ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2018.5.24

04パラグアイ(1) ラパス移住地への旅

 

 パラグアイを訪れたのは2017年6月の、アルゼンチンのブエノスアイレスに1年留学していたときのこと。真冬の気配がし始めていたブエノスアイレスから、まだちょっとは暖かいだろうというつもりでやってきた。けれども6月上旬のパラグアイにもすでに寒波がきていて、すぐに風邪をひいた。

 ブエノスアイレスからパラグアイとの国境がある街ポサーダスまで、長距離バスに乗って16時間くらい。そして、ポサーダスのターミナルから国際路線バスで国境のパラナ川を越えた。渡ったのはパラグアイ側の国境の街エンカルナシオン。この街は、南米を旅する日本人バックパッカーには有名な街で、なぜかというと、この街のブラジル領事館ではブラジルへの入国ビザがほかの国や街の領事館より早く発行されると評判で、ブラジルへ向かうバックパッカーたちがやってくるのだった(なお、2018年1月11日より日本人短期滞在者向けの電子ビザの運用が開始されたため、状況は変わっているものと思われる)。

 パラグアイは南米の中心に位置し内陸の国だが、このエンカルナシオンにはパラナ川に面してビーチがあり、夏の季節には人々が水着で川水浴(?)をしたり、露店が出ていたりして賑わっている。夕暮れには、対岸のポサーダスのビル群が幻想的な雰囲気を醸し出しているのを見ることもできる。

 隣国にブラジル、アルゼンチンという大国を持つこの国の人々は「のんびりしている」。真夏には40度を越えることもあるこの地では、マテの葉を水で出す「テレレ」が定番で、家の庭やガレージのガーデンチェアに座って一日中、談笑しながらテレレを飲み続けているような光景を見ることができる。あるいは公園のベンチに座っているスーツを着た金融系のサラリーマンも、バスの運転手でさえも、片時もテレレを手放さない。

 テレレは、仲間たちやその場に居合わせた人たちといっしょに、回し飲みをするのが常である。「ホスト」がマテの葉っぱが大量に詰まった容器「グアンパ」に水を入れ、先端が濾し器の構造になっているストロー「ボンビージャ」を使って、飲み干す。それから、またグアンパに水を入れ、「ゲスト」に渡し、渡された人はそれを飲み干し、ホストにかえす。ホストはまた水を入れて次の人に渡す。というのをくりかえす。もう自分に回してほしくない場合は、ホストにグアンパをかえすときに「グラシアス(ありがとう)」というのが決まりだ。回ってきたテレレはかならず飲み干さないといけない、マテの葉に埋もれ深く刺さっているボンビージャを持ってかき回してはいけない、などのルールがある。そんなテレレの回し飲みの光景を、バスに乗って車窓を眺めているだけで、いくらでも見ることができる。パラグアイ人たちは、休日にアサード(焼肉)をしながらマテ茶やビールを飲み、家族と語らうことを最大の喜びとしているという。

 そんな国に、日本人たちがはじめて移民としてやってきたのは1936年のこと。第2次世界大戦により日本人移住が途絶える1941年まで、首都のアスンシオンから東南130キロメートルに位置する「ラ・コルメナ移住地」に計123家族が入植した。

 だが、現在パラグアイにある6つの移住地のうち、残りの5移住地は、第2次世界大戦のあとに設立された(厳密には7箇所だが、1985年に開設されたピラレタ移住地は、現状入植者が4、5人と極めて少ないことから、現地では移住地としてカウントされないことが多いらしい)。今回の旅で、ぼくが最初に訪れたのは、エンカルナシオンの近郊にある「ラパス移住地」、1956年に入植が始まった場所である。

 南米に点在する日系移住地というのは、その名の通り、日本人移住者たちやその子孫が、集まって住んでいる土地のことで、現地(パラグアイ)政府が用意して受け入れた移住地、日本政府直営地、アメリカ人がコーヒー団地として設定し日本人を受け入れた移住地などがあって、それぞれ設立の経緯は異なっている。

 このような移住地には、第2次世界大戦のあと、アジア地域からの引揚者や復員軍人など1000万人以上の余剰人口(ひどい表現だが)を抱えた日本政府が、移住者を募って送り込んだ(したがって、ラ・コルメナ移住地は、パラグアイのなかでは例外となる)。移住者たちは主に農業に従事した/している。

 

 エンカルナシオンのバスターミナルに早朝に到着し、アルゼンチンペソをパラグアイの通貨であるグァラニーに替え、隣接する食堂が集まる場所で朝食を食べた。寒かったので、鶏肉のスープ。それから、ラパス行きのバスの時間を確認し、ターミナルのすぐ裏にあるブラジル領事館に行って、ブラジル入国のビザの申請をした 。パラグアイのあとはブラジルに向かう予定でいた。ペルーのパスポートであれば、ビザなしでブラジルに入国できるのだが、ぼくは日本のパスポートで南米に滞在していた。

 11時までにビザが発給されるということだったので、領事館のwifiにつないで、ラパスでお世話になることになっていた安藤紀代美さんに、エンカルナシオンに無事に着いたこと、うまくいけば11時15分のバスに乗れるだろうと思うということを、メッセージした。安藤さんとは、以前、べつの移住地で知り合った日本人の僧侶に紹介してもらい、今回自宅に泊めてもらえることになっていた。だが、領事館のシステムにトラブルがあって、けっきょくビザの発給ができたのは14時過ぎ、ラパス移住地方面へ行く次のバスは、16時発だった。

 

 特にやることもないままバスターミナルで2時間を過ごした。バス会社の人やその呼び込みの人、両替商とスマホの充電器を売っている人が話しかけてきた。乗客たちはベンチに座って談笑している人が多かったが、一度も日系人らしい顔を見なかった。

 パラグアイには、南米の日本人移住者が多く住むいくつかの国のなかで唯一、沖縄系の人がほとんど住んでいない。また、ほかの国に比べると移住の歴史が浅く存命の日系一世が多い。それから、結婚に関しても日系人同士ですることが多いようで、だからパラグアイの日系人というのは、たいていの場合、いわゆる一般的な日本人顔をしている。とはいえ、当地には韓国系や中国系のパラグアイ人もいるので、東アジア系の人は、ほかのパラグアイ人たちと見分けがつきやすい、と言うほうが正しいかもしれない。だからなんだというわけでもないが、とにかくそのバスターミナルにはそういう人は見当たらなかった。

 

 バスに揺られること1時間、目印に聞いていたガソリンスタンドを見つけられないまま、ラパス移住地の中心部らしき場所に着いた。たいていの乗客がそこまでに降り、代わりに学校帰りと見える学生たちが大勢乗り込んできて、あれおかしいなと思った。動き出したバスのなか、スマートフォンで現在位置を確認すると、バスは中心部をどんどん離れていくので、慌ててバスを降りることにした。料金を集めている係員に聞くと、目的地はずっと前に通り越していて、逆方面行きのバスはもうしばらく来ないと言った(あとでわかったことだが、ラパス移住地は、フジ、ラパス、サンタローサという三地区からなり、それぞれの地区はかなり離れている。ぼくが目的地だと思って見ていた地図はラパス地区のもので、安藤さんのお宅やガソリンスタンドはフジ地区にあった)。

 冬に差しかかるこの時期、17時を回って外はもう暗くなっていた。まわりにはなにもない。エンカルナシオンのバスターミナルで購入したSIMカードの設定がうまくいかないので電話もできない。途方に暮れながら、暗くなった道を歩いているとしばらくして売店があった。明かりもついていた。

 電話を借りようと思って店に近づくと、ドアのところに、日本語で書かれたチラシが貼ってあった。バザーの知らせだったか、あるいはバレーボール大会の知らせだったか、記憶は生ものなので覚えていないが、ここが日系人の経営する売店であることは確実だった。店内に入り、不審そうにぼくを見る店員の(というかオーナーの)おばちゃんに事情を説明し電話を貸してほしいと言うと、おばちゃんも安藤さんのことを知っていたので、連絡してくれた。どこの移住地もそうだが、移住地のコミュニティは広くない。ラパス移住地には、700人弱の日系人が住んでいるらしい。

 店内には、醤油やお米はもちろん、ポカリスエットやカリカリ梅、ごはんですよ、とんかつソースやチューブタイプのわさび、カレールー、むぎ茶のパックなどが置いてあった。現地で作られた梅干しや納豆が売っていることもよくある。これまでにぼくが訪れたパラグアイの移住地はどこもそういう感じで(行ったことのないほかの移住地もきっとそうだろう)日本食材に困ることはない。

 

 紀代美さんの夫、安藤清一さんが車で迎えに来てくれた。あいさつをして車に乗り込む。8人くらい乗れる黒のグランドハイエースの中古車で、真っ暗になった国道を行った。パラグアイでは、日本の中古車がたくさん出回っている。それらは、日本から、まずチリの工場へ運ばれ、運転席の左右を取り替える作業をしてから、パラグアイやボリビアにやってくる。運転席の左右を取り替えるというのは、ハンドル部分をただ右から左へ移しただけなので、ウィンカーレバーはそのまま右側に、ワイパーレバーは左側に来る。

 国道を離れ、広大な草原や畑にはさまれた未舗装の道をしばらく行ったところに安藤さんの家はあった。敷地の外にはマカダミアナッツの木々が並んでいて、それほど太くない幹の低いところから、鮮やかな緑色の葉が茂っていて、その葉の影にマカダミアナッツが隠れていた。ぼくはマカダミアナッツが木になるものだと知らなかった。敷地の入口あたりにはマカダミアナッツの加工工場があって、年季の入ったトラクターがあった。その奥に二軒の家。安藤さん一家の住む家と、もうひとつは清一さんのご両親(哲さんと繁子さん)が暮らしている家だった。

 哲さんと繁子さんは、それぞれ愛媛県と高知県に、第2次世界大戦の最中に生まれた。ふたりとも、まだ10代だった1950年代に両親に連れられてパラグアイへやってきた日系一世である(日系◯世の数え方は市民権をとった段階から数えられるため、哲さんや繁子さんとその親たちのいずれも一世になる)。余談だが、哲さん繁子さんの家のお風呂は五右衛門風呂で、ぼくはこの場所で生まれて初めて、五右衛門風呂に入ることができたのだった。

 清一さんはパラグアイ生まれの二世で、17歳のとき日本へ出稼ぎに出た。川崎市内の輪転機を作る会社に勤めたという。そして知り合ったのが、山口県出身の紀代美さんだ。清一さんが仕事で山口県に来たときに、街角で「ナンパして」、ふたりは出会ったという。紀代美さんは当時、車の会社の事務員をしていたという。

 そんなふたりの子どもである雅(みやび)さんは、2017年の当時、15歳の高校1年生、駿斗(はやと)くんは12歳の中学1年生で、2人とも日本に生まれ、雅さんが4歳のときにパラグアイに引っ越して来た(つまり、雅さんも駿斗くんも紀代美さんも、日系一世と数えることになる)。

 駿斗くんは、親しみやすいやんちゃ坊主という感じで、初対面からかなりのテンションで、自分が世話をしている猫やニワトリの紹介をしてくれたり、翌朝には近所を一緒に散歩したりして、すぐに仲良くなった。雅さんは、大人しいというか、お姉さんらしく落ち着いている印象だったが、自分の意見ははっきり言うところに芯の強さを感じた。駿斗くんがどちらかというと、よくしゃべる紀代美さんの性格を、雅さんがやはり落ち着いていて、いかにも頼りになるぞという感じがする清一さんの性格を受け継いでいるような印象だった。

 

 

(04・了)

 

この連載は隔週でお届けします。
次回:2018年6月7日(木)掲載