おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2017.1.30

22舌べろチロリなおじさん

秋刀魚の寒干しと冷や酒[賀楽太・伊豆下田]

 

 

 夏の海水浴場、伊豆下田。光に満ちたにぎわいのなかに、おじさんがひとりぽつんと岩場に腰掛けている。海水パンツに生白い裸の上半身。くたびれた肌の質感から推定50代。一緒に来た家族とは離れ、ぼんやり海を眺めているーー。
 その哀愁ただよう背中から目が離せなくなり、当時、美大生だったなかむらるみはスケッチブックにペンを走らせた。「老人と海」ならぬ、「おじさんと海」。ふるさとの小さな浜辺で目にした光景が、ベストセラー『おじさん図鑑』の原点となった。
 以前、この話を本人から聞き、私は彼女との縁の深さを思った。なぜなら、私も下田の出身であり、「酒とおじさん」の両方に興味をもつようになったのも、思い出のおじさんが下田にいたからだった。
 思い出のおじさん。それは祖父である。じいちゃん子だった私は、放課後ランドセルを背負ったまま、祖父母の家に遊びにいった。当時、還暦少し前だった祖父は、相撲と酒が日々の楽しみで、夕方になると近所の魚屋まで原付バイクで出かけ、よさそうな刺身をいくつか選ぶと、祖母に晩酌の支度をさせる。テレビの相撲中継を観ながら畳にあぐらをかき、脇には一升瓶。湯呑みで手酌酒をやりながら、好物のマグロブツや〆鯖をつまんでいた。
 ときには、小学生だった孫を連れて寿司屋で呑むこともあった。祖父はカウンター席でとなりに私を座らせ、海苔巻きを頼んでくれる。自分は刺身やとこぶし煮を肴に徳利酒だ。会話などほとんどなかったと思う。祖父はただ黙って酒を呑んでいた。
 家での晩酌。寿司屋での所作。その記憶から、「静謐」という言葉が浮かぶ。初めて接した酒場のおじさんが祖父だった私は、のちに自ら酒場通いをするようになってからも、酒呑みというものは、ひとり黙々と盃を乾かすものなのだと思い込んでいた。下田で、口から生まれたに違いない、あのおじさんを知るまでは。

「ここは最高の止まり木なんですよ。うまい料理といい酒があって、我々地元民はもちろん、観光客も訪れる。人生いろいろな人たちとのおしゃべりが楽しくて、酒がますます進んじまう。かよちゃん(女将の愛称)もほら、いまはこうだけど若いときはかわいかったんですよ。このひとのこと、幼稚園のときから知ってますから」
 るみ氏と一緒にお互いのふるさと下田で呑もうとやってきた「賀楽太(がらくた)」。帰省のたびに寄らせていただいている私が「ただいまー」となかに入ると、ここで何度かお会いしている常連のおじさんがひとり日本酒を飲んでいた。私のとなりに初めて見かけるお嬢さんがいるのがわかると、嬉々としてマシンガンのように話しかけてきた。
 おじさんの勢いに驚いたるみ嬢が小声で聞く。「すご〜。いつもこうなんですか」「うん、ちょっと騒がしいけど、面白いおじさんだよ」。かよちゃんから静岡県でしか呑めない生ビール「静岡麦酒」のジョッキを受け取りながら、マシンガントークおじさんに聞こえるように言った。
 マシンガンおじさんが同級生だという女将かよちゃんは、下田生まれの下田育ち。ふたりの子どもを育てあげ、人生の折り返しを迎えたころ、これからは自分の好きなことをして生きていこうと居酒屋を始めた。20年前のことだ。下田の女は気が強いといわれるとおり、かよちゃんも客を甘やかしたりはしない。ただ、愛情は海のように広くて深い。彼女にだけは気を許して男泣きするおじさん、かよちゃん会いたさに新幹線に乗って通い、賀楽太で過ごす時間で元気を取り戻すと、再び東京砂漠に戻る若い女性もいるという。 
「だまらっしゃい!」
 しゃべりだすと止まらないおじさんを見かねたかよちゃんが制した。しかし、マシンガンおじさんは、「まあいいから、いいから」と、るみ氏に向かって身を乗り出していく。「あんたのこと知ってますよ。『ビックコミックオリジナル』の連載(「なかむらるみのかわいい!?おじさん」)、あれ面白いねえ。ワタシの場合、かわいいおじさんじゃなくて、へんなおじさんだけど。ワハハ」
「ちょっと、えーちゃん。ふたりで来てるんだから話しかけるんじゃない! ほんとにしゃべろくなんだから」
 再びかよちゃんが叱りつけると、「ごめん、つい」。自分のおでこをぺしりと叩く。正面に向き直ると、おとなしく手酌酒に戻った。
 えーちゃん、68歳。おてんとさまが高いうちは畑仕事に精を出し、ひと風呂浴びて早い時間からの晩酌が何よりの楽しみ。じいちゃんびいきの愛犬と孫のおかげで家庭にも居場所アリーー。すべて過去何度か、賀楽太でご本人から聞いた情報である。同じ“えーちゃん”でも、あの矢沢永吉とは真逆の三枚目だ。彼と何度かここで会ううち、「男は黙って酒を呑め」ばかりがおじさんの世界ではないと認識を改めた。

 私たちがこの店を知ったのは、5年ほど前。地元誌の取材でるみ氏と訪れたのが最初だった。伊豆急下田駅から中心街へ歩くことおよそ5分。緑いっぱいの鉢植えが店先を飾り、真白の提灯が温かくまちを照らす一角がある。漏れ聞こえる陽気な笑い声に「どうぞ、はいらっしゃいよ」と手招きされて暖簾をくぐれば、地元の年寄り衆も若い衆も旅人も、みんな上機嫌に酒を酌み交わしている。いつ訪れても、のびやかな空気が流れているのは、女将かよちゃんの人柄と、彼女を慕って集まる客たちの風通しのよさにあるのだろう。おおらかで、何かめでたい気分になる宝船のごときわがふるさと酒場。
 賀楽太には品書きがない。毎日地元の野菜市場や鮮魚店、精肉店で季節のものを仕入れるほか、店主自ら山へ磯へと入り収穫したもので、その日の料理が生まれるからだ。運がよければ、伊勢海老やアワビ、猪や鹿の肉といったご馳走にありつけることもある。「ほれ、これでしっかり稼げよ」と、くねくね動くアワビが、よく陽灼けした海の男から届けられたこともあったっけ。到来物は、食べものばかりではない。賀楽太の店内は、店主が自宅の庭から手折ってきた野の花があちこちに生けられているが、あるとき見事な枝ぶりの梅や小手毬を手に、「店に飾るといいだら」とやってきたハンチング帽のおじさんがいた。その人こそ、初めてお会いしたえーちゃんであった。
「この人、同級生」かよちゃんからそう紹介されて、同級生の店にお花を届けるなんて素敵なおじさま! と例によってちょっと惚れかけたが、呑みはじめると、しゃべる、しゃべる。畑の話、孫の話、ペットの話、山登りの話、フェイスブックの話……。止めどがない。こちらが元気なときはいいのだが、疲労困憊した夜に一度だけ、彼のおしゃべりを遮って「少しひとりにさせてくれませんか」と言ってしまったことがある。そのときも、やっぱりおでこをペシリと打ち、「こりゃ悪かった」。それから5分もしないうちに、しゃべりたくて仕方がないえーちゃんは、ついに沈黙をこらえきれず「そんでさ、」と再び話し出した。もう私は可笑しくなって、笑いが止まらなかった。以来、彼に会うと、物思いに耽るのを放棄し、終わりのないおしゃべりにつきあおうと腹を決めた。
 しかし今宵は、るみ氏がいる。えーちゃんも私との慣れた会話より、いくつになってもおぼこい彼女に聞いてもらうほうが楽しかろう。しめしめ。これでかよちゃんが次々出してくれる料理に集中できるぞ。会話は悪いが相棒に任せるとしよう。
「寒いだらぁ」。最初に出してくれたのは、出汁たっぷりの具だくさん茶碗蒸しと湯気のたったおでん。ふうふうしながら頬張ると、冷えた体が芯まで温まる。そして下田の冬の風物詩、秋刀魚の寒干し。冷たい風が秋刀魚をおいしくするとかで、このあたりでは、冬になると街角のあちこちで秋刀魚を干している風景を目にする。凝縮した旨味、わたの苦味が日本酒を誘う。下田の地酒「黎明」をいただこう。

 

「今年もさぶ〜い寒干しの季節がやってきたね」
 かよちゃんと話していたら、えーちゃんに肩をつつかれた。
「彼女、結婚してるんだってね。驚いた」。そうですよ、るみさんは童顔ですが、人妻なんです。あちこちの酒場で何度も繰り返されてきたシーンである。いつもなら、勘ぐられる前に「こちらは独り身です」と自ら正体を明かすところだが、もはや酒呑み友だちともいえるえーちゃんは、私が嫁にいかないことなど百も承知だ。
「こんなにたくさん呑んで帰って、奥さんに怒られないんですか」
 人妻るみは鋭かった。えーちゃんはじつにおいしそうに日本酒を呑む。ごくごく呑むから、すぐ二合片口は空っぽになり、「もう一杯」と店に断って自分で冷蔵ケースから好きな酒を取りだし、再び片口をなみなみと満たす。その繰り返し。かよちゃんが「もうやめときなさい」といさめなければ、永遠に呑んでいるのではないかと思うくらいの底なしだ。それだけ呑めば、どんなに賀楽太が良心的な価格だといっても、勘定は安くは納まらないだろう。
「怒られるもなにも。うちの奥さんは勝手にすれば、ってなもんですよ。家で私になついているのは、孫と犬だけ」
 かわいい人妻を相手に会話も弾んでいるようで、えーちゃんの呑むペースは昇り龍。このおじさん、酔うと舌を出しながらしゃべるのだが(饒舌とはまさにこのこと)、見ると、ちろりちろり、やっぱり今夜も舌が覗いている。私たちが来る前から座っていたので、かなり呑み進んでいるに違いない。

「さみしくないんですかぁ」るみ氏の問いに、えーちゃんは急に背筋を伸ばすと、神妙な顔つきになって言った。
「さみしくはない。しかし男68歳、……願望は、ある!」
 宣言するかのような力強い口調。願望……って、なんの? 突然の主張に面食らっていると、生ビールばかりぐいぐい何杯も呑みながら、張りのある声でかよちゃんと談笑していた別のおじさんが会話に加わった。
「そーだ、そーだ。いいぞ、いいぞ、えーちゃん。ボクなんか(股間を指さして)こっちの手術をしたもんだから、まったく使いものにならない。『後期高齢者のおじいなんだからいいじゃない』と家族は言うけど、そういうもんじゃない。オトコとして役立たずな自分、さみしいもんですよ」
 ………。願望って、そういうことなのね。
 おじさんについてまたひとつ、学んだ夜でありました。

居酒屋 賀楽太(がらくた)

静岡県下田市1-20-20
電話:0558(27)2312
営業:18:00〜24:00頃 月曜休み

開国の港、下田のまちなかに夜ごと賑わう酒場あり。女将かよちゃんこと土屋佳代子さんが切り盛りする定員十数人の小体な店ながら、地元の重鎮から、女将に「子どもたち」とかわいがられる若者、旅人までさまざまな酒徒たちが集う。 「おなかすいてる?」から始まる料理は、伊豆の海の幸、山の幸の瑞々しさにあふれていて、胃袋が歓喜する。素朴な家庭料理だけでなく、砂肝のコンフィとサザエの欧風仕立て、オアカ(ムロアジの一種)のタルタル、明日葉餃子など、地元食材を自在にアレンジする独創性には毎回驚かされる。ちなみに料理名は私が勝手につけただけで、特には存在しない。賀楽太の料理はほぼすべて日替わり。品書きはないが良心価格なのでご安心を。

 

 

(第22回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2017年2月17日(金)掲載