宴会はしなかったが、ぼくたちは敷地や細道を掃除し、お墓も洗った。米子さんは、「子孫が初めてやってきました」とお墓に向かって言っていた。
 あれはもう四年前のことで、いろんなことがおぼろげで、けれども、さとうきび畑が素晴らしく青々と並び、その景色とお墓のあいだに立ったとき、いままで自分に関係なかったその土地を、必死に自分に結びつけようとしていることに気づいた。ぼくという人間がどうであれ、祖母や父親や自分につながる人たちがここに眠っているのだとすれば、自分にとってもそれは重要なことのように感じられた。

 

 掃除をして、お墓にはじめて手を合わせる
 そうすればおれだって血のつながりを感じることができた
 いるかな先祖は、この墓に
 わたしはあなた方の子孫
 ずっとさまよっていた、太陽のしたで――
 かんかん照りの太陽
 雲隠れの太陽
 押さえつける太陽
 赤く染まった土のうえ
 神妙な気分になって揺れる畑を背にして
 黙祷
 すべての人に

戯曲『+51 アビアシオン,サンボルハ』より/2015

 祖母の望みはぼくがお墓まいりに行くことだったらしい。これでペルーに行く準備は整ったのだった。

 

大宜味、海4


 ぼくが南米への旅を始めるきっかけは、個人的な背景が影響している。
 その旅や体験を重ねるごとに、自分も南米に暮らす「日系人」となっていたかもしれないという思いが強くなっていった。そして、もしかして、それはぼくだけじゃなくて、日本に住む誰にだってそういう可能性があるのではないだろうか。かつて移民を送り出していたこの国は、いまはなぜかその記憶が薄れているように思う。けれども、これからの世界で「移民」と無関係にいられることはないのではないか。
 日本では漠然としたイメージでしか語られない日系人のことを、ぼくたちはもっと知るべきかもしれない。親やその祖父母たちが、いつかどこかに移住していたかもしれない。あるいは自分たちがこれから移住して、子どもが外国で生まれたり育ったりするかもしれない。
 だから、南米に住んでいる自分と同年代やもっと若い世代に話を聞いてみようと思ったのだった。

 

 

(03・了)

 

この連載は隔週でお届けします。
次回:2018年5月24日(木)掲載