落語で哲学 中村昇

2018.4.23

17死について(4)

 
 やがて章は、かねて自分が目的としていた場所にたどりついた。それは、小さな寺の本堂のわきの軟かい毬を一面にならべたような美しい茶畑にかこまれた、あまり古くない彼の家の墓地であった。

「とうとう来た。とうとう来た」
 と彼は思った。すると急に、安堵とも悲しみともつかぬ情が、彼の胸を潮のように満たした。彼は、父が自分で「累代之墓」と書いて彫りつけた墓石に手をかけて、その下にもぐって行った。
 四角いコンクリの空間のなかに、父を中心にして三人の姉兄が坐っていた。二人の弟妹は、かたわらの小さな布団に寝かされていた。

  妹ケイ 明治四三年没 一歳
  姉ナツ 大正二年没 一三歳
  弟三郎 大正三年没  一歳
  姉ハル 大正四年没 一八歳
  兄秋雄 昭和一三年没 三六歳
  父鎮吉 昭和一七年没 七〇歳

「章が来たによ」
 と父が云った。入口ちかくに坐っていたハル姉が、すこしとび出したような大きな眼で彼を見あげて
「あれまあ、これが章ちゃんかやあ」
 と叫んだ。柔らかな丸味のある懐しい声が、彼の身体全体を押しつつむように響いた。五二年まえ一八歳で死んだ彼女は、髪を桃割れに結って木綿縞の着物を着、赤い花模様のメリンスの前掛けをしめた、少女のままの姿であった。
「わっちが死んだときは、章ちゃんはまだ小学校へはいったばかりだったで、わっちのことは、はあ忘れつら」
「覚えている」
「わっちは、さっきお前があんまり父ちゃんとそっくりになって、頭が禿げているもんだで、解らないっけよう――何だか可笑しいよう」
「そうずらよ」
自分でも二、三年このかた、父の写真を見るたびに、満足をもってそう感じていた。
「僕も五九になったで」
 章が少しびっこを引くようにして入って行くと父が
「章、どうしたえ。そこいらじゅう繃帯をして、交通事故にでもあったかえ」
 と云った。
「そうじゃあない。出がけに内臓をみんな向こうへ寄附してきたで、そのときの傷だよ――この眼玉もくり抜いて、本当の眼のかわりに綿をつめて、上へ義眼をかぶせてもらって来ただよ」
(「一家団欒」藤枝静男、『悲しいだけ 欣求浄土』講談社文芸文庫、1988年、142145頁)

 これが、問題になるのかどうかもわからない。ただ、以前から気になっていたことがある。「なぜ、人間は死んでも身体は残っているのか」ということだ。つまり、「死体は、なぜ存在するのか」という疑問である。
 人は、生まれてくるときには、心も身体も一緒に現れる。たしかにある程度の年齢にならなければ、こちらの話や表情に反応したり、母語をはなしたりはしない。でも、まったく空っぽの身体だけで自分から動かないなどという状態で誕生することはないだろう。生まれた時から、人間は、自分で動くし、母乳も呑む。
 ところが、死んでしまうと、空っぽの亡骸だけぽつんと残る。なぜだろう。なぜ、まるごとすべて消えてなくならないのか。生まれたときの逆にならないのか。
 志ん朝さんが兄貴(金原亭馬生)の法事後の高座で、酔っぱらって話したヴァージョンもある(枕が抜群に面白い)「そば清」だと、最後に清兵衛さんは、身体ごと消えてしまう。ウワバミが呑んでいた人間を溶かす草を、自分で呑んでしまったからだ。でも、あれこそが、本当に死ぬということ(「生まれること」と完全に対称をなす)ではないのか。一切合財消えてしまうのだから。
 メルロ=ポンティが着目した「身体図式」という考えによれば、われわれは、自分自身の身体だけではなく、道具もまた「自分の身体」と同じようなものにしている。車の運転に習熟した人であれば、自動車全体を自分の身体と同じように自在に動かすだろう。剣道の達人にとっての竹刀も同様だ。竹刀の先端を自分の指先のように扱うことができる。
 あるいは、住み慣れた家であれば、夜中に起きてもトイレに直行できるのに、引っ越したばかりだと部屋や家財の位置を身体が認識していないので、いろんなところに身体をぶつけてしまう。家全体に対する自分の身体図式が、まだできあがっていないからだ。
 ただ、前にも書いたが、自分の身体は、自分のものとは思えない。細胞や内臓も大脳も髪の毛も、こちらの都合で動いたり抜けたりはしない。それぞれの都合で、それ自身で細部までコントロールされている。それは、<私>とはべつのシステムだ。あきらかに自分の身体は、<私>にとっては<他者>と言えるだろう。
 人が身体をもち生きているというのは、<自分そのもの>ではない車に私が乗るように、<自分そのもの>ではない自分の身体に、<私>が入っているのではないか。自動車や家や竹刀を自分の身体の延長(「身体図式」)と考えるのではなく、それとは反対に、自分の身体の方を、外界の延長と考えた方がいいのではないか。車や竹刀が身体図式の一部になるのではなく、自分の身体が、まわりの物質的環境の一部になるのではないか。
 たまたま長くつきあうのが、「自分の身体」といわれるものだ。でも、この身体は、ずっと同じものではない。身体を構成している細胞や分子は、つねに生成消滅していく。一瞬もとどまってはいない。「同じ」ものが持続しているわけではない。福岡伸一さんのいうような「動的平衡」という概念が正しければ、生命現象としての私の身体は、ある種の形だけ保たれた蜃気楼のようなものになるだろう。
 われわれの身体は、外界によって、つまり環境によって、できあがっている。そして、そのあり方は、「流れそのもの」なのだ。福岡さんは、つぎのように言う。

 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。
 私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし、置き換わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあらゆる部位、それは臓器や組織だけではなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。(『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書、161頁)

間断なき全身的な流動によって、たまたま「形」のようなものが、そこに浮かび上がっているだけだ。それは、微細で総合的な流れのつくりだす束の間の「楼閣」にすぎない。確固とした「容れ物」があるわけではないのである。

つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。(『動的均衡 生命はなぜそこに宿るのか』小学館新書、261頁)

こう考えれば、私たちの身体は、もともと生まれた時から、周りから区切られたたしかなもの(一個体)として存在していたわけではないだろう。生命体として維持されてきた今のいままで、環境と区別のつかない流れとして絶え間なく続いてきただけではないのか。
 われわれが生命でなくなる(死ぬ)時、この流れが途絶する。流れの一部が何らかの理由で消えてしまう。シュレディンガーのいい方を借りれば、エントロピーの増大にネゲントロピー(無秩序化に抗する生命の働き)が追いつかなくなり、生命はいっきに無秩序化してしまうのだ。
 このように考えると、死後、身体だけが残るというのではなく、そもそも最初から「身体図式」だけが、「生命の動的状態」を保っていただけなのかもしれない。「身体図式」もまわりの環境との流動的やりとりの一部にすぎないかもしれないのだから。身体も環境も、恒常的に生まれ消えていくのだから、どこにも固定した身体はないことになるだろう。
 しかし、それでもそのような「動的平衡」による「形」が、もはや消えてしまうきっかけがあるだろう。蜃気楼そのものの消滅をうながすきっかけだ。その「きっかけ」とともに、平衡状態が同時に消えるのではないか。そうなると、<私>という「きっかけ」だけが、この状態にとっての<他者>ということになるのだろうか。物質界に降りたった<私>という謎、これはやはり手のつけられない謎のまま残ってしまうだろう。
 さて、「そば清」の清兵衛さんの場合は、着物だけ残して身体が消失してしまったが、もっと変な消え方をする話もある。本当のところは、消えたかどうかも分からない。「あたま山」という噺だ。いろいろなひとがやっているが(笑福亭鶴笑さんのパペットものも凄い)、今回は、志ん生さんのを見てみよう。この上なくシュールな落語家の最もシュールな話である。

 吝嗇兵衛(けちべえ)さんという人がいた。名前通りのしみったれだ。花見時なんかに、人が食べているところに行くと、自分も食べたくなるので、そんなところには、決して行かない。人が何にも食べていないところに行く。花が咲いて、葉桜になった時分にでかけて行った。
 誰もいなくて、人が何にも食べていないから、自分も食べたくはならない。「葉桜だ、もとは桜があったんだと思えば、いいんだ」なんて言っている。さくらんぼが落ちていた。食べてみるとうまい。「これは、ただだな、こりゃありがたい」ってんで、さくらんぼを無闇に食べた。
 あくる年になると、吝嗇兵衛さん、頭がむずむずしてきた。
 「ちょっと、おっかぁ、見てくれ」
 「どうしたの?」
 「頭がむずむずしてしょうがないんだ」
 「おやおや、桜の芽生えがでてきたよ、お前さん」
 「弱ったね、どうも」
 そのうち、これがだんだん大きくなって、しまいには、吝嗇兵衛さんの頭の上で、満開の桜が膨れ上がった。
 「どうです、吝嗇兵衛さんの頭、きれいだねぇ」
 「今年は、よそ行かないで、吝嗇兵衛さんの頭の上で、花見をしようじゃないか」
 みんなが頭の上に登ってきて、花見して、どんちゃんどんちゃん騒ぐ。酔っぱらって喧嘩はする。吝嗇兵衛さん、やかましくてたまらない。
 「しょうがねぇなぁこりゃ、頭の上でまたやってやがる。だめだだめだこりゃ。なんとかしなくちゃいけねぇ」ってんで、この桜を根っこから抜いてしまった。
 するとそのあとに大きな穴が開いて、雨水かなんかたまって池になっちゃった。池になると、鮒だの鯉だの、鯰やなんかわいてきた。これを「あたまが池」と言って、また、みんなやってきた。
 「あそこの鯉はいいよ、あたまが池の鯉、こないだなんか、うまかった。」
 「たっつぁんは、鯰釣ってきた、あたまが池で」
 「じゃ、おれも行こう」
 陽気がよくなると、ここで花火なんかあげる奴がいる。ばんばんってうるさい。
 吝嗇兵衛さん、「ああぁ、わたしほど因果な者はない」というので、ある晩、女房に書き置きをして、自分で自分の頭の池に身を投げた。

 エピメニデス(クレタ人)のパラドックスというのがある。クレタ人が、「クレタ人は、嘘つきだ」といったというものだ。もし、このクレタ人が言ったことが正しいならば(本当のことを言っているのであれば)、「クレタ人は嘘つきだ」という文に、このクレタ人本人は当てはまらないことになる。つまり、クレタ人なのに、「クレタ人」ではないことになる。逆に、このクレタ人が、この文通りに嘘つきだとすれば、「クレタ人は嘘つきだ」という文は、嘘になるだろう。いずれの場合も、矛盾が生じるというわけだ。
 クレタ人が言った「クレタ人は嘘つきだ」という言明における「クレタ人」の集合のなかに、そのクレタ人自身は、入ることができない。もし入ったら、その「クレタ人は嘘つきだ」という言明は、「真」と「偽」のどちらにも決められない状態になるからだ。
 あたま山では、頭の上にできたあたまが池に、自分自身が身投げをしてしまう。池に自分自身が入ることができるのであれば、その池は、自分以外であり、かつ、自分より大きくなければならない。ところが、あたまが池は、吝嗇兵衛さんの頭の山のなかの池なのだから、それはない。自分の身体の一部であり、もちろん、自分よりはるかに小さい。しかし、もし池に入ることができないのであれば、この噺は成立しない。
 吝嗇兵衛さんの頭にある「あたまが池」のなかに、吝嗇兵衛さん自身は、入ることはできないはずだ。もし入ったら、あたまが池は、吝嗇兵衛さんの頭のなかにある池ではなくなる。身投げできるのであれば、「あたまが池」ではなく、どこかべつのところにあるふつうの池になる。逆に身投げできないのであれば、あたま山のあたまが池は存在するのに、この噺は終わらない。つまり、落ちに、いつまでたってもたどり着けない。これは、まさに「あたまが池のパラドックス」ではないか。
 それでは、こう考えてみよう。あたまが池は、吝嗇兵衛さんの頭にできた池だけれども、何らかの理由で、すべてを呑みこむブラックホールになってしまった。通常、お空の遠くにあるブラックホールは、直径6キロメートルくらいだが、途方もない力が加わりさらに圧縮されて、この男の頭の上に突然現出した。つまり、吝嗇兵衛さんの頭の上に、別次元への入口ができてしまったというわけだ。なぜだかわからないけれども。
 この入口は、すべてを呑みこんでいく。だって、ブラックホールだから。たしかに吝嗇兵衛さんの頭の上にはあるけれども、それと吝嗇兵衛さんの頭部(さらには、首から下)とは、かかわりがない。入口だけが<あたまが池>として浮かんでいるのだ。不思議なことに。
 だから、この池に少しでも身体を入れれば、ものすごい引力によって、ずるずると(あるいは、シューと)中心の特異点へ移行し、すべては消滅してしまう。そう考えると、あたまが池に身を投げたといっても、吝嗇兵衛さん、思い切りよく身体ごと飛びこんだわけではない。おそらく、自分の頭の上の異次元の入口であるあたまが池に、手なり(手をあたまが池に触れる)足なり(ヨガのポーズをとり、足先をあたまが池に浸ける)を入れたのではないか。そうすれば、あっという間にすべては消えていく。そう考えられないか。(考えられない)
 西田幾多郎は、1926年に「場所」という論文を書き、真の独創的哲学者になったと言われている。「場所」で提示された考えとは、この世界の根底に「絶対無の場所」があり、この場所に包摂される「相対無の場所」(意識一般)があり、さらにそのなかに、物理的世界があるというものだ。「絶対無」というのは、「有―無」の対立としての「無」ではなく、存在と無という対立をもつつみこむ絶対的な「場所」という意味である。
 したがって、「相対無の場所」というのは、意識を無にすれば、物質界が存在として現われるということであり、あくまでも「有無」の二項対立の片側ということになるだろう。眼の前にいま「ペリカンのスーベレーン800」が、ある。そしてそれをべつの部屋にもっていくと、それは、眼の前にはない。といったような「ある―なし」だ。
 それに対して「絶対無」は、あったり(有)、なかったり(無)はしない。絶対的に「無」であり、より正確にいうと、絶対的に「有無以前」とでも言った方がいいだろう。このような世界の基底を、西田は、つぎのようにいう。

 限定せられた有の場所から、その根柢たる真の無の場所に至ることである、有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者を(ただち)に無と見るのである。斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる、相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができるのである。(「場所」『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫、115頁)

 存在しているものが満ちみちている相対的な場所(すべてのものが対立によってできているこの世界)に、無理やり「無」をもちこむ。何の問題もなくつじつまの合っていた領域に矛盾を盛りこむ、というのだ。こうして、西田のいう「絶対無」が、われわれの普段の生活の場の裏面に存在(無として)しはじめる。
 この「絶対無の場所」に、われわれは毎瞬触れていると西田は考えた。<いま・ここ>である現在(西田のいう「絶対現在」)は、<永遠の今>と呼ばれ、それは絶対の領域なのだ。その領域は、そのつど、われわれに対して深淵を開いている。

 死ということは絶対の無に入ることであり、生れるということは絶対の無から出て来ることである。それは絶対矛盾的自己同一の現在の自己限定としてのみいい得るのである。(「絶対矛盾的自己同一」『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、52頁)

 「絶対無」は、この世界にぽっかり開いている死の淵であり、そこへの出入こそが、生死そのものなのだ。われわれは、生きていながら(連続)、つねに死と触れている(非連続)。それこそが、西田のいう「絶対矛盾的自己同一」という概念なのだ。
 最後の論文である「場所的論理と宗教的世界観」では、つぎのようにいい切っていた。

死すべく生れ、生るべく死するのである。時の瞬間は永遠に消え行くものなるとともに、永遠に生れるもの、即ち瞬間は永遠である。(『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、307頁)

西田によれば、われわれは、生の領域で連続して存在しているわけではない。つねに、そのつど死の領域に接し、そのつど生まれてくる。生成消滅しているというわけだ。私たちは、「非連続の連続」として生きていくのである。
「私と汝」という論文では、「生命の流」について、こう言っている。

大なる生命の流は死即生の絶対面の中に廻転しつつあるのである。時は永遠の今の中に生れ永遠の今の中に消え去ると考えられる如く、歴史は永遠の今の中に廻転しつつあると考えることができる。(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫、286頁)

福岡伸一のいう「動的平衡」は、西田によれば、「死即生の絶対面における廻転」ということになるだろう。そして、ついに西田幾多郎は、あたまが池に身投げする吝嗇兵衛のことを、つぎのように書くにいたる。

我々は何処までも自己を対象的に見るとともに、いつも対象界を越えているのである。そこに、我々人間の存在があるのである。人間のみ死を知る、人間のみが自殺するのである。(「論理と生命」『西田幾多郎哲学論集Ⅱ』岩波文庫、187頁)

 吝嗇兵衛は、あたまが池を越えている(自分の頭にある池だから)にもかかわらず、その池を対象的に見ることもできる(その池に身投げできるのだから)。だからこそ、自分が、自分自身の頭の池で死ぬこともできるということだ。自分の死を自分自身だけで完結させることができるのである。
 「一般者の自己限定」では、この事態をつぎのようにいっている。

 「自己が自己に於て自己を見る」といふ時、「自己が」と「自己を」とが対立するが、自覚の極限に近づくに従つて、「自己を」の面が「自己が」の面に合一せなければならぬ。(『西田幾多郎全集 第四巻』岩波書店、2003年、309頁)

あたまが池に吝嗇兵衛さんが飛びこんだとき、その行為自体がそもそも矛盾しているのだから(「あたまが池のパラドックス」)、決してこの行為は遂行できなかったはずだ。
 しかし、「あたまが池」が「絶対無」であったならば、「自己が」(吝嗇兵衛さんが)、「自己に於て」(自分の頭の上のあたまが池において)、「自己を見る」(自分の姿を池の水面に見る)ことができるのではないか。何といっても、「「自己を」の面(あたまが池の水面)が「自己が」の面(吝嗇兵衛さん)に合一せなければならぬ」のだから。
 そうなると、「あたまが池」とは、「絶対無の場所」だったのではないか!(う~ん、これは、いくらなんでも暴走しすぎだろう。)

 

(第17回・了)

 

今回で本連載は終了となります。長らくのご愛読ありがとうございました。
本連載は単行本として7月に刊行を予定しております。こちらもご期待ください。