沖縄 オトナの社会見学 R18 仲村清司・藤井誠二・普久原朝充

2016.2.29

06首里 三バカ男、都大路をまかり通る

 

 半年にわたって連載してきた沖縄のディープツーリズムガイド「沖縄 オトナの社会見学 R18」もいよいよ今回で最終回です。
 那覇、普天間、コザ、金武・辺野古と沖縄本島を歩き回ってきた一行が向かったのは、かつての琉球の王都・首里の街。そこに現れたのは、高貴なる琉球王家の末裔とその家臣だった……!?

 

首里城の周囲を歩く

 

仲村 さて、今回はかつての琉球王朝の中心であった首里に足を運んでみましょう。

藤井 首里城の正殿は有名すぎるので、今回は中には入らずに周囲を歩いてみましょう。

仲村 よく首里城について議論になる謎の一つに、建物の向きの問題がありますね。

普久原 たしかに、中国や日本では古来、「君子は南面す」といって、通常なら城は南面させてつくるはずなのに、首里城の正殿は西側を向いてますね。しかも、入口の奉神門と正面の正殿の向きもキレイに平行させずに僅かに傾いて配置されてます。

仲村 その理由は諸説あるんだけど、奉神門のすぐ外側にある首里森御嶽(すいむいうたき)と正殿の向きが同じなんだよね。首里森御嶽は格式の高い聖地で、つまり聖なる方向。正殿はその聖地のラインに向かって築城されたという説が有力っぽいですね。中国の方向に向かって西面しているから、宗主国に敬意をはらって遙拝する立地にしているという説もありますが、そうなると薩摩に尻を向けることになる。露骨すぎてちょっと説得力がない。

あまりに有名な首里城。ヒネたおっさんたちは首里城を尻目に周辺を歩く

首里城正殿に通じる道。ヒネたおっさんたちは首里城をあえて避け、その周辺を歩く。

聖なる方向を向いて建っているという首里森御嶽

聖なる方向を向いて建っているという首里森御嶽

普久原 もしかしたら、中国から冊封使を招くときには、そういう説明をしていたのかもしれませんね。

藤井 いま沖縄の観光客は中国人が多いですよね。中国人観光客は買い物を大きな目的の一つとしてやってくるわけだけど、沖縄と中国のそういう関係史は知って来る人はどれくらいいるのかな。

普久原 沖縄の人でも、つまみ食い程度にしか知りませんから、なおのこと中国人は知らないんじゃないですか。

藤井 でも、沖縄は他の日本の地域とは中国との関係史がかなり異なるじゃないですか。「首里城は中国に向かって建てられている」とか聞いたら、中国のごく一部の「沖縄を中国に返せ」と主張しているメディアや軍関係者が反応しそうな話かもしれませんね。

仲村 藤井さん、それ、ツイッターに書かないようにね。ネトウヨが騒ぎそうな炎上ネタだよ(笑)。しかしまあ、中国のクルーズ船が停泊している若狭バースあたりで観光案内の営業をすれば、日銭を稼げそうだな。

藤井 首里城入口の歓会門の守衛さんも、中国語で「再見、再見(ツァイツェン ツァイツェン)」と連呼してましたよ。

普久原 ちょっとお二人とも、だいぶ話がそれていますよ。ところで仲村さん、首里王府にも江戸幕府のようなお家騒動はあったんですか?

仲村 それそれ! ドロドロ、泥沼のような話があります。実は王府もまさにその通りで、王族や高級士族は激しい権力闘争というか、陰湿な権謀術数に明け暮れていたんだよ。

普久原 仲村さん、やけに活き活きしていますね。まるでワイドショーのレポーターみたいですよ(笑)。

藤井 どっちが陰湿なのかわからない(笑)。琉球王国は平和でおだやかなイメージがあるんだけど。

仲村 実はそうでもないんです。その代表的なエピソードの一つに世添御殿(よそえうどぅん/童名・おぎやか)の陰謀が伝わっています。

普久原 あの第二尚氏王統、初代尚円王の後妻で、王朝の中央集権化を完成させた第三代国王・尚真の母后にあたる女性ですね。

仲村 その通り! ここからさらに奥に進むと正殿に通じる奉神門がありますが、そこは国王が即位するときに聞得大君(きこえおおきみ/沖縄の祭祀を統括する最高位の女性神官のこと)などの神女が並んで儀式をするところだったんです。
 ところが第二尚氏の二代目で尚円の弟、尚宣威(しょうせんい)が即位する際は、大奥の勢力が強大になっていました。実権を握っていたのが世添御殿です。国王即位の儀式では通常、国王に向かって神女たちは頭を下げないといけないのに、国王に尻を向けたと言われている。つまり、尚宣威は国王にふさわしくないという神託が下りたわけ。それで尚宣威は失意のうちに半年で退位し、首里から現在の沖縄市越来に隠遁しました。でも、その神託は我が子を王位につけたかった世添御殿が書いたシナリオ、すなわち後宮の謀略という説なんです。その後尚宣威の血筋は徹底的に排除され、後に尚家は首里尚家と浦添尚家の二つの系統に分かれることになります。

普久原 まさに沖縄版の「大奥」ですね。そんな謀略に明け暮れていたから、結局、世継ぎがいなくなって七代目にいたって浦添尚家の尚寧を王にするようなことになったりしたんでしょうね。そしてその尚寧王の代に薩摩に侵攻されたわけですからいろいろ皮肉な歴史だなぁ。

藤井 たしか、普久原くんはその悲劇の浦添尚家の末裔だよね。

仲村 なぬ! それホントなの?

普久原 まあ、一応、沖縄の場合は苗字と祖名継承している一字から家筋が辿れるようになっているみたいですね。お年寄りによく尋ねられたりしますが、僕はたしかめたわけでもないですし、たいした話でもないのでまたの機会にしましょうよ……。  それにしても、尚宣威は王家代々の墓である玉陵(たまうどぅん)にも入れなかったそうですけれど、即位のときから歓迎されていなかったんですね。知らなかったなぁ。

仲村 いや、そんなことよりもあなた様は浦添尚家の末裔かどうかを……。

藤井 仲村さん、話がまたそれていますよ。ほんとにワイドショーのレポーターみたいになってきたな(笑)。さては普久原くんを食い物にする気でしょう。

普久原 ……。あ、方角の件で、いま急に思い出しました! 首里城正殿の向きまで関係しているのかはわかりませんが、風水の話では、気の源泉である中国の崑崙山(こんろんさん)に向かって計画されているという説を『客家見聞録』(現代書館)という本で読んだことがあります。

藤井 へー、そうなんだ!

仲村 しつこいようだけど、あなた様におかれましては、あの、いとやんごとなき浦添尚家の血筋でいらっしゃるのですか? 不肖、ワタクシはいと卑しき水呑み百姓の血筋の者ですが、このようなところで、あのいたわしき浦添尚家の方と……。殿、いまこそお家再興のときですぞ!

藤井 何を興奮してるんですか(笑)。

普久原 お家再興もなにも……(笑)。まあ、仲村さん落ち着いてください。話を進めましょうよ。

仲村 うーん、気になるなあ。王家の方のご尊顔を前にして、僭越ながら話を戻させていただきますが、普久原殿のおっしゃる通り、正殿の向きについては本当にいろんな説があって、確証がないのが実情でございます。首里城の謎を並べるだけで、一冊の本になるものと思われます。

浦添王家の末裔(?)である普久原朝充氏の御前でお家再興をファナティックに訴える仲村清司氏

浦添王家の末裔(?)である普久原朝充氏の御前でお家再興をファナティックに訴える仲村清司氏

普久原 仲村さん、言葉遣いが一変していますよ。

藤井 普久原くん、仲村さんを無視して、無視!

普久原 急に絡みづらくなってきたなぁ(笑)。方角の話に戻すと、他にも、崎山の馬場の裏手側にある雨乞い御嶽は、神の島である久高島(沖縄最大の聖地)に向いているということを教わって地図で確認したことがあります。西に向くか、東に向くかで、それぞれ意味を持たせていそうですね。

 

首里の歴史街道、綾門大道

 

藤井 さて、守礼門を通って降りてきましたが、ここが本来の首里のメインストリートだったんですってね? 僕はてっきりキレイに道が整備されている龍譚通りがメインストリートだとばっかり思っていたんですが。

仲村 それがトーシローだということですね(笑)。守礼門のある通りは綾門大道(あやじょううふみち)と言って、王朝時代はこちらが都大路でした。守礼門のすぐそばには園比屋武御嶽石門(すぬひゃんうたき)と王家の墓、玉陵があります。どちらも世界遺産ですが、これらの遺跡の配置を見れば、綾門大道が本来の首里の目抜き通りだったということがよくわかります。明治四一年までは守礼門の数百メートル先に第一の坊門、中山門があって、その二つの門を通過して首里城にアプローチするようになっていました。この二つの門の間が綾門大道です。

藤井 なるほど、知らなかった。

仲村 僕がいま住んでいる那覇の泊地区はかつて国際貿易の拠点となっていた王府の直轄地で、首里城と泊港は綾城大道を介してつながっているんですね。沖縄戦で焼失してしまって現在は石門しか残っていませんが泊港と首里の間には崇元寺があり、その先には首里観音堂などの寺院がありました。琉球の役人が薩摩や江戸に上るときは首里観音堂に立ち寄って旅の安全を祈願したのち、那覇から出港したことが伝わっています。また、崇元寺は王府の国廟で、中国から冊封使が那覇に来琉したときには、国王の菩提を祀る儀式がおこなわれ首里城に出向きました。首里と那覇は点で考えるのではなくて、線として考えると、歴史的な意味が浮き上がって見えてきます。

現在の綾城大門を歩く藤井誠二氏。写真奥が守礼門

現在の綾城大門を歩く藤井誠二氏。写真奥が守礼門

普久原 おお、線として考えると泊から崇元寺、安里、首里観音堂、綾門大道を通って首里へと上っていく道のイメージが見えてきました。泊に士族が多かったのも港と首里城までの道の関係から理解できそうです。面白いですね。

藤井 僕の那覇の仕事場から崇元寺跡は歩いてすぐなので、よく散歩をしに行きます。

仲村 守礼門というのは薩摩と中国の両方に朝貢(朝廷に貢物をすること)していた琉球をよく象徴していて、平時には「待賢門」や「首里門」の扁額(へんがく)が掛けられ、宗主国の中国の使節が来るときだけ「礼節を守る」という意味の「守礼之邦」という扁額が掲げられていたんです。小国は大国におもねて生き延びる。見事な使い分けだね。  実は首里城の機能も軍事施設としてのお城ではなくて、ベルサイユとかバッキンガムに近い「宮殿」なんですよね。首里城の中には軍事機能を持った施設はないし兵器も弾薬庫もない。かつて弾薬庫かもしれないと思われていた施設がなんと泡盛の倉庫だったという話もある(笑)。あくまで客人を接待する施設として首里城は機能していたんですね。

普久原 今帰仁城跡(ほくざんじょうあと)などの他の城は戦う目的でつくられていることが明白でしたけれど、首里城は琉球が平定された後のお城だから、外交施設としての意味合いが強かったということなんでしょうか。

仲村 そうですね。首里城は周囲に山と川があって、さっき普久原くんが話していたように、風水では理想的な配置の場所になっているんです。

藤井 じゃあ、首里城にはぜんぜん自然の要塞的な意味合いはないのですか?

仲村 郭が三重になっていますが、これはあくまで倭寇などの侵入を防御するためで、どちらかというと、城にこもって闘うというよりは、外部から来襲する敵に対しては那覇港に鉄の鎖を張り巡らせたり、岬に砲台を配置したりして進入を防いでいたようですね。一六〇九年の薩摩藩の侵攻の際にはそうやって闘ったらしい。だけど結局破れてしまう。薩摩藩はこのとき綾門大道を通って首里城に入ったのですが、幕末のペリーもこの道を通って入城しています。一八七九年の琉球処分のときもヤマトの兵隊や警察は綾門大道から首里城に入って琉球を併合しました。琉球王朝のはじまりから滅亡までをずっと見続けたのがこの道というわけです。まさに沖縄の「歴史街道」ですな。

藤井 司馬遼太郎みたいだね。仲村さんうまいこと言ったと思ったでしょ(笑)。

仲村 まことに的確な指摘という他ない(笑)。でも、首里城は沖縄戦のときに焼失してしまうんですよね。現在の首里城は一九九二年に復元されたものですが、「歴史街道」の綾門大道の痕跡はまだ残っている。だから、首里城に行く際はこの道を通っていくことをお勧めします。
 実際、戦前の首里の街並みや綾門大道の美しさは本当に格別だったみたいですね。ちなみに綾門大道の「綾」には美しいという意味があります。沖縄の歴史家であり作家の故・山里栄吉さんという方がいるんですけど、『街道をゆく6 沖縄・先島への道』(朝日文庫)で司馬遼太郎が山里さんの本から言葉を引用しています。彼は「もし首里の街が戦前のままでそっくり残っていたら、沖縄は京都、奈良、日光と肩を並べる観光地になっていたろう」と断言しているんですね。コラムニストの吉田朝啓氏も「綾城大道は石で敷き詰められていて、お寺が並び、王族の屋敷が重厚な石垣に囲まれ、亜熱帯照葉樹の屋敷林に覆われていた」と書いていますし、「屋敷の内側は花園になっていた」とも語っています。  想像するに、空の青と屋敷の緑、そして石塀や石畳のコントラストがとてつもない美しさを醸し出していて、たしかに奈良や京都をしのぐ風情だったかもしれませんね。

藤井 その道が残っていたのはいつぐらいまでですか?

仲村 たしか沖縄戦の直前くらいまでは残っていたはずです。ただ、琉球処分以降の首里城はメンテナンスされず、大正期はボロボロで荒れ放題だったらしい。取り壊してしまえという声もあって、実際、解体して神社を建てることが決まっていました。

普久原 ちょうどその頃、鎌倉芳太郎という内地の研究者が首里城の歴史的価値に注目して研究計画を練っていたところなんです。沖縄から送られてきた新聞で取り壊しを知った鎌倉が慌てて、建築史の権威である伊藤忠太に知らせ、彼らが中心になって首里城の解体を中止させたんですよね。

仲村 ただ、単に「残せ」と言っても国は納得しないので、無理矢理、首里城を日本式の宗教的な重要施設だということにしたんですよね。沖縄には源為朝の来琉伝説があります。保元の乱で追放になった為朝がひそかに琉球に逃れ、島の有力者の娘と結ばれて男の子を授かったというものです。この男児が琉球に初の王統を打ち立てた舜天です。もちろん、ありえない伝説なんですが、ただしこの伝説を利用すれば琉球の王家には日本の著名な武人の血筋が入っているというストーリーができあがります。

藤井 なるほど、日琉同祖(ヤマトと琉球の始原は同じであるという考え方)のねつ造ですね。

仲村 そうです。国から修復のための高額な予算を得るために、あえて歴史の読み変えをしたわけです。結果、首里城は修復され、これが沖縄神社として国宝に指定されました。祀られているのは、源為朝や舜天王(しゅんてんのう)、第二尚家を代表する国王です。なので、戦前の首里城は宗教施設として遙拝(ルビ:ようはい)されていたんです。伝説を方便として利用したわけですが、でも、そうでもしなければ首里城はあっさり解体されていたでしょうね。

普久原 首里城を日本本土の人が守ったというのは興味深いですよね。他にも沖縄の外部の人が沖縄に貢献した話はけっこうあります。王朝が宮古・八重山に課していた重税、人頭税(にんとうぜい/住民の頭数に合わせて課税する重税)の廃止に奔走した中村十作も越後の人でしたよね。子どもの頃は人頭税の何が大変なのかよくわかっていませんでした。現代では売上から費用を差し引いた利益に対して課税しているわけですから、一人あたりで課税していることの恐ろしさがわかったのは大人になってからですね。

仲村 明治時代、沖縄で近代的な台風観測をして、沖縄の高度な気象観測技術の礎を築いたのも仙台藩出身の岩崎卓爾です。岩崎卓爾については大城立裕さんの小説『風の御主前』(ケイブンシャ文庫)にも描かれていますね。

普久原 「沖縄の古事記」とも言われる『おもろそうし』研究を確立させた第一人者は伊波普猷ですが、与那原恵さんの『まれびとたちの沖縄』(小学館新書)という本を読むと、最初に研究しはじめていたのは田島利三郎という新潟出身の人ですよね。彼が長年の研究成果を沖縄県尋常中学校での教え子である伊波に託したことが、その後の伊波普猷を方向づけています。伊波普猷の『古琉球』の序文にも冒頭に「まず言わなければならぬ事は、恩師田島利三郎氏の事である」と書かれていたりして、人間ドラマを感じましたね。

仲村 そういう文化交流があると風通しがよくなるんです。地元にいるとなかなか足下にある価値には気がつきにくい。外側から見たときに初めて価値が発見されるということがあるんじゃないかな。

藤井 ただ、その辺の議論は難しいところでもありますよね。嘉手刈林昌(かでかるりんしょう)ら、沖縄民謡の唄者を初めて「内地」へ紹介したのも、ルポライターの竹中労です。僕も竹中氏の著作から沖縄民謡にはまっていったんです。まあ、竹中氏は自身の「革命」論の中に「沖縄」を位置づけたわけだけど、沖縄民謡を世に広げたという功績は否めないと思うんです。他にも日本の民芸運動を引っ張った柳宗悦は、朝鮮の生活雑貨の価値を見出した人としても知られています。民芸運動がそういう庶民の生活文化を見出したことも一つの功績ですけど、文化侵略や植民地主義とも関係しているから問題だと指摘する人もいますしね。

普久原 経済学者のタイラー・コーエンが『創造的破壊』(作品社)の中で、グローバル化によって社会間多様性が破壊されるけれど、社会内多様性はより豊かになるという説を唱えていますね。近代社会とそれ以外の社会の社会間多様性が破壊される側面に着目すると文化侵略に映るのでしょうけれど、近代社会内部の側面では多様性は豊かになっていると……そういうことかもしれませんね。

仲村 またまた賢そうなことを言って。バカな先輩二人の立場はどうなるの……。

藤井 仲村さん、さっきは普久原くんに殿とか言って、へりくだっていたのに、何それ!

 

(完)

※ 長い間ご愛読どうもありがとうございました。「沖縄 オトナの社会見学 R18」は大幅に加筆修正して単行本として今春刊行されます(2016年4月末予定)。 どうぞお楽しみに!