落語で哲学 中村昇

2016.11.21

03笑いの破壊力

 禁欲主義的理想は何を意味するか?―芸術家にあっては、それはなんの意味ももたないか、あるいはあまりに多様な意味のものである。哲学者や学者にあっては、高い精神性の最も好都合な前提条件をみつけるための嗅覚か本能みたいなものである。僧侶たちにおいては、それこそ本当の僧侶的信仰であり、彼らの力の最上の武器であり、権力への「最高」の免許でもある。最後に聖者らにおいては、冬眠への口実、彼らの「最後ノ欲望トシテノ栄誉欲」、虚無(「神」)における彼らの休息、彼らの錯乱の形式である。しかし、およそ禁欲主義的理想が人間にとってこんなにたくさんの意味をもっていたということ、このことには人間の意志の根本的事実があらわれている。すなわち、その「空虚ニ対スル恐怖(ホロル・ヴァクイー)」が示されているのだ。人間の意志は目標を必要とする、―そして何も欲しないよりはむしろを欲する。―私の言うことがわかるか?……わかったか?……「さっぱりわかりません先生!」―では始めからやり直すことにしよう。(ニーチェ、「道徳の系譜」、秋山英夫訳、白水社、一部省略、語句変更あり)


「笑い」とはいったいなんだろうか。今回は、このあたりをさぐってみたい。「笑い」にもいろいろあるだろう。哲学の世界でも、ショーペンハウアーがヘーゲルに難癖をつけるところとか、ウィトゲンシュタインの含んだ笑いとか、ソクラテスのうんざりするしつこさとか、笑えるところはいろいろある。弟子のマルコム夫婦とウィトゲンシュタインの三人で、散歩の途中、自転公転をへとへとになるまでやる「太陽系ごっこ」(月がウィゲンシュタイン、地球がマルコム、太陽がその妻)などは、秀逸だ。
 小説もいろいろある。ユーモア作家太宰治の「畜犬談」とか、ドストエフスキーの『永遠の夫』とか、内田百閒の「間抜けの実在に関する文献」とか、藤枝静男とか、清水義範とか、高橋源一郎とか目白押しだ。もちろん、他の分野にも日々の暮らしにも「笑い」は、無限にあるだろう。こまかい「笑い」の迷宮に入りこむわけにはいかないので、今回は、「緊張の緩和」と「破壊力」という特質に的を絞って考えてみたい。
 かのカントは、笑いについて、つぎのように言っていた。

およそ激しい、身体をゆさぶるような哄笑をひきおこすものには、何か理屈に合わないものが含まれているに違いない。笑いは緊張した期待が突然無に転化することから生じる情緒である。(『判断力批判』篠田英雄訳、岩波文庫)

 さすがになかなかいいところを突いている。「何か理屈に合わない」というのは、その通りだろう。ホリケンや鳥居みゆきの動きや言うことに感じる滅茶苦茶さからは、笑いの源が湧出しているような気がする。なんといっても、この世界の存在が、そもそもわけがわからないのだから、「理屈に合っている」ふりをしている日常をこなごなにするのは、まったく正しい。本来の場所(「非合理という故郷」)にわれわれを導いてくれるというわけだ。人間の根源的な感情「懐かしさ」が「笑い」とともにやってくる。
 そして、「緊張から無への転化」という事態。これは、もちろん天才落語家・桂枝雀の「緊張の緩和」と同じだと言っていいだろう。枝雀師匠は、こう言う。

すなわち「緊張の緩和」がすべての根本なんですわ。はじめグーッと息を詰めてパーッとはき出す。グーッが「緊張」でパーッが「緩和」です。「笑い」の元祖ちゅうことンなると、我々の祖先が大昔にマンモスと戦うてそれを仕留める。戦うてる時はエラ緊張でっさかい息を詰めてる。けど、マンモスがドターッと倒れたら息をワーッとはき出して、それが喜びの「笑い」になったんや……とねェ。(『らくごDE枝雀』ちくま文庫、50頁)

 なるほど。その通りかもしれない。でも、たとえば、こういう場合はどうだろうか。イチローが、高いフライを追いかけて、フェンス際で、ありえないようなジャンプをして捕球する。これは、あきらかに「緊張の緩和」(「緊張から無への転化」)だが、笑いはおこらない。観衆は、感銘を受け拍手する。ベルクソンも言うように、「笑いは知ってのとおり、感動とは相容れない」(『笑い』)のだから。
 ところが、ほかの野手が、同じようにフライを追いかけ、失敗してボールを額に直撃させたら、どうだろうか。どっと笑いがおこるだろう。同じ「緊張から無への転化」なのに、どうしてファインプレーには感動し、派手なエラーには、笑ってしまうのか。どうも、べつの要因もかかわってくるのではないか。
 あるいは、雪の日、ひとりで歩いていて転倒しても、けっして笑えないのに、友人や家族と一緒だと、自分が転んだことを爆笑できる。これは、なぜなのか。さらに、しばしば経験することだが、退屈で死にそうな会議で、笑いがおこると、部屋全体の空気が一変する。これはなぜなのだろうか。
 20世紀最大の哲学者が、一冊まるまる笑いについて論じた。さっきも引用した、ベルクソンの『笑い』だ。この本を手がかりに、<枝雀=カント>のいう「緊張の緩和」(緊張の無化)以外の笑いの条件も考えてみよう。まずは、ベルクソンの「笑い」の定義から。つぎのようなものだ。

生をこうして機械仕掛けの方向へ向けることが、ここでは笑いの本当の原因なのである。(『笑い/不気味なもの』原章二訳、平凡社、38頁)

ベルクソンは、私たちのあり方を有機的でしなやかな流れのようなものとしてとらえる。いつも持続し途切れることのない豊饒な生命こそが、われわれの真の姿なのだ。そのような「生命」が、それとは反対の機械的でぎこちない動きを見せるとき、われわれは笑ってしまうというわけだ。これが、フロイトも『機知』のなかで、ベルクソンに触れたときに指摘した「生の機械化」である。
 しかし、これはたんに「生命対機械」という対立ではない、いろいろなレベルであらわれるものだ。「生」と「機械」とのちがいがあればいい。例えば、太った人がきちきちの服を着ていたら、その滑稽さに笑いがおこるだろう。これは、人間の生きいきと動く身体(「生」)に対して、それを覆う衣装があまりにも画一的なもの(「機械」)だからだ。
 あるいは、さきほどの野球選手のエラーの例を考えてみよう。今度は、思い通りに動かない身体の方が「機械」で、その思い(「捕球したい」)の方が、「生」になる。そもそもイチローのような名手によるファインプレーとは、思った通りに自在に身体を動かしたということだろう。この場合は、生は機械化などしていない。エラーは、その逆だ。考えていることが身体に伝わらず、身体そのものの物質としてのぎこちなさが露呈したということになる。だから、ここにも「生の機械化」があるということになるだろう。
 それでは、雪上の転倒はどうか。自分自身の身体(「機械」)を、精神(「生」)が笑う。それはそうだ。エラーと同じだといえる。だが、ひとりでは笑えない。なぜなのか。自分自身の失敗を笑うとき、機械である身体をうまくコントロールできなかった精神と、それを笑う精神とが分離しなければならない。転倒という事態そのものからはなれ、自分自身を他人のようにみなして笑わなければならないのだ。
 そのとき、傍に他人がいてくれると、笑う方の精神が、その他人に支えられて、転んだ自らの身体を制御できなかった精神もろとも笑うということになるだろう。これが、「自虐」の構造だと言えるだろう。だから、失敗した自分を笑うためには、しくじった方の自分を「機械的なもの」として突き放し、それを外側から眺める複数の精神がなければならないことになる。ここにも、「生命対機械」の対立が、ちょっと複雑になってはいるが、垣間見えるだろう。
 会議の笑いは、どうだろうか。自分たちがつくりだした機械的な状況(真面目な会議、真剣な議論などなど)を、笑うことによって破壊し、精神や生命がもっている本来の自由で無秩序な状態にするということだろう。このような笑いは、重々しい雰囲気を破壊し、一挙にべつの可能性をもたらす。これは、(いずれ、じっくり考えたいが)落語のサゲがもつ破壊力とおなじものだ。枕から入って、じっくり「ダレ場」を聴かせ、最後に「落とす」。これが、落語の醍醐味だろう。
 バタイユの強調する「笑い」の根底には、この破壊力がある。

個々のものがはっきり性格づけられてそれぞれに安定しており、また全般的な安定した秩序の内にあるような世界から、不意にわれわれの確信が覆されるような世界へ急激に移行すると、われわれは結局笑わされるのです。(『非―知』西谷修訳、平凡社、64頁)

 ここでまた、「非合理という故郷」があらわれてきた。われわれの世界は、理屈では説明できない基盤のうえにできあがっている。そのなかで、理屈の支配する社会を嫌々(?)創りあげている。そして「笑い」は、そんな社会が嘘っぱちであることを教えてくれるのだ。われわれの本当の故郷は、理屈じゃはかれないわけのわからないところだということを。これが、「笑い」の破壊力だ。
「緊張の緩和」と「生の機械化」との関係は、どうだろう。これは、同じ事態を、異なった観点から説明しているだけではないのか。「緊張し、緩和する」のは、われわれの心であり、「生きいきしていたり、機械のようであったりする」のは、その心がとらえる対象側の性質だからだ。つまり、「生が機械化」すると、こちら側は、「緊張」し、その「機械が生にもどる」と「緩和」がおこるというわけだ。だから、「枝雀=カント」とベルクソンは、「笑い」について、ちがったことをいっているわけではなく、こちら側(主観)とあちら側(客観)とのちがいに過ぎないのではないか。
 今回は、屁理屈を言いすぎて頭が痛くなった。頭痛を吹きとばすために古今亭志ん朝さんの神のような技術がいかんなく発揮される「堀の内」を見てみよう。これこそ、「笑い」の破壊力の恐ろしさ(素晴らしさ)を経験できる20分弱である。この噺では、一切の「ダレ場」はなく、「緊張緩和」(枝雀さんのいうキンカン)が、つぎつぎと雪崩のように押しよせてくる。「緊張の緩和」ではなく、いわば「緩和の緊張」状態(カンキン=笑いっぱなし)が、つづくのだ。言葉で説明しても、しょうがない。日常の秩序や約束事が、とてつもない「粗忽者」によって、根底から破壊され、ぐにゃぐにゃに変容される。
 枕では、一緒に住んでる自分の親父を忘れる男、箒を傘だと言いはり、びしょ濡れになり、壺の上下を自分の基準(下上)に無理にあてはめる頑固者がでてきて、すでに奇妙な世界が現出する。噺に入ると、杉並(お祖師様)を目指して両国に行ったり、おっかぁの腰巻に弁当の代わりに枕を入れて東京中駆けまわったり、電車の線路が帯になり、電信柱が人になる。観音様に一日だけお祖師様になってくれと頼んだり、賽銭を10日分前払いしてしまったりする。隣んちの奥さんを怒鳴りつけ、自分ちの奥さんに丁寧に謝罪する。息子の金坊に一年で八つ歳とれと言ってみたり、自分の頭をぶつけ、金坊の頭だと思いこむ。本当に無茶苦茶なのだ。
 自他の区分がなくなり、ものと人間も融合し、方角も時間も、何もかも渾沌としてくる。「あっし、どこ行くんでしょうな?」と見知らぬ人に問いかけ、教えてくれたら、「なんか教わったら、礼言いなさいよ」と逆に言う。湯屋にいくと、あがったばかりの他人の子の服を脱がそうとし、湯のなかでは、他人の尻をかいてしまう。本当に「てめえのことで精いっぱい」で「人間やめたくなっちゃう」のだ。しかし、この「粗忽者」の途方もない忘却やしくじりによって、世界は、つねに無化され、懐かしい「非合理な故郷」があらわれつづける。「笑い」のもつとてつもない破壊力によって、時空がゆがんだその宇宙に、こちらも巻きこまれていく。いいすぎだろうか。
 最後は、平岡正明にきっちりしめてもらおう。

この男は狂的である。朝起きて、顔洗って、弁当持って、家を出るという日常茶飯事がうまくやれないのだ。落語は日常性にひそむ狂気を描く芸能ではなく、革命とか階級闘争という大きな社会的テーマなしに、したがって時空は江戸の平和の中にあるのだが、そのおだやかな日常性が狂っている男を出すことに成功した。女房をまちがえる。こどもをまちがえる。ついに自分と他人の区別がつかない。歩けばまちがえ、しゃがめばまちがえ、とまればまちがえ、眠ればたぶん夢もまちがえて見る。(『大落語』(上)、法政大学出版局、151頁)

 この破壊力が、業の否定にもつながっていく。

 

 

(第3回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2016年12
月12日(月)に掲載します。