犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.6.30

44雨はイヤでも水は好き


 私が住む琵琶湖のあたりもとうとう梅雨入りしたそうだ。しかし、今年は気象庁が統計を取り始めた1951年以降、最も遅い梅雨入りだったらしい。それもそのはずで、6月下旬になっても空は抜けるように青く、美しく、ベランダに山ほど干した洗濯ものはあっという間に気持ちよく乾き、ハリーは毎日ザブンザブンと元気に泳いでいたのだ。ずぶ濡れになるまで泳いだあとも、浜辺で何度か体を振れば、絨毯のようにみっしりと隙間なく生えたハリーの毛に吸収されたたっぷりの水も、ほとんどすべてきれいに乾いてくれた。それほど、心地よい天気が続いていた。
 天気がいいのはうれしいことだが、なかなか梅雨入りしないことで気になっていたのは琵琶湖の水位である(そんなの私だけだろうか)。怒った滋賀県民が京都府民に対して「琵琶湖の水、止めたろか」と言うなんて都市伝説があるが、あれはまったくの誤解だと思う。滋賀県民は基本的に穏やで優しい人が多いから、「水止めたろか」なんて乱暴なことを言うわけがないのだ。むしろ、「お水、きれいに溜めときますんで、流してええときに言うてくださいね」ぐらい、普通に言いそうなんである。
 ということで、滋賀県民である私は焦っていた。このまま梅雨入りが遅れれば、関西の水がめである琵琶湖の立場は!? これから夏なのに水不足だったらどうしよ? 琵琶湖の立場よりもそっちが重要じゃない? と、一人で心配していたのだ。自分でも不思議なのだが、年を重ねると、それまでまったく気にならなかったことが、いきなりとても気になりはじめる。そして、とても気になりはじめるそのことは、他人からしたら究極にどうでもいいことが多い。私の場合、それが琵琶湖の水位というわけなのだ。
 そんな心配な日々を過ごしていた6月だったのだが、第三週に入ったあたりで、ようやく、雨がぽつりぽつりと降るようになり、ぐっと湿度も高くなって、第四週を迎えると、めでたく関西は梅雨入りした。私は素直に喜んだ。これで庭木に水をやらなくて済むし、なにより、琵琶湖の水位は安定である(たぶん)。しかし、梅雨入りでがっくりきている生きものがわが家にいる。もちろんハリーである。
 実はハリーは雨が嫌いだ。あれだけ泳ぐのになぜ雨が苦手なのかまったくわからないが、少しでも雨が降っていると外に出たがらない。それでも無理に外に出すと、雨粒が顔に当たるのがイヤなのか、忙しく瞬きをしながら鼻にしわを寄せて、白い前歯をちらっと見せて、鼻からブシュッ!と音を立てたりする。リードを引っ張っても、首のまわりのダブダブの皮膚が首輪に押されて上へ下へと移動するだけで、てこでも動かない。丸くて大きな目でじっとこちらを睨んで、「動かないよ、絶対に」と主張する。
 梅雨の雨が降り出してからは、ハリーは朝の散歩をサボって家でまったり過ごすようになった。朝のトイレさえ済ませれば、ハリーには用事も仕事も見たいテレビ番組もないから、寝ているだけである。それはそれで楽しそうなのだが、気になるのは、せっかく少しだけ痩せたハリーが再び太ってしまわないかということと、ヒマを持て余したハリーが家の中でいたずらをはじめたことだ。私の枕を皿回しのように回しまくるハリーに困った私は、雨のなかハリーを歩かせるのを諦めて、車に乗せて琵琶湖のすぐ前までわざわざ連れて行き、泳がせることにした。一体何が散歩なのか、誰が飼い主なのか、意味がわからなくなってきた。私は仕事がしたいんだ。お前に振り回されて一日過ごすわけにはいかないんだよ!!
 ハリーは雨が嫌いだというのに、なぜだか琵琶湖を見るといきなりスイッチが入るようで、雨がザーザー降っている浜辺をいつものように爆走し、水にも遠慮なく飛び込んでいる。雨と湖の水の差はなんなのだ。どこで差別化しているのだ。飼い主はどこまで妥協すればいいのか。この状況は傍目に不思議ではないのか? まあいいや、ハリーは楽しそうだし、雨も降って琵琶湖には水がたくさんあるし、私はずぶ濡れだけど、これでいいんだろう……と、無理に納得する日々だ。
 ちなみに滋賀県は琵琶湖を「関西の水がめ」と表現することを避けているようだ。なぜならその表現は、琵琶湖をまるで無機質な入れ物のように思わせるからだという(と、若干ムッとしているらしい。参考:「琵琶湖は、近畿の水がめ」はもうやめよう
https://www.sankei.com/west/news/141116/wst1411160010-n1.html
)。長年にわたり琵琶湖を水がめと呼ばれ続けた滋賀県が傷ついているような気がしてならない。とりあえず、ハリーは琵琶湖が大好きだから、滋賀県のみなさんは元気を出して欲しい。


 

 

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この連載は月2更新でお届けします。
次回は7月30日(火)掲載です。