亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2022.7.15

40大竹昭子×クミ・ヒロイ&アネケ・ヒーマン『いつもだれかが見ている・エピソード0』

 


オランダで活躍するアーティスト、
クミ・ヒロイ&アネケ・ヒーマンによる写真に、作家・大竹昭子さんが物語を書き起こした短編小説『いつもだれかが見ている』が発売になりました。

14の肖像写真から広がる、せつなく謎めいた14の小説——物語×写真の競演を楽しめる小説集です。
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刊行を記念して、新たに書き下ろされた物語を「エピソード0」として公開します。
どうぞお楽しみください。

 

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大竹昭子×クミ・ヒロイ&アネケ・ヒーマン
『いつもだれかが見ている・エピソード0』

 


 

 

モデルの仕事は積極的に求めることはしないけれど、写真家のJに頼まれれば拒みもしない。舞台がオフのときにたまにやる分には新鮮だし、おもしろい。演劇では自分の全身を全方位から見せて、動き、しゃべり、舞台にのっているあいだ中、肉体は役柄の容れ物になる。でも、写真はそうではない。自分の輪郭を消して風通しのいい状態にして、まわりの空気に溶け込ませるのであり、これは私にとっていつもとちがう挑戦になる。

 その日頼まれたのは、新聞の日曜日版に折り込まれている別冊の小説のためのモデルだった。写真なんて載っていたかしらと最近新聞を見ていない私は思い、どういう小説? とJに問うと、家庭生活に退屈している女の話だと短く答えた。ありきたりねという私のコメントには、そうとも言えるし、そうでもないとも言えると返し、読むならテキストを送るというので、そうしてもらうと、たしかにセッティングはありきたりだが、主人公の心の動きが奇妙でシュールな空気を漂わせているところが悪くないと感じ、引き受けることにした。

 撮影の当日、私はジーンズにパーカーを羽織って指定の場所にむかった。衣装はむこうで用意するので考える必要がない。スマホの地図をたどって着いた先には年季の入ったアパートメントが建っていた。玄関ホールは薄暗く、床を掃除したばかりなのか洗剤の臭いが鼻を突いた。主人公の女のイメージとはちょっとちがうなと思いながら廊下を進んで部屋のブザーを押すと、その音が響くか響かないかのうちにドアがさっと開いた。

 外観とはまるでちがい、内部はモダンで、洗練されて、すべてが真新しかった。古い住戸をリノベーションして別の空間に造り替えることがだいぶ前から流行していたが、実際に見る機会はほとんどなく、年長だと思い込んでいた人物が実は自分よりずっと若いのを知ったときのような驚きが全身を駆け巡った。

 廊下はベージュ色のタイル張で、壁は塗り立てのように真っ白で、部屋に入ると、毛足の長い生成りのカーペットが敷きつめられた中央に部屋の主のようにダブルベッドが鎮座していた。ベッドのほかには隅にテーブルがあるくらいで装飾的な要素はなく、きわめて抽象的な空間と言えた。

 ベッドから少し離れたところに窓があり、さっき通ってきた公園が眺め渡せた。矩形のフレーム内には考えうるかぎりの緑色のバリエーションがひしめき合っていて、新緑の季節のただ中にあるのを伝えていた。一ヶ月つづいた舞台が終わってから今日までずっと雨つづきでろくに外を歩いていなかったし、公演中はその日その日を乗り切るのに精いっぱいで周りのことが目に入らなかった。季節が変わったことを確認できたいま、ようやく自分の外側と中身が一致したような気がした。

 スタイリストはボーイッシュな雰囲気の若い東洋系の女性で、衣装のラックを引っ張ってきたり、小物の入った大きなバッグを両肩にかついできたりと、リスみたいによく動く。ときどき金髪の東洋人を見かけるが、彼女もそのひとりで、金色に染めたショートカットの地肌から黒い毛が覗き見えていた。前にパーティーの場で同じような金髪頭の女子を見かけたとき、興味をもってどうして染めているのか尋ねたことがあった。そのほうがいろんな色の服が似合うから。彼女はそう答えた。私若いときはかなり明るい金髪だったけれど、いろいろな色が似合うと感じたことはない。当たり前すぎて気がつかなかったのかもしれないが、髪が黒いと身につける色に制約があるというのは思いもよらない視点だった。

 彼女はラックにかかっているベージュ色のタートルネックのハンガーを右手で掲げ、もう一方の手で別のハンガーをとってタートルネックの下に持っていった。

「こういう組み合わせはどうかなと思って」

 左のハンガーには同じベージュ系のアンダーウェアがさがっていた。

「下はそれだけ?」
「そうです」
「かなりワイルドね」
「はい!」

 彼女は白い歯を見せて大きく笑った。

 下着姿になるのは構わない。いや、着飾るよりもいまの自分の気分に合っているようでもあり、スリルを覚えた。脚にはストッキングを着けて欲しいと言ってそれも出してきた。パンストではなく腿までの丈の黒いストッキングで、全体としてちぐはぐな印象だが、彼女はまさにそこを狙ったのだろう。主人公の心の危うさが象徴されている。

 主人公の夫は成功した起業家で、ひとり息子は海外の高校に留学し、彼女は日がな一日家にひとりでいる。夫の帰りは遅いものの、文句を言うべき事柄がなにひとつないことが彼女の心を不安にする。こんな状態がつづくはずがない、いつかこうした日々を破壊するものがやってくるだろう。夫のいない夜、部屋の明かりを消して半裸姿でベランダに出てポテトチップスを食べていると、闇のなかにポリポリという音が響き渡り、それを聴いている自分をたしかなものに感じる。この発見に彼女は勇み立ち、不安を退ける方法をつぎつぎと編み出していく……。

 ベージュのタートルネックとアンダーウェアと黒いストッキングを着けてから、その身を真っ白なシーツの上に横たえた。いいぞ、おもしろい、とJは三脚にセットしたカメラをこちらにむけ、首を屈めてファインダーを覗いた。

 私は膝を曲げたり、それを宙に持ち上げたりして、いろいろなポーズをとりはじめた。言われなくても自然にそんな動きが出てくる。シャッターを切る音が速まり、Jがおもしろがっているのが伝わってきた。カシャッ、カシャッという音に自分の動きが連動して熱を帯び、空っぽになるのでも空間に溶け込むのでもなく、未知のものに体内が満たされていくのが感じられて気持ちが高揚した。

 私はふいに上半身を起こし、ブラジャーのホックを外してタートルネックの袖をくぐらせ、外に引き出した。何をはじめるのだろうという表情がJの顔に浮かんだ。外したそれを私はお腹に巻いて前でフックを留め、再び横になった。胸を押さえていたものが胴に移動し、背中側をかすかな違和感が刺激した。ふとこの姿はJの目にどう映っているのだろうと思い、自分が見知らぬ生き物になっていくような興奮を覚えた。Jは再びシャッターを切りはじめ、しばらくその音がつづいた。

 翌日には撮影した画像が届き、私は確認して承認のメールを送った。ブラジャーを背中にまわしたものがダントツにおもしろいと思い、それが使われるのを期待していると書き添えると、僕もそう思うとすぐに返事がきた。

 だが、新聞社の編集部が選んだのはその写真ではなかった。最初に撮った、寝ころんでいるだけの退屈なカットで、Jによればそれですらちょっと刺激的すぎると編集長が言い出し、担当者は説得するのに苦労したらしい。

 別刷りの小説と言えども、公共の新聞に折り込まれるからそういう判断になるのだろうが、いまの新聞にそのような忖度を必要とするような影響力があるとも思えず、釈然としない気持ちだった。

 しばらくしてJから、今度はメールではなく電話で連絡があった。僕たちが気に入ったあのカットにもうひとりファンがいて、その人があの画像を欲しいと言っているのだけど、あげてもいいだろうか。

 彼のその問いに、もちろん、と私は答え、そのファンってどんな人? と訊くと、あの日のスタイリストだった。ブラジャーをあんなふうに使ったことに彼女はいたく感銘し、新しい彼氏と住みはじめたばかりの部屋にあの写真を掛けてみたいのだそうだ。しかも縦にね、とJはつけ加えた。またどうして縦に? その方がずっとカッコいいって彼女が言うんだ。やってみたら本当にそうだった。

 私は電話を切るとパソコンの前に行き、画面に例のカットを呼び出して反時計まわりに回転させてみた。なるほど、がらっと雰囲気が変わる。勇猛果敢な感じが加わり、未知の生き物という気配が強まる。松の木にとまっている蝉のようでもあり、滑稽な感じがするのも気に入った。新聞社にもこの縦位置を提案すべきだったかもしれない。


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いつもだれかが見ている


■【著】大竹 昭子

■【写真】クミ・ヒロイ&アネケ・ヒーマン
■四六判・並製、184ページ
■ISBN:978-4-7505-1742-1 C0095
■書籍の詳細、購入はこちら

 

 

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刊行記念イベント&写真展のご案内


【渋谷・Bunkamura ブックショップ「ナディッフ モダン」】

《刊行記念トークイベント》

開催日時…… 7月30日(土) 18:00~19:30(開場17:45)
出演 ………………………… 大竹昭子さん、堀江敏幸さん
会場参加のお客様には、イベント終了後にサイン会を行います。

イベントの詳細、チケットのお申込みはこちら

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【青森・八戸市美術館 & 八戸ブックセンター

写真展や《ヒロイ&ヒーマンによるアーティストトーク》
《大竹昭子 トークイベント》
《ワークショップ「見えるもの と かたるもの」》が開催予定です。

各イベントの詳細、参加お申込みはこちら

 

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