私のイラストレーション史 南伸坊

2017.4.3

20元祖へたうま

 

 先日、和田誠さんの『もう一度倫敦巴里』の書評を依頼されて、この名著がどれだけ日本のイラストレーションにインパクトを与えたかということをルル述べたんですが、この時にスペースの都合で触れられなかったいくつかのことから書き始めましょう。
 ボクが考える「イラストレーション史」というのは「Illustrationという英語を、和田さんが日本語にした過程」ということなんです。
 英語のままのIllustrationの歴史といったら人類始まって以来の歴史になってしまうし、「日本の」という限定をつけたところで事情は同じでしょう。
 今、イラストレーションという日本語は、イラストとつづめられて一般に使われています。そしてそれは和田さんが、あえてこの英語をカタカナ語として使おうとした、その頃にこめられた意味合いから、少しずつずれだして、むしろ平板なもともとの英語のIllustrationと変わらないようなことになってしまったといっていい。
 つまり英和辞典でIllustrationを引くと、
1.図解,図表,さし絵。2.[説明のための]比較,実例[など]3.説明,例解,例証。
 と出てくるんです。そして広辞苑で「イラストレーション」を引くと
[Illustration]さし絵。図解。→イラスト
 とあるから、隣の項の「イラスト」を引いてみると、
 イラスト イラストレーションの略。特に、見て楽しく誇張・変形した絵についていう。
 となっています。
 NHKの放送などでは、アナウンサーが図表をさして「このイラストで見ますと」のように使っているので、イラストは英語のIllustrationとイコールになったのだな? とボクは承知してたんですが、そこからも少しズレるニュアンスがあるみたいです。
「特に、見て楽しく誇張・変形した絵」ねえ。たしかに世間のバクゼンたる認識はこんなことなのかもしれません。
 ボクが言いたかったのは、和田さん(たち)がイラストレーションとかイラストレーターという言葉の使用にこめた意味は、当時ももちろんあった「さし絵」とか「さし絵画家」とは違う表現をしはじめたジャンルに、新たな名称を与えて、その違いをあきらかにしたかったということじゃないかということでした。
 そうして、それは具体的には、非専門家に開かれた『話の特集』という雑誌で、イラストレーターやイラストレーションを使うことで、一目瞭然に、その意味内容を伝えていたのだと、思います。
 つまり、横尾忠則、宇野亞喜良、山下勇三、粟津潔、灘本唯人、山口はるみ、長新太、和田誠。といった人々の絵がイラストレーションなのであり、その人たちがイラストレーターなのだということです。
 これが1966年のことでした。そして、徐々にそれは浸透し、(あるいは一挙に広まった)。雑誌の影響力というのはその発行部数に比例しているわけじゃありません。
 実際、『話の特集』の実売部数は(具体的に知っているわけじゃないですけど)そんなにびっくりするほどの大部数ではないはずです。でも、その影響力は、ほんとうにびっくりするくらいに広汎なのです。
 どういうことか? 新しいものをキャッチする人々、というのが一定量いる。そういう人達のそれを広める能力というのがある。流行というのが巻きおこるしくみだと思います。
 和田さん自身そういう力を持っていた人でした。なにが新しく、なにが魅力を持っているのかを見分けられ、その魅力を人々に伝えていく力のある人。
『話の特集』は、そういう人をアートディレクターとしていたのです。創刊号の表紙を飾ったのは世間的にはまだ無名の横尾忠則さんでした。最初に横尾さんの野心作を絶賛し支持したのが和田さんだったのです。
『話の特集』の編集作法は、その若い読者のうちから編集者になった人、若い編集者のなかから現場を変える力を持った人、あるいは時代の流れを見ることができ、変えられる立場にいた人によって、どんどん広がっていったと私は思います。
 そして、実はつげ義春さんもまた同じような波及力を持っていたのではないか? と最近、気がついたんです。
 つげさんのマンガは『ガロ』っていう名前だけは知られているけど、発行部数といったら最盛期でも5万部に届くかどうか(それもそう長い期間ではなかった)という雑誌であり、そこに載っていただけなんですが、実際つげさんの「影響」を受けた人というのが、いったいどのくらいいるだろう、と見当もつかないくらい途方もない広がりを持っているんです。
 この連載の11回目で、私は「つげ義春事件」という文章を書きました。『ねじ式』ショックについて書いています。
『ねじ式』の絵が、それまでのつげさんのいわゆる、おだやかな漫画らしい画風だった表現から、突然ガラリと変わってしまったんです。1968年のことです。
 当時『ねじ式』は漫画好きの間で話題沸騰でした。前代未聞のマンガで、難解で、それなのに何だかぐいぐい引きつける魅力がある。それは、つげさんが『ねじ式』用に新しい絵を発明したからでした。
 以後、だんだんと寡作になっていくんですが、マンガの絵柄の「発明」ということにかけては、さらにさらに急進的に過激になっていきました。
 1972年「夢の散歩」の絵も、すばらしく新しかった。白昼夢のようなこのマンガのストーリイに、このタッチ以外では考えられないという絵柄だったと思います。
 1976年「夜が掴む」
 1977年「アルバイト」
 1978年「コマツ岬の生活」
 1979年「外のふくらみ」
      「ヨシボーの犯罪」
      「必殺するめ固め」
 1980年「窓の手」

夢の散歩

「夢の散歩」(1972)

アルバイト

「アルバイト」(1977)

左「必殺するめ固め」(1979)/右「コマツ岬の生活」(1978)

左・中央「夜が掴む」(1976)/右「ヨシボーの犯罪」(1979)

窓の手

「窓の手」(1980)


 特に1978年~1979年にかけての、「稚拙なタッチの絵」の、圧倒的な効果というのは、おそるべきものだったと思います。
 この、ナイーブアートのような絵をマンガに持ち込む、という革命的手法は、実はつげ義春が元祖だった。
 ということに、私は『ねじ式』を話題にしたとき、いまさらのように気がついたんでした。実は『へたうま』イラストレーションの元祖は、つげ義春さんだったのではないのか!?
 実際には「へたうま」イラストレーションということを言い出したのは湯村輝彦さんであった。それはまちがいのないところです。
『ガロ』に「ペンギンごはん」が掲載されたのは1976年のことでした。そして余談ですが、湯村さんのイラストレーションに対して「へたうま」とはじめに指摘したのは、つまりその魅力を明言したのは、またしても和田誠さんだったわけです。
 1978~79年のつげさんの絵柄は、この「ヘタうまブーム」とまるで無縁であったわけではないでしょう。が、実はそのもっと上流の1968年に、つげさんは「ヘタうま」をぬけぬけとやっていたというわけです。
 私は、つげさん自身は自分は漫画家であって、イラストレーターでも画家でもないと言うでしょうが、いつも時代が無意識的に求めている「絵」を発明するという一点において、最尖端のイラストレーターであり、最尖端の現代画家だったといいたいわけです。
 なぜ? 「稚拙な絵」が現代の最尖端であるのか? についてはまた新たに考えないといけないですけどね。

 

 

 

(第20回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年4月28日(金)掲載