私のイラストレーション史 南伸坊

2016.7.27

12美学校(無試験)に入学する

 

「美学校」は「現代思潮社」という出版社が、いままでの美術大学とは全く違う新しい美術学校をということではじまったのだった。
 この「現代思潮社」というのがそもそも「良俗や進歩派に逆行する『悪い本』を出す」というのが“モットー”という会社で、吉本隆明や埴谷雄高、澁澤龍彦や種村季弘といった著者の本を出版していた。
 何度も芸大の試験に落ちていながら、日常はほとんど美術学生のようだったボクは、あいかわらず本屋で立読みが主ではあったけど、現代美術やデザインの情報に関しては「門前の小僧習わぬ経を読む」くらいにはなっていた。たとえば澁澤龍彦、埴谷雄高、唐十郎、土方巽といった人名に敏感に反応する、くらいな耳学問と目玉知識。
 入学案内のポスターは、一面字ばっかりの、当時のデザイン常識を一切無視したような異様なものだった。朱色と黒の二色刷りのわりにはB全判シルク印刷のポスターには、辞典のカットにつかわれるみたいな木口木版の羊の横顔と、「大正映画文字」と呼ばれる、奇怪なロゴタイプ(実は赤瀬川原平デザイン)の他は、ひたすら難解な画数の多い漢字が多用されたコピーと、刺激的な人名で埋めつくされている。

私のイラストレーション史12-a  街中に貼られてあった、この異様なポスターを私は何度も凝視していたので、いまでもその人名をいくつか思い返すことができる。(花文字)赤瀬川原平(漫画)井上洋介、(硬筆画)山川惣治、(図案)木村恒久、(油彩)中村宏、(素描)中西夏之。
 そして講師陣には澁澤龍彦、瀧口修造、種村季弘、埴谷雄高、土方巽、唐十郎とある。1969年当時、いわゆるカルチャー・スクールやコミュニティ・カレッジはまだ登場していない。この講師の面子だけでも、めちゃくちゃインパクトである。
 それに無試験だ。私は生徒になると即決した。入学金を払いに行くと、受付に出てきたのが、まだ三十代の川仁宏さんだった。どの教場が希望? と問われて、私が挙げたのは漫画の井上洋介先生の教場だったが、当時の若者はカツーンの面白さがわかっていなかったようで、生徒が思ったように集まらず教場が成立しなかったのだと内情を明かしてくださった。
 明かしてくれついでに、実は漫画の教場は、つげ義春先生にも交渉していたのだが不調に終わったのだ、という話も明かしてくれてたら、当時どんなにビックリしただろう! と思うけれどもこのことを知ったのは、ネット検索をしていた昨日のことだ。
 井上洋介さんのことはガッカリだったけど、即座に「木村恒久教場は?」と尋ねて、まだ空きがあると聞くと、間髪を入れずに入ります! と叫んだ。最初からどちらにしようか迷ってたところだったのだ。
 ところで、後に運命的な師弟関係になったはずの、赤瀬川原平教場には、この時点ではまるで興味なかった。教場名が「花文字・絵文字」である。69年のパンフレットに載っているがこの時に話題にも出なかったのは、この教場名が不人気で、すでに教場が成立してなかったのかもしれない。
 木村恒久先生の授業は、はじめっから、ものすごく面白かった。大阪弁の早口で七十パーセントくらいしか聞きとれないうえに、ほとんどが初耳の話ばかりだ。
 ところがめちゃくちゃ面白い。先生自身が、その時点で考えていること、思いついたこと、を自分が面白がって話していたからだと思う。
 1969~70年の雑誌「デザイン」の表紙は木村さんがデザインを担当している。これがとても面白かった。ちょうどその頃の木村さんの授業のように面白かったのだが、いまネット検索をしても、ほとんどヒットしてこない。

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 ヒットしないっていえば、あれほど話題になった『ペルソナ展』における、木村さんの多色刷りポスターの図版も、ただの一つも出てこない。結局、美術史とかデザイン史とかいっても、いや歴史というのがそもそも、大概、公平に史実を語るものじゃないのだし、作品が残るというのは、歴史を記す人物の好みや義理やといったもので決まってしまうので、必ずしも公正に作品本位ではない。

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 歴史としてふりかえるころには、ほんとのことを知ってる人はもういないのだ。現時点でも木村さんの作品として、人々に知られているのは『都市はさわやかな朝をむかえる』っていうタイトルのニューヨークの摩天楼とイグアスの滝をモンタージュした作品、くらいになってしまうのだろうか。木村さんの仕事はもっともっとちゃんとした形で残しておくべきだし伝えていかなくちゃいけないと私は思う。

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「デザイン」の表紙は、まさに「デザインによるデザイン論」だった。また、毎年一回日宣美のために発表されるポスターも、やはり木村さんの最新の「デザイン論」だったと思う。木村さんは、当時、日宣美展の展評をしていたような「評論家」なんかより、ずっと面白いデザイン論をポスターでしていたのである。
 マッド・アマノ vs 白川義員のパロディ裁判でも、もっとも問題をラジカルに見据えていたのは木村さんだったし、その周辺で沢山書かれた、木村さんの晦渋な論文は、その晦渋さ故に「本」の形で残されることがなかった。文章が難解だったのに、私が木村さんの論評を面白いと当時から思っていたのはその肉声を聴いていたからだと思う。
「謦咳(けいがい)に接する」というコトバがあるけれども、直接、傍にいたことがある。ということの意味は、この肉声を聴いたことで得られた理解というものなのかもしれない。木村さんの話し方はその文章とほとんど同じなのに、肉声で聴いていると、なぜだかわかりやすいのだ。
 赤瀬川さんも、木村さんの不思議な極端に難解な文章を、面白がりながら木村さんの発想を、尊敬していた一人だった。
 次回はもっと詳細に美学校の授業にふれる予定だけど、入学案内のパンフレットにあった木村先生を紹介しているコピーを最後に引用しておこう。
「明敏気鋭のグラフィックデザイナーが、バウハウスを今日的に超える作業を、印刷の始源へのフィード・バックを通じて展開する」
 これが1969年度版のコピー、1970年度版では、ここにもう少し具体的な説明が入る。
「気鋭のグラフィックデザイナーが前デザイン的思考への下向と印刷の始源へのフィードバックを敢行し近代デザインの止場に賭ける」
 書き写してみて分かったが、このコピーの書き手は、文字数をぴったり20字3行に揃えている。川仁宏さんのしわざに違いない。

 

 

(第12回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年8月24日(水)掲載