落語で哲学 中村昇

2017.4.24

08「私」とは、なにか?(3)―イヌであるとはどのようなことか

ところで、我々人間は犬のことを「動物の一種」であると考えているが、他の動物たちは犬のことを、自分たちの仲間の一種であるとは考えていない。これは注目すべき事実である。もちろん「人間の一種」と考えているわけではない。(『けものづくし 真説・動物学大系』別役実、平凡社ライブラリー、96頁)

「犬」に、犬としての独自性があるのではない。他の「動物」たちにあるそれぞれの独自性から、「犬」は常に疎隔されているのであり、従ってこそ、それらは「犬」なのである。だからもっと正確に言えば、我々は「犬」を見て、「犬だ」と判断するのではない。「他の動物ではないな」と判断するのである。他の「動物」たちによって占められたそれぞれの独自性の「空白」をそこに見るのであり、ただその「空白」こそが「犬」であることを、我々は知識として知らされているに過ぎない。「犬」という言葉の、柔軟な順応力もそこからくる。彼等はもともと「空白」なのであるから、我々の期待する可能な限りの変化に、彼等は充分順応するのである。(同書、9899頁)

  犬とは何か? このことを考えると、とてつもない暗闇にひきずりこまれる。他の動物から、仲間だとは思われておらず、しかも、人間でもない連中。独自性がなく、ただただ「他の動物ではない」だけのものたち。「空白」な存在、「柔軟な順応力」をもつ「犬」。
 ようするに、「犬」とは、ソシュールのいう「体系」のネガティヴな「空白」(差異の織物)のことなのだろうか。他のすべての存在によって否定されることによって、透きとおった姿を現わす「空白」のことなのか。
 犬にたいする恐怖は、底知れない。犬と冷静に対峙するためには、工夫が必要だ。

私は、まじめに、真剣に、対策を考えた。私はまず犬の心理を研究した。人間については、私もいささか心得があり、たまには的確に、あやまたず指定できたことなどもあったのであるが、犬の心理は、なかなかむずかしい。人の言葉が、犬と人との感情交流にどれだけ役立つものか、それが第一の難問である。言葉が役に立たぬとすれば、お互いの素振り、表情を読み取るよりほかにない。しっぽの動きなどは、重大である。けれども、この、しっぽの動きも、注意して見ているとなかなかに複雑で、容易に読みきれるものではない。私は、ほとんど絶望した。そうして、はなはだ拙劣な、無能きわまる一法を案出した。あわれな窮余の一策である。私は、とにかく、犬に出逢うと、満面に微笑を湛えて、いささかも害心のないことを示すことにした。(「畜犬談」太宰治)

  犬は何を考えているのだろうか。われわれと同じように、ことばをもっているのか。しかも、日本語を解するのだろうか。いやいや、「イヌ語」だろう。その「イヌ語」にも、種類はあるのか。ブルドッグ語とシェパード語は、異なるのだろうか。方言は、あるのか。誰にもわからない。そのわからなさが、こちらに恐怖を抱かせる。いや、恐怖を抱いているのかどうか、それすらわからない。犬のわからなさは、無類だ。

 かつて犬と同じくらいのわからなさで有名だったのが、コウモリだった。ネーゲルは、つぎのようにいう。(引用ばかりで、ごめんなさい)

 さて、周知のように、大部分のコウモリは(正確に言えば哺乳類翼手目に属する動物は)主としてソナーによって、つまり反響位置決定法によって外界を知覚する。すなわち、高感度で微妙に調節された高周波の叫び声を自分から発して、有効範囲内にある諸対象からの反響音を感知するのである。彼らの脳は、発せられる衝撃波とそれによってひき起こされる反響音とを相互に関連づけるように設計されている。(中略)しかしコウモリのソナーは、明らかに知覚の一形態であるにもかかわらず、その機能においては、われわれのもつどの感覚器官にも似てはいない。それゆえに、ソナーによる感覚が、われわれに体験または想像可能な何かに、主観的な観点からみて似ているとみなすべき理由はないのである。この事実は、コウモリであることはどのようにあることなのかを理解するために、障害となるようにみえる。われわれは、何らかの方法によってわれわれ自身の内面生活からコウモリのそれを推定することができるかどうか、もしできないならば、コウモリであることはどのようにあることなのかを理解するために、他のどんな方法がありうるのか、を考えなければならないのである。(『コウモリであるとはどのようなことか』トマス・ネーゲル、永井均訳、勁草書房、263頁)

  コウモリが、ソナーによって知覚しているのはわかる。さまざまな実験を、(コウモリではない)われわれ人間がすることによって。コウモリの振舞を、外側から観察し、ある程度、その「生態」を知ることはできるだろう。しかしそれは、コウモリのことを、本当に知ることではない。コウモリの経験を内側から知ることではない。何といっても、われわれは、残念ながらコウモリではないのだから。

たとえ私が徐々にかたちを変えていって、ついにはコウモリになることができるとしても、現在の私を構成している要素の中には、そのように変身した未来の私の状態の体験がどのようなものになるのかを、想像可能にしてくれるものは存在しないのである。変身した私の体験がどのようなものになるかを最もよく教えてくれるのは現にコウモリが体験しているものであろう。それが現にどのようなものであるのかを、われわれが知ることさえできたならば。(同書、264-265頁)

  コウモリと同じ体験を内側からしたとしても、その後、再び人間に戻ってしまったら、その体験をそのまま、「表す」ことはできないだろう。生涯(?)コウモリのままでいるようなコウモリが、自らの体験を、コウモリのまま「表す」ようには、できないだろう。やはり、どうしても外側からの報告になってしまう。そもそも、人間が、完全に(人間的なものをすべて失って)コウモリになることは、不可能であるにちがいない。とてつもなく当たり前のこと(同時に、ものすごく不思議なこと)だけれども、人間は人間であり、コウモリはコウモリなのだから。
 コウモリの話はこれくらいにして、本来のイヌの話題に戻ろう。イヌがいかなる体験をもっているか。これもまた、われわれには想像を絶している。
 イヌがどのような行動をするのか。イヌが、どんな食べ物を食べるのか。イヌが、ネコにくらべて、どれほど忠実か、といったことは、ある程度わかるだろう。
 しかし、そのイヌ本人が、どういう知覚経験をし、どんなことを考え、どんな隠し事をしているのかは、皆目見当もつかない。嘘はつくのか、恥ずかしがるのか。どれほど生物学や動物行動学が発達したとしても、外側からの推測だけで、本当のところは、やはりわからないだろう。イヌの「私」にならなければ、何もわからない。それが無理なら、イヌに訊いてみなければ。でも、教えてくれたとしても、イヌが嘘をつくとしたら、騙されている可能性もある。
 落語には、イヌの内面を描いた噺がある。「元犬」だ。

 蔵前の八幡様の境内に、「シロ」とよばれていた真っ白い犬がいた。まじりっけのない真っ白い犬はとても珍しく、昔から、来世は人間に生まれ変わるといわれていた。周りの人間にそういわれた犬は、来世じゃなく、今世のうちに人間になりたいと思って、21日間、願をかけて裸足参りをした。その満願の日の朝に、毛が抜け、はっと気づくと人間になっていた。立てるし(直立)、歩ける(二足歩行)ではないか。毛がなく裸で寒くってしょうがないので、シロは、八幡様の奉納手拭いを腰に巻く。
 犬の頃から、人間は働くものだと知っていたので、働き口をさがさなきゃと思っていると、犬の時分に大層かわいがってくれていた口入れ屋の上総屋吉兵衛さんがやってきた。「働きたい」というと、世話しましょうという話になる。裸じゃしょうがないと、羽織を貸してくれて、うちまで連れて行ってくれた。ところが、犬の癖が抜けない。足を拭いた雑巾の水は呑む。喜ぶと、お尻は振る。干物を頭からまるごとかじる。帯をくわえて遊ぶし、下駄もくわえてもっていってしまう。ただ、廊下の雑巾がけは、すこぶるうまい。
 上総屋さんは、あなたはたいへん変わっているから、変わった人が大好きな御隠居のとこに奉公に行くといいといって紹介する。その隠居は、お元(もと)という女中さんと二人暮らしだという。御隠居は、シロを大変気に入り、いろいろ尋ねる。生まれたのは、乾物屋の裏のはきだめだとか、お父っつぁんは酒屋のブチだとかいう。「名前は」と尋ねると、「シロ」という。ただの「シロ」じゃおかしいだろうといわれて、いや、「ただシロ」と答えると、「只四郎か、いい名前だ」と感心される。「鉄瓶がチンチンいってないか」といわれると、チンチンをし始め、隠居が「えー、茶でも煎じて入れるから、焙炉(ほいろ)をとんな。そこのほいろ、ほいろ」というと、ワンワンと吠えだしてしまう。驚いた御隠居が、女中に助けをもとめて、「おーい、お元や、もとはいぬか?」と大声を出すと、シロは、「へえ、今朝ほど人間になりました」

 この噺では、犬は、最初から言葉を使っている。いろいろなことを、言葉によって考えていく。「みんな、きれいだきれいだと言ってくれて、うれしいね」「おれの名前は、シロっていうんだ」「来世じゃなく、いますぐ人間になりたい」「八幡様にお願いしよう」などなど。そして、ついに人間になる。ところが、内面は、犬のときから人と変わらなかったのに、仕種は、人にならずに犬のままなのだ、不思議なことに。
 つまり、「元犬」においては、行動としては、犬の行動で一貫していて、心のなかは犬のときから人間だったということになるだろう。そうなると、この噺では、「イヌであるとは」、「イヌと同じ行為をすること」になるだろう。
 ようするに、ネーゲルの問題設定とは、まったく表裏をなしているのだ。「コウモリであるとは、その内側からの経験そのものである」(ネーゲル)のにたいして、「元犬」においては、「イヌであるとは、その外側から見られた行動そのもの」なのだから。
 そう考えると、シロが犬だったとき、すなわち、人間に強い憧れを抱いていたとき、ネーゲル的な意味では、すでに人間になっていた。「ヒトであるとはどのようなことか」を、内側からもともと実践していたのだから。しかし、はたしてそうだろうか。
 そもそも「ヒトであるとはどのようなことか」ということが、わかるのだろうか。少なくとも、(背景としての)<私>には、わからない。「このワタシであるとはどのようなことか」であれば、すべてではないにしろ、ある程度はわかっているような気がする。睡眠中、泥酔中、錯乱中(?)は、わからないけれど、それ以外のたいていの場合は、何となく、わかっている(つもりだ)。
 しかし、他の人の「私」については、まったくわからない。他の人の内側は、なにもわからない。そもそも<私>をもっているかどうかさえ曖昧だ。つまり、ネーゲル的な意味で、「ヒトであるとはどのようなことか」といっても、何のことだか、さっぱりわからないということだ。
 他の人と私とが、「ヒト」と呼ばれるのは、内側の特徴からではなく、生物学的な外側のあり方や行動様式からだ。だとすれば、「イヌであるとはどのようなことか」という問にたいしては、「元犬」におけるように、誰もが見て、「これはイヌだね」とわかる振舞い方こそが、イヌを表わしていると答えるしかないだろう。
 もしシロが、犬であった頃、「イヌであるとはどのようなことか」と、蔵前の八幡様の境内でネーゲルに尋ねられたならば、「イヌ一般なんてぇのが、どんな内面をもつかなんて、わかるわけがないだろう」と言葉を使って、ただし、心のなかでそっと答えたにちがいない。

 

(第8回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回、2017年5
月22日(月)に掲載します。