犬(きみ)がいるから 村井理子

2017.7.15

04犬はいつも私たちと

 

 琵琶湖の近くに家を建てて、今年で11年になる。この11年間の暮らしのなかで、犬はいつも私たちと一緒にいた。京都から引っ越してきた当初は、なんと2頭の犬がわが家で暮らしていたのだ。2頭は生まれたばかりの双子の息子たちとよく遊び、辛抱強く相手をしてくれた。4年前にそのうちの一頭を、そして去年、もう一頭が亡くなり、そして今、私たちと暮らしているのが、この家で3頭目のハリーというわけだ。家を建てるときにまず考えたのは、犬にとって暮らしやすいかどうかということだった(そういう夫婦もたまにはいる。珍しいけれど)。例えば一階の床がすべてコンクリートなのは、夏涼しく、犬が出入りして汚れた時の掃除のしやすさを考えたからだ。その他にも、犬にとって暮らしやすい工夫は随所に施されている。

 そんなわが家も、11年目ともなると、いろいろなところが壊れたり、汚れたりしてきた。今年はとうとうエアコンが同時に2台も動かなくなったうえに、リビングの窓に設置していた網戸をハリーが体当たりして突き破ってしまった。網を破るぐらいだったらよかったものの、外枠まで歪めてしまったので買い換えるしかない。まったくなんという怪力だろうと呆れてしまう。エアコンなし、そのうえ網戸なしで酷暑を無事に乗り切る自信はない。なにより、ハリーにエアコンなしの夏を過ごさせるなんて、絶対にダメだ! ただでさえ真っ黒で暑そうなのに! 「人間はどうでもいいけど、犬にエアコンなしだなんてありえないからねッ」と、鼻息を荒くする私に夫は、「ハリーのことになると、俄然張り切るね」と言っていた。その通りなので、異論はなしだ。

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 さっそくわが家を建ててくれた工務店の現場監督に連絡を取り、状況を説明した。網戸だけではなく、実はハリーに破壊された箇所は無数にある。ベランダの床板はかじられてしまったし、フローリングの一部は、頑丈な爪で削られている。階段の一段目も軽く食べた跡があるし、寝室のドアには無理矢理こじ開けようと奮闘したのだろう、立派な爪痕がいくつもついている。すべて書くと延々と続きそうなので省略するが、とにかくハリーは滅多矢鱈と壊している。どうせ直すのなら、一気に直してしまったほうがいい。それにしても、よくここまでやるよなぁと、笑ってしまう。

 現場監督がわが家に来てくれる日の前日、家のなかを見て回った。他になにか直すところがあるのではと思ったからだ。大きな不具合はなかったものの、とにかく壁の汚れが目立つ。子供たちが一日の大半を過ごす場所は、もれなく汚れている。壁の落書き、汚れた手でさわった跡、墨汁や絵の具の染み。でもなにより目立ったのは、歴代の犬たちが壁に残した汚れだった。今までわが家で暮らした犬はそれぞれがお気に入りの場所を持っていて、そこに寄りかかるようにして昼寝をするのが日課だった。4年前に死んでしまったリブという犬は、私のデスクの足下にある壁に体を預けて日がな一日過ごしていた。だから、その部分は丸く汚れが残っている。去年死んでしまったトビーは階段の踊り場がお気に入りで、そこの壁にいつもお尻をくっつけて寝ていたので、その部分にも同じく汚れが残っている。そんな犬たちが残していった汚れがわが家の壁にはいくつもある。それを眺めていたら、なんだか少し悲しくなった。2頭の写真も動画も、数え切れないほど残っている。でも、この汚れほど、去っていった犬たちを私に思い出させるものはない。それは、確かにここにあの2頭が生きていた証だ。汚れだけれど、汚れじゃない。私には、それはあの子たちからの置き手紙のように見える。だから、やっぱり消せない。

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 「今はいい塗料があるんスよ」と現場監督は言った。「簡単に塗れますよ」。壁を塗り替えたら、部屋の印象も明るくなって、気持ちも切り替わるだろう。ハリーは前にいた犬たちとは違って、壁に寄りかかるような寝方はしない。彼は堂々と部屋のど真ん中でバタリと倒れて寝ているし、定位置はリビングにあるソファだ。だからきっと、これからハリーが壁を汚すことはないと思う。塗り替えるのであれば、今だ。工事は一度にやってしまうのが効率的だし、壁の塗り替えは夏場がいいに決まっている。

 現場監督から送られてきた見積り書を眺めつつ、夫と話し合った。エアコンは必須、網戸も同じ。ベランダの修理は費用が嵩むので今回は見送り。階段の噛み痕、寝室のドアとフローリングの爪痕も、ハリーが今後もイタズラをする可能性が大いにあるため、限界の状態になるまで気にしないことにした。壁の塗り替えは、もう少し先でいいと思う。壁に残された汚れが上塗りされたからといって、思い出まで塗りつぶされてしまうわけがないことは理解している。それでも、もう少しだけ、あの2頭の存在をこの家の中に残してあげたいと私は思うのだ。

 

 

この連載は月2更新でお届けします。
次回2017年7月30日(日)掲載