落語で哲学 中村昇

2017.11.14

13恋愛とみかん(4)

 

 長崎県の諫早在住の作家に野呂邦暢という人がいた。先日直木賞をとった佐藤正午(佐世保在住)に影響を与えた人だ。この人の作品に『白桃』というのがある。白い桃を中心に年若い兄弟の感情の襞が微妙に揺れうごいていく。白桃は、この短篇小説のいわば「不動の動者」のような役割を演じている。世界は、白桃に支配され、そのまわりを人間たちが右往左往する。白桃の描写をみてみよう。

 皿にのっている桃のたっぷり水気をふくんだ果実の表皮にはうすいにこげのようなものが生えている。みつめているうちに金色に輝く桃の内部にはあたかも一つの光源があって、そこから淡い透明な光が外にひろがり、テーブルを明るくしているような感じさえしてくる。(『白桃』みすず書房、1~2頁)

桃からは、光が溢れている。テーブルを明るくし、その前にじっとたたずむ二人の内部を射抜く。この白桃は、後半で、兄弟の帰途をつつむ月と照応している。月光が夜の片隅を照らすように、白桃は、登場する人物の心情をレントゲンのように透かしていく。白桃も月と同じように、地球には属していないかのようだ。
 さて、丸善の絵本のお城の頂にそっとのせられたのは、檸檬だった(梶井基次郎によって)。それは、「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」である。そこにある書籍群とは、まったく異質の鮮やかな黄色い爆弾が、古今の知識や作品をことごとく爆破してしまう。何と鮮烈な夢想であり切断だろう。この世の秩序や統一を一瞬にして、檸檬は崩壊させる。この檸檬が、異次元から丸善へ侵入してきたのは、あきらかだろう。
 芥川龍之介の『蜜柑』は、どうだろうか。沈鬱な主人公を、なんでもない蜜柑が卒然と変化させる。娘も主人公も、それ自身は何も変わらないのに、汽車の窓から蜜柑が放たれたとたんに、すべては一変してしまう、不思議なことに。「心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑」によって、車内はひととき異世界に変容する。この短篇では、果物の底知れない威力が存分に発揮されているといえるだろう。
 いずれも果物は、超越的なものとして登場する。まるで、この世のものではないかのようだ。たしかに果物は、他の事物と同じように、この現実世界に存在している(しかも、かなりひっそりと)。だが、色鮮やかな果物という異物は、この世の枠内には、おさまってはいない。
 そもそも果物のあり方がとてつもなく不思議である。穀物や野菜などとちがって、かならずなければならないわけではない。食べなくても、われわれは充分生きていける。ようするに、食べ物として斜に構えているのだ。動物でいえば、(どう考えてもエイリアンである)昆虫に似ている。
 とても美味しいのに、余所者の佇まいをし、存在も無駄に美しい。果物のような原色が、われわれの世界に必要だろうか。原色のみならず、艶っぽいのは、なぜか。水が滴るのは、いかなる理由か。梨はなぜあんなにみずみずしいのか。しかも形も、いずれの果物も堅固で有無を言わせない。孤島に住む厳めしい王のようだ。柿はどうか。あの硬さは、頑なすぎないか。パイナップルは、いかにしてあの面妖な形態を身にまとってしまったのか。
 今回は、このような果物が、世界から超越し、一人の若者(若旦那)を翻弄し、もう一人の若者(番頭さん)を破滅させる物語である。しかも、夏の暑い盛りに。
 「千両みかん」は、こんな噺だ。(枝雀、小三治、志の輔のこってりした話し方も捨てがたいが、今回は、あっさり味の「志ん生+志ん朝」ヴァージョンで)

 ある大家の若旦那が病気になり、食事もしなくなりどんどん衰弱していく。親御さんも大層心配して、いろいろな医者に診てもらうが、原因がよくわからない。ある名医が「どこも悪いところはない。これは気の病で、何か心に思っていることがある。その思っていることをききだして、叶えてやれば、病気は治る」という。そこで、父親である主人は、番頭の佐兵衛を呼んで、「おまえは十三の時から奉公にきていて、小さい時分から倅の面倒をよく見てもらった。お前さんには、いろいろ相談もしている。何を思いつめているかききだしてくれないか」と頼んだ。
 若旦那のところにいって訊いてみると、「言っても、どうせ叶わないから、言わずにこのまま死んでいくよ。言ってしまうと、叶えてやれないからといって、お父つぁんまで死んでしまう。言うも不孝、言わぬも不孝だ」という。「話してくださいよ。なるほど叶わないってわかってから、死んでも遅くはないじゃないですか」などどいって、番頭が我慢強くききだすと、ようやく白状した。
 若旦那は「みかんが食べたい」と言う。番頭は、「なんだ、そんなことなら私が買ってきますよ。座敷中みかんで埋めてあげますよ」とうけあう。若旦那は、「もし買ってきてくれないと、私は長くはないよ」という。
 早速主人に報告すると、旦那は、難しい顔になって、「みかんが食べたい。それは、困ったねぇ。とんでもないことを言ったもんだ。お前は、買ってくるといったのか」という。番頭は、「もちろんです。私が今みかんを買ってきますから」とこたえると、「どこにみかんがあるんだい。お前、今何月だと思っているんだ」と旦那はいう。
 「今は、真夏の土用の八月ですよ。夏の盛りにみかんがあるかい。どこにも売ってないだろう」。番頭は、はっと気づいたがもう遅い。「お前が、いったん喜ばせたんだろ。今さら、ないと言えば、倅はがっかりして死んでしまうよ。そうなればお前は、主殺しになる。磔だ。きっと訴えてやるからそう思え。江戸中探してみかんを手に入れてくるんだ」と言われた。
 これはたいへんと思って、番頭の佐兵衛は、片っ端から果物屋にいく。「みかんありますか?」「今、何月だと思っているんです」「みかんありますか?」「あんた、いくつになるの?」「みかんありますか?」「うちは、金物屋だよ」といった具合に、この時節どこにいっても、みかんなんかありはしない。店の人から、以前見た磔の話をくわしく聞いて、気を失いかける。
 同情した店の主人が、神田多町の問屋街へいけば、青物問屋の囲い物で、みかんがあるかもしれないと教えてくれた。何軒か問屋をまわると、ある問屋でみかんがあるという。蔵のなかで囲っているという。蔵のなかを探してみると、箱のなかの腐った多くのみかんのなかから、ひとつだけ奇麗なみかんがでてきた。
 大喜びした佐兵衛さんが、値段を訊くと、「千両」だと言う。「それは、高い」と言うが、問屋さんに一蹴される。「この一個のみかんのために、毎年、何箱も、蔵にみかんを囲っているんだ。高くはない」と言う。番頭さん、すぐに店にもどって旦那に報告すると「そりゃ、安いなぁ。倅の命が千両で助かるんだ。安いもんだよ」という。早速、千両箱をもって、みかん一個買ってくる。
 いわれのないお金は、びた一文ださない、あのしみったれの旦那が、みかん一つに惜しげもなく千両をだす。「若旦那、いいですか、このみかん千両ですよ。しっかりお食べなさい」と番頭は言って、みかんを若旦那にさしだす。
 若旦那、ゆっくり食べていく。皮だって五両ぐらい、筋も二両、全部で十袋あるから、一袋百両だ。あぁ、百両食べちゃった、あ、二百両食べた…と、番頭さんは、食べるところをじっと見ている。喜んで食べた若旦那、三袋残して、これをお母さん、お父つぁん、そしてお祖母さん(お祖母さんではなく、番頭さんに一袋あげるヴァージョンもある)にあげておくれと言う。
 その三袋のみかんをもって、若旦那の部屋の外へでた番頭は、「俺が十三の時から奉公に来て、一所懸命働いて、来年、暖簾分けして貰う金がせいぜい三十両か四十両。よくくれて五十両が精いっぱいだ。このみかん三袋で三百両…。えーい、長い浮世に短い命、どうなるものかいっ」番頭、みかん三袋持ってどこかへ行ってしまった。
 註のような補足をすれば(皆さん、枕で話します)、今は、一年中みかんを食べることができるけれども、当時は、その季節のものしか食べることはできなかった。みかんは、冬の食べ物。今もみかんの旬は、冬。千両は、標準的な計算では、今の金額でいえば、1憶3千万円くらい。志の輔は、計算方法や時期によって1億から8億円といっている。

 この噺は、構造といい内容といい、崇徳院と酷似している。ちがいは、思いつめる対象が、崇徳院はお嬢さんで、こちらは、みかんというところだけだ。崇徳院と千両みかんの似ている点を挙げてみよう。
①大店の若旦那が煩う、②医者に訊いてもよくわからない、③気の病だといわれる、④主人が息子からききだすために他の人に頼む(熊さん、番頭さん)、④病の原因を探しだせるとその頼まれた人がうけあう、⑤その原因となる人(物)を探すのが、実は容易じゃない、⑥見つけだせず若旦那が死ぬと、主人から訴えられて死罪になるといわれる、⑦頼まれた人は、必死になって探す、⑧やっとの思いで見つける。
 これだけ同じところがある。小三治や志の輔の話し方だと、番頭さんも恋煩いだと最初から決めつけ、若旦那も、まぎらわしい答え方をする。みかんの形容として「みずみしい、やわらかな、ふっくらとした、肌のつやつやとした、肌理のこまやかな」などという。
 つまり、千両みかんの背後には、崇徳院がそのまま隠れているといっても過言ではない。ほとんど同じ噺なのだ。ただ、大きなちがいがふたつある。ひとつは、もちろん恋い焦がれる対象が、一方は女性であり、他方はみかんだということ。もうひとつは、千両みかんの方は、恋い焦がれる対象が、手に入った後のことも話されるということである。
 崇徳院は、純粋な恋愛を、純粋なまま「真空パック」にした話だとすれば、千両みかんの方は、超越していた相手(恋愛対象)が下界に降りてきたところまで話してしまう。崇徳院では、若旦那とお嬢さんは、恋の煩いをかかえたまま話は終わる。「末に逢はむとぞ思ふ」といいながら、最後まで会わない。会ったのは、江戸中探しまわっていた熊さんと鳶の頭だけだ。若旦那とお嬢さんとの幸福な、あるいは、不幸な未来(純粋な恋愛が、純粋でなくなる状態)は描かれない。美しい清らかな恋愛話のまま終わる。
 ところが、千両みかんでは、みかんと若旦那は、現実に出会ってしまう。これは、大きな違いだ。若旦那は、病になるまで恋い焦がれたみかんを、この上なく美味しくいただく、七袋(七百両分)も。ゆっくりと食べていく。これは、まあ恋愛の成就といっていいだろう。激しく恋していた二人(一人と一個)が、めでたく出会ったのだから。純粋な恋愛(一人で煩い苦しんでいた頃)の余韻のなかで、二人(一人と一個)が極上の幸福を味わっている。
 しかし、この幻のような幸せは必ず崩れていく。恋愛が幻想であることが、ここから見事に描かれていく。残りの三袋を前にした番頭は、大きな勘違いをする。みかん三袋を三百両そのものだと思ってしまう。このみかんが、千両だった(手にしているのは、三袋三百両だが)のは、夏場のみかんだったからなのに。冬であれば、千両みかんもただのみかんであり、誰にでも買える安いものだ。みかんはみかんなのだから。みかんそのものに千両の価値があるわけではない。
 夏という季節によってみかんは、千両になった。これは、恋愛も同じだろう。どんなに好きになり、どんなに超越した対象(アイドル=偶像)になったとしても、相手はたんなる人間だ。それが、もろもろの理由(これが、結局よくわからないのだが!)によって、「人間以上のもの」(恋する相手)になっただけなのである。幻想であり、大いなる勘違いだ。恋に落ちた人間にとって、相手は、とてつもない唯一無二の存在であるが、そうじゃない人にとっては、ただの人間にすぎない。他人の恋愛話が、どうしてもうまく理解できない(全然面白くない)わけがここにある。
 みかんはみかんにすぎないように、人はただの人なのだ。当りまえだけど。夏のみかんが非常に希少だから価値があると錯覚したように、好きになったからかけがえのない人だと錯覚する。しかし、所詮、みかんはみかん、人は人だ(何度も言い過ぎだが)。恋という幻想が消滅したあとは、その相手は、ただの「35億分の1」にすぎない。
 このように考えれば、「千両みかん」は、「白桃」「檸檬」「蜜柑」のような果物超越譚(?)でもあると同時に、恋煩いの後の切なさ(実際につきあうことの困難さ、結婚生活の味気なさ、幻滅)を、番頭の逐電というどんでん返しで、ちょっとだけ垣間見せる秀逸な噺だといえるかも知れない。夜逃げのようにしていなくなった番頭は、この三袋のみかんを、どんな思いで食べるのだろうか。番頭の「その後」は、恋から覚めた人間の「その後」も表しているといえるだろう。
「みかん」「みかん」とかなり引っぱった割には、あっさりとした落ちだった。

(第13回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年12
月14日(木)に掲載します。