落語で哲学 中村昇

2018.3.13

16死について(3)

 

 「幽霊」とは、どのような存在なのだろうか。生きているわれわれは、はっきりと身体と心をもって、それぞれの眼の前に存在している。視覚で確認でき、動きまわり、喋れば聴覚が刺激され、お風呂に長く入っていない相手なら、否応なく嗅覚も使わざるをえない。何なら、触覚や味覚(?)でも、その存在をたしかめられる。これが、生きている人間であり、<この世>の人たちだ。
 それに対して、記憶のなかでは、たしかに生きいきと蘇ってくるけれども、世界中どこをさがしても、もはや感覚ではとらえられない人たちもいる。死んでしまって、完全に向こう側に行ってしまった人たちだ。<あの世>の存在(というか「無―存在」)である。この人たちは、もうすでに存在していないので、無の領域にいる(つまり、端的に「いない」)といっていいだろう。
 こうして、わかりやすい論理法則がきちんと成立する。「排中律」。「人間は、生きているか、死んでいるかのいずれかである」。なるほど。恒真命題だ。われわれ人間は、「生」という第一の領域と、「死」という第二の領域のどちらかに「存在」する(第二の領域では、実質は、「存在しない」)。では、「幽霊」は、どこにいるのか。
 幽霊の存在のおかげで、この排中律が、まちがいであることがわかるだろう。幽霊がいてくれたおかげで、「生」でも「死」でもない第三の領域が開かれるからだ。幽霊は、ときどき、(おそらく)気が向いたときに<この世>にやってくる。しかも、ごく淡いあり方をして。まさに、ジャック・デリダのいうrevenant(帰ってくる人=幽霊)だ。
 視覚では、ぼんやりとらえられるが、触ることはかなわない。聴覚に訴えかけたり(ラップ音)、嗅覚だけで(例えば、お線香の香りで)気づく場合もある。しかし、生身の人間のように、全面的に<この世>(第一領域)に登場することは期待できない。だって、何といっても、<幽霊>なのだから。
 さて、幽霊と同じように、第三の領域を垣間見せてくれる現象は、他にもある。夢だ。覚醒(第一の領域)と深い睡眠(第二の領域)とのはざま。「意識が全くないか、意識がはっきりしているかのどちらかだ」という排中律を破る夢である。夢うつつのときに、<あちらの世界>とつながっているといったのは、かのルドルフ・シュタイナーだ。

 私たちは、生まれてから死ぬまでの通常の人生のなかにも、霊界での
 体験と似たものをもっています。それは夢の体験です。夢は、私たち
 の感覚による体験ではありません。それにもかかわらず、感覚生活を
 思いださせる形象から成りたっています。私たちはこの夢の像のなか
 に、死から新しい誕生までの間に現れてくるイメージの現れ方の一種
 の弱い反映をもっているのです。(『死について』高橋巌訳、春秋
 社、2011年、73頁)

 あるいは、私が最も好きな短篇である内田百閒の「冥途」は、この第三の領域を見事に描写している。冒頭部分。

 高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静か
 に、冷たく、夜の中を走っている。その土手の下に、小屋掛けの一ぜ
 んめし屋が一軒あった。カンテラの光りが土手の黒い腹にうるんだ様
 な暈を浮かしている。私は、一ぜんめし屋の白ら白らした腰掛に、腰
 を掛けていた。何も食ってはいなかった。ただ何となく、人のなつか
 しさが身に沁むような心持でいた。卓子(テーブル)の上にはなんにも
 乗っていない。淋しい板の光りが私の顔を冷たくする。(『冥途・旅
 順入城式』岩波文庫、
1990
年、118頁)

 この不思議な一ぜんめし屋で、自分が幼かった頃の父親と遭遇する。<あちら>と<こちら>のはざま(第三の領域)で出会う。隣席の四五人の客のなかに、父はいた。

 「お父様」と私は泣きながら呼んだ。
 けれども私の声は向うへ通じなかったらしい。みんなが静かに立ち上
 がって、外へ出て行った。(121頁)

向こうは気づかない。知らない人たちと連れだって、土手の上をどこかへ帰っていく。そのうち、他の人たちと溶け合って、父の姿は、わからなくなる。

 私は涙のこぼれ落ちる目を伏せた。黒い土手の腹に、私の姿がカンテ
 ラの光りの影になって大きく映っている。私はその影を眺めながら、
 長い間泣いていた。それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰って来
 た。(121122頁)

この領域を馬鹿にしてはいけない。こここそが、本当の<場所>かもしれないのだから。なにしろ、夢で多くの発見はなされるし、一日のなかの第三領域(昼でも夜でもない)である<黄昏>のもつとてつもない魔力は、日々われわれが経験しているではないか。異次元への扉が開くのは、この刻限にちがいない。この<場所>に対する、ある種の懐かしさこそが、われわれの心情の奥底にあるものだろう。
 田辺元は、生と死について、『碧巌録』の公案を手がかりにして考えていく。

 私の選ぶ公案というのは、碧巌集第五十五則として伝えられて居る道
 吾一家弔慰という則である。唐代に起ったその話はこういうのであ
 る。生死の問題に熱中する若年の僧漸源(ぜんげん)が、師僧の道吾に
 随って一檀家の不幸を弔慰したとき、棺を(う)って師に「生か死
 か」と問う、しかし師はただ「生ともいわじ死ともいわじ」と言うの
 みであった。けだし漸源の意、もし生ならば弔慰するに及ばず、また
 もし死ならば弔慰も通ずることなからんという二律背反に悩まされ
 て、師道吾に問をかけたわけであろう。しかし師僧はこれに対しいず
 れとも明確なる答を与えなかった。(『死の哲学』岩波文庫、
2010
 年、18頁)

 弔問に行った先で、そこに横たわる遺体は「生なのか死なのか」と漸源は師にきく。この問の意味は、もし死んでいるのであれば、もはや無なのであるから、弔う必要はない。他方で、生きているのであれば、弔うのは、そもそもおかしい。いずれにしても、弔問に来た意味はないではないか、というのだ。まさに「排中律」をつかって、この真面目な修行僧は、師に問いかけているのだ。
 田辺は、この公案にたいする考えをつぎのように述べる。

 漸源ここに至って始めて、生と死とが互に両立せざるものとして区別
 せらるるにかかわらず、それを矛盾律に従い、生か死かと判定する能
 わざるものなること、両者を不可分離の聯関において自覚せる者に対
 してのみ、その問が意味を有するものなることを悟り、先師道吾が自
 分の問に答えなかったのは、彼をしてこの理を自ら悟らしめるための
 慈悲であり、その慈悲いま現に彼に働く以上は、道吾はその死にかか
 わらず彼に対し復活して彼の内に生きるものなることを自覚し、懺悔
 感謝の業に出でたというのである。(1819頁)

田辺は、師の道吾は、生と死は排中律(生と死が、同時に存在すると矛盾してしまい、それを避けるという意味で矛盾律)によって二分されるようなものではなく、生と死は「不可分離」の関係であるといったというのだ。排中律や矛盾律は、生死の真相を捉えていないというわけなのである。
 死と生は、いわば、表裏の関係にあり、しかもその表裏は、つねに反転し、浸透している。あるいは、その二つの領域をつつむ第三の領域に支えられている。生から死へ、死から生へ。その境界は曖昧で、滲み流動していく。
 そもそも、「生」も「死」も、言葉による切り分けだ。「生」という語を使ったとたんに、「生でないもの」が、その裏側に貼りつく。「生」と「死」が対立して、それ以外は存在しないかのような考えを生みだす。しかし、この世界の本来のあり方は、そんな二分法とはかかわりがない。生でもなく、死でもなく、<ありのまま>しかない。だから、真の<ここ>は、生でもなく死でもない、あるいは、生でもあり死でもある<幽霊>的領域だといえるだろう。
 田辺の言葉で、結論をいえば、「生と死といずれも人間の自覚に属し、しかも相関聯するものとしてのみ自覚せらるること、単に外界に生起する出来事とは異なるのであるから、これを了知するには、何よりもまず自ら両者を表裏相不可分離の聯関において経験し自覚しなければならぬ」(19頁)ということになるだろう。そして田辺は、このような生死の境界を越えたもののかかわりを「実存協同」という。
 さて、今回は、「三年目」という噺である。

 とても仲のいい夫婦がいた。ところが、おかみさんの方が、患いついてしまった。亭主はとても心配して、毎日、懸命に看病している。何人もの医者に診せたが、なかなか治らず、重くなるばかりだ。
 「お菊や、少しは気分がよくなったかい」
 「相変わらずでございます。あなたにはご苦労をおかけして、まことに相済みません」
 「何を言ってんだい。夫婦の間じゃないか。そんなこと気にしてちゃいけませんよ。それより早くよくなっておくれよ。お医者様が、薬を調合してくださった。薬をお飲み」
 「あとで頂きますんで、どうぞそこに置いといてください」
 「いや、あとはいけません。今すぐお飲みなさい。見ている前でお飲み。人が見ていないっていうと、薬を捨ててるそうじゃないか」
 「いや、もう薬は結構でございます。先だって、お医者様が、お帰りになるとき、あの病人は、もういけない。早いとこ皆さんにそれとなくお別れをさせた方がいいと仰ってたじゃありませんか」
 「馬鹿だね、お前は。そんなくだらない話。医者のいうことを真に受けちゃいけませんよ」などと会話を交わしている。
 そのお菊さん、ひとつだけ、心残りがあり、どうしても死ぬことができないという。なにか気に病んでいることがあるから、なかなか治らないんだ、それを言ってごらんと旦那はいう。
 おかみさんがいうには、自分が死んだ後、旦那さんがもらった後添えが、自分がそうしてもらったように、とても優しく可愛がってもらうのではないかと思うと、どうしても臨終できないという。
 旦那は、それに対して、「なんて馬鹿なことを考えているんだ。女は、お前だけだ。決して後妻なんてもらわない。生涯一人で暮らしますよ」と答える。
 だが、お菊さんは、「そうは言っても、ご両親やご親戚が、黙っていらっしゃいません。かならず、後添えをもらうよう説得されて、しまいには、断りきれなくなってお持ちになります」という。
 それに対して、旦那は、ある約束をする。「どうしても断りきれなくて、後妻をもらったとしたら、その婚礼の日に幽霊となって出てきておくれ」という。「私は、怖くはない、嬉しいくらいだ。ただ、嫁は怖がって、実家に帰るだろう。そうすれば、否が応でも、一人で暮らすことになる」と言って安心させた。お菊も、「うれしい。じゃ、八つの鐘(午前二時)を合図にきっと出てきます」という。
 この約束で安心したのか、おかみさんは、亡くなってしまう。旦那さんは、泣くなく野辺送りをし、初七日、四十九日、百か日とすぎる。すると案の定、まわりから後妻の話がでてきた。さんざん断ったが、どうしても断り切れずに、新しい奥さんをもつことになってしまう。
 婚礼の晩、奥さんを先に寝かせ、約束したとおり、八つの鐘が鳴るのを今か今かと待っていた。ところが、鐘が鳴り終わったのに、お菊さんは、出てこない。生きていた頃からそそっかしかったから、隣の家に出たんじゃないか、とか、十万億土という遠いところから来るんだから、初日には間に合わなかったんじゃないかとか考え、それから、毎日、深夜に先妻が来るのを待っていた。
 しかし、何日、何月たっても、お菊は現れない。しかたなく旦那はあきらめて、新妻を可愛がるようになる。しばらくすると、玉のような男の子も生まれ、幸せな日々が過ぎていった。ところが、お菊がなくなって三年目になり、三周忌の法事がすんで家に帰ってきて、疲れからかひと眠りした。夜中にふと目が覚める。
 八つの鐘が鳴った。行燈の明かりが暗くなり、なぜか生温かい風がふっと流れてくる。いやな心持になる。すると誰かの気配がした。枕屏風の向こう側から先妻の幽霊が現れる。緑の黒髪を乱して、こちらをじっと見つめている。
 旦那は、びっくりして「昼間の法事のお礼に来たのかい。出るんなら、なんで二三日前に速達の一本も、寄越さないんだ。そうすりゃ、驚かないんだ」などという。
 向こうは、「うらめしや、うらめしや…」といっている。
 「やだよ、そんなこといっちゃ。何がうらめしいんだい?」
 「うらめしいじゃありませんか。私が亡きあとは、後添えは、けっし
てもたないといいながら、こんな綺麗なおかみさんをもって、赤ちゃんまでこしらえて、うらめしゅうございます。あなた、それじゃ、約束がちがうじゃありませんか」
 「冗談じゃないよ。そうなりゃ、私はかけあうよ、幽霊でも何でも。断りきれない場合は、一応後添えをもつって言っただろ。婚礼の晩、お前を待ったよ。遠いところからだから遅れているのかもしれないと思って。きちんと約束をしたんだから、毎日毎日、待ったよ。蝙蝠じゃないが、昼間寝て、夜ずっと待ってたんだよ。お前の方が、さきに約束を破ったんじゃないか!」
 「いえ、存じておりました。でも無理じゃありませんか。私が死んだときに皆さんで私を坊さんにしたでしょ」
 「そりゃそうだよ。決まりだもん。親戚じゅうで、一剃刀ずつあてて、お前さんを坊さんにしました。それがどうかしたのかい?」
 「ほら、ごらんなさい。坊さんのままで出てきたんでは、あなたに嫌われると思って、毛の伸びるまで待ってました」

 田辺によれば、生死を超える関係(実存協同)は、つぎのようなものである。

 死復活というのは死者その人に直接起る客観的事件ではなく、愛に依
 って結ばれその死者によってはたらかれることを、自己において信証
 するところの生者に対して、間接的に自覚せられたる交互媒介事態た
 るのである。(『死の哲学』22頁)

お菊が「復活」して、亭主のもとに現れたとき、二人は愛によって結ばれた「実存協同」であることを自覚したことだろう。死者と生者とが、幽霊の住む第三の領域で出会うとき、そのかかわりを支えているのは、まさに至純の「愛」なのである。
 しかし、こんなおかたい結論では、どうにも気恥ずかしい。そこで、蛇足を一つ。第三の領域からやってきたお菊が、婚礼の夜に、どうしても来ることができなかったのは、髪の毛がなかったからだという。
 「髪」は、何といっても視覚でとらえられ(「緑の黒髪」)、触覚や嗅覚も深く刺激する。第一の領域の象徴とでもいえるような「生きたもの」だ。第三の領域にいるはずのお菊が、この「生きたもの」(第一領域)である「髪の毛」がないことによって、三年も躊躇した。お菊という幽霊は、本来はかかわりのないはずのもので、随分ためらっていたのだ。
 この噺、「存在」と「無」と「幽霊」という三つの領域を織りこんだ、かなりひねりの効いたものではないか。

 

(第16回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2018年4
月10日(火)に掲載します。