写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2016.10.27

01戦争と殺人

「終戦後は何と言っても食糧が女の心を一番動かしました。私はそれを利用したのです」
 戦後の食糧難の時代、七人の女性を食糧が手に入るという言葉で栃木県や都内の人気のない山林へと誘い出し、次々と強姦して殺害した小平義雄の言葉である。
 小平が犯行に手を染めたのは、昭和二〇年五月から昭和二一年八月にかけてのこと。明るみに出た犯行以外にも、三十件以上の余罪があるとも言われ、実際どれだけの罪を犯したのかは、すでに刑場の露と消えた小平のみが知り、闇の中である。
 昭和二〇年八月一五日の終戦前から食糧は欠乏し、都市に暮らす人々は、着物や時計など食糧と交換できるものを持って、郊外の農村地帯へと食糧の買い出しに出かけることが、日常風景となっていた。買い出しばかりでなく、米軍キャンプなどから出た残飯が闇市で売られた時代でもあった。
 血眼になって食糧を求めた人々の群れの中から、目星しい女を見つけては、小平は声を掛けて、その毒牙にかけたのだった。

 

あの戦争と食糧難

 食糧難という言葉は、今の日本においては死語であろう。ただ少なくとも七十年前を生きた人々の心には深く刻まれている。
 戦後直後の食糧難はなぜ発生したのか。戦前の日本の食糧自給率は八〇パーセントほどで、あとの二割を中国や朝鮮半島、タイなどからの輸入で賄っていた。日本国内だけで、自国民を養えるだけの米を収穫することができなかったことが理由の一端にある。
 一九四一年に米英連合国と開戦したことにより、戦域が拡大し、日本国内から若壮年層の男子が戦地へ出征してしまったことが、食糧難が起きた大きな原因という見方もできる。さらには、アメリカとの戦いで旗色が悪くなり、日本へ物資を運ぶ輸送船団がアメリカの攻撃によって沈められたことにも一因はあった。米の輸入が滞っただけでなく、農作物の栽培に欠かせない農薬が不足した。当時、農薬は満州などで製造され、日本に輸入されていたのだが、輸送船の減少により、輸入量が激減した。米の収穫量は一九四五年の時点で、開戦時一九四一年の六割ほどになり、輸入米も入らなくなったことから、都市部には米が回ってこなくなったのである。
 そもそも日本が米を自給できていたのは、江戸時代までのことだった。明治時代に入ると、工業化と人口増加により、自給率は低下していった。その後日本は、資源を求めて満州や南方に進出していくわけだが、その根底には、日本では得ることができない資源だけでなく、食糧を求めていたという事情もある。日本が欧米列強にならって富国強兵の道を歩みはじめたときから、大東亜共栄圏は理想だけではなく切実な現実でもあった。世の中の大きなうねりの中で、人々は翻弄され、小平の犯罪が生まれることになる。

 

足尾銅山の恩恵を受けた土地
 小平が生まれたのは一九〇五(明治三八)年一月二八日、日露戦争の翌年のことだ。大国ロシアを相手に勝利し、日本は世界の一等国に仲間入りしたと、鼻高々になっていた時代である。一方で、都市部には地方の農村から流れてきた人々がスラムを形成し、上野万年町では木賃宿が急増、松原岩五郎や新聞記者によって貧民窟の生々しい様子が記事として発表されるなど、資本主義化による光と影がくっきりとした輪郭をつくりはじめていた。
 小平の生まれた村は日光市にあり、日本の近代化とは切ってもきれない因縁があった。村からひとつ峠を越えると足尾銅山だ。江戸時代初期に開かれた足尾銅山は、江戸時代中期には、当時の技術で銅が掘り尽くされ、明治に入ると廃鉱同然であった。その足尾銅山を古河市兵衛が買い取り、ヨーロッパの採掘技術を駆使して採掘をしてみると、巨大な鉱脈が見つかり、明治日本の国家財政を支えるほどの銅を産出するようになる。明治政府にとって、銅は生糸に次ぐ重要な輸出品目となった。当時ヨーロッパを中心に電線や電話網の整備が急ピッチに進んだことや、砲弾の先端に銅合金が不可欠だったことから、世界の市場で銅は高値で取引されたのだった。
 産出された銅や銅山へと運ばれる物資は、群馬県桐生市側からではなく、小平の村を通って日光市の今市に集められたこともあり、村は銅山を行き来する者相手の商売で活況を呈した。さらには産出された銅を精錬する精銅所ができたことで、村と足尾銅山は一衣帯水の関係となった。
 日光方面から銅山へ向かう際は人の足が交通手段ということもあり、夕方となると峠越えを諦めた旅人たちの宿が必要になる。小平の生家も含め、村のほとんどの家は宿屋を経営していた。『日光市史史料 第六集』という市が編纂した史料の中に村人たちの証言が集められている。

「足尾に行く人は、一般の旅人も商人も全部ここを通ったから、足尾とは切っても切れない関係であったわけです。上り二里、下り三里の道で五里の道は夜になると通れないから、部落の個人の家は、その当時は皆宿屋になったわけです」

 明治日本の産業革命が進行するなか、近代化の波の中に村もまたあった。一方で、銅山開発が進むにつれて、銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した。国家を支える銅山の採掘が最優先され、鉱毒被害者たちはほとんど省みられることはなかった。足尾銅山に隣接していた松木村は、鉱毒の被害によって廃村を余儀なくされ、村人たちは小平の村に移住してきた。それは小平が生まれる三年前のことである。

 

帰化人と修験者による開発の歴史
 足尾銅山が明治時代になって開発されるまで、山深く、標高も高いため米は採れず、稗や粟、麦などを常食とする貧しい村であった。
 ただ、この地に人が暮らした歴史は古い。平安時代の八二七年(天長三年)には村の鎮守である磐裂神社が造営されている。磐裂神社は明治時代の廃仏毀釈によってつけられた名前で、それまでは妙見神社と呼ばれていた。妙見信仰は、古代バビロニアに起源を持つといわれ、彼の地の遊牧民たちが北天で動かない北極星を、砂漠を旅するうえで道標として利用し神と崇めたことに端を発する。バビロニアから東の中国へと伝わり、北方の守護神となり、朝鮮半島を経て、日本にも伝播した。日本には七世紀に伝わり、百済や新羅などの帰化人たちが信仰していた。後に彼らが関東地方の開発に携わり、広まっていったといわれている。

 八世紀以降、日光は勝道上人などの山岳修験者たちによって開かれたことが知られている。源流を辿っていくと、山岳修験は日本のシャーマニズムと大陸から伝わってきた道教の神仙思想とが融合しながら発展してきたという経緯もあり、帰化人たちとも結びついていく。
 修験者たちは、鉱物に関する知識も豊富で、日本各地の鉱山開発の先駆けとなった。日光周辺には足尾銅山だけでなく、金精峠など鉱山と繋がりのある地名も多く残されていることから、修験者たちが、日光周辺を歩き鉱山開発に携わったことは言うまでもない。
 帰化人たちの関東入植で、重要視されたのは、鉱山開発である。関東地方の秩父において、銅が発見されたのは七〇八年のことで、その発見によって東国の開発がさらに進んでいく。大和朝廷は、七一六年に武蔵国に高麗郡を設け、一八〇〇人の高句麗人を移住させている。日光が勝道上人によって開山されたのは七六一年だから、これも東国開発の流れに沿った事象といえる。村にある神社は彼らとの繋がりによって造営されたと、推察できるのではないだろうか。

 

中国での残虐行為と日本での殺人
 連綿と歴史が続いてきたこの集落で小平は一八歳まで暮らした。尋常小学校卒業後、しばらく実家で過ごしていたが、二年ほど東京に出て働いた後、実家に戻り古河電工で仕事を得た。その間、特に問題は起こしていなかったが、一八歳のとき海軍に志願して以降、凶暴な一面が顔を覗かせるようになる。

 海軍の横須賀海兵団に配属となり、横須賀の色街で初めて女を知る。その後軍艦に乗艦し各地で女を買うようになった。本人曰く、日本人に似ているフランス人がお気に入りで、一晩で四、五回やったと逮捕後に警察で供述している。売春婦を買うばかりではなく、海軍時代には中国の大沽(タークー)で、暴行殺人の萌芽ともいうべき強姦をしている。供述によると、中国人の民家へ押し入り、まず父親を縛り上げてから隠れている娘を出させ、強姦したうえでその性器を切り取ったという。さらには妊婦の腹を突き刺し、赤子を出したこともあった。そのような残虐行為を五、六人にやったという。軍隊時代の残虐行為は彼の心に宿っていた暴力性に火をつけるきっかけとなった。
 海軍除隊後、二七歳で小平は最初の結婚をする。ただ他にも女をつくり妊娠させたことが妻にばれ、結婚して四ヶ月で妻は実家へと逃げ帰った。妻に未練があった小平は妻の実家へ押しかけ、戻ってくるように説得するが、拒絶されると、深夜に鉄棒を持って忍び込み、妻の父親を殺害し他の家族六人にも重傷を負わせ、殺人罪で逮捕された。懲役一五年を言い渡され、小菅刑務所に収監されることになる。

 

「淫獣」の手口
 昭和一五年に恩赦による仮出獄で刑務所を出所すると、大東亜戦争において日本の敗色が濃くなった昭和一九年、前科を隠して再婚する。その前年、小平は、のちに国内で最初の暴行殺人を起こす場となる大森の海軍第一衣糧廠に職を得ていた。いよいよ東京への空襲も本格化しだすと、妻を郷里の富山へと疎開させ、小平は衣糧厰に住み込むようになる。
 この衣糧厰時代に最初の犯罪を犯すまで、商売女から素人の女まで、取っ替え引っ替えに情交を重ねた。供述調書の中で小平は性欲と女についてこう語っている。

 “女と関係するときは自分の性欲を満足させるだけです。ただ性欲を満たせばいいんです。女が満足しなくても構いません。その女のことはすぐ忘れてしまいます”

 当時の新聞に淫獣と書かれた小平だが、その性欲は止まるところを知らなかった。性欲を満たすだけでなく、女を犯した後殺意が芽生えるようになったのはどういった理由があったのか。
 人に対して殺意を覚えるようになったのは、軍隊時代大連(ターリエン)に駐屯したとき、付き合っていた女性が浮気をするのを見て、殺そうと思ったのが最初だという。そのときは軍籍に身を置いていたため思いとどまった。日本で犯した最初の殺人事件では、妻を取り戻すため、その父親を殺害した。軍隊時代には中国人女性を強姦し殺害していることから、すべての殺人が女絡みだ。抑えられない性欲が殺人の根底にあった。
 連続暴行殺人の幕開けとなる衣糧厰時代の殺人は、小平がその施設で働く女性を口説いたものの断られたことから逆上したことに端を発する。かっとなった小平は馬乗りになって女性の首を締めると、その興奮で射精した。気を失った女性を別の部屋へと移し、蘇生するまでタバコを吹かしながら待った。このとき蘇生した女性は、観念し自ら服を脱いだ。その後関係を持ち、職場の同僚ということもあり、小平は強姦したことが発覚することを恐れ、昭和二〇(一九四五)年五月、彼女に手をかけ殺害し、施設の庭にあった防空壕に埋めた。
 この事件では小平以外の男性に嫌疑がかかり、その隙に衣糧廠を辞め、栃木や都内で標的となる女の物色をはじめるのである。最初の暴行殺人で逮捕されなかったこともあり、強姦した女性を殺してしまえば事件は露呈しないのではという感情も芽生えた小平は、これからの約一年のあいだに、さらに六件の暴行殺人を重ねていくこととなる。

 

大森海岸三業地をゆく
 ちなみに、小平が働いていた海軍第一衣糧廠はもともと悟空林という割烹で、戦中は海軍に接収され、戦後は米軍向けの売春施設となった。小平事件の現場から米軍の性欲発散の場へ。性を巡る因縁がついて回る。
 京浜急行大森海岸駅の改札を出て、東の方角へと足を進めると、国道一五号線が、京浜急行の高架と並行して走っている。国道沿いには、マンションが建ち並び、大森海岸という地名から連想される海はどこからも目にすることができない。今から七十年以上前、先の大戦の時代まで時計の針を戻してみると、この場所には絵はがきにもなった松林と海岸が広がり、景勝地として文人墨客に愛された。
 かつて砂浜は、八幡海岸と呼ばれ、明治時代になると、海水浴場として開発された。さらに、海水浴客を当て込んで、明治二〇年代には料理屋が軒を連ねるようになった。さらに明治三〇年代になると、料理屋だけでなく、芸妓屋が店を出しはじめ、「大森海岸三業地」と呼ばれるようになった。
 三業地とは、芸妓屋、待合い、料理屋が営業を許された地域のことで、警察によって指定された歓楽街である。芸妓屋とは、芸者を置いていた置屋のことで、客から呼ばれた芸者を料理屋や待合いに派遣した。芸者は純粋に芸を売るだけでなく、中には「不見転」と呼ばれ、相手かまわず体を売る者もいて、待合いは今でいうラブホテルのような役割も果たしていた。日本各地にあった三業地に売春はつきものであった。
 ちなみに、愛人のペニスを切断した阿部定が事件を起こしたのは、東京荒川区にある尾久三業地の待合いだった。
 小平が事件を起こした悟空林は戦争で接収されるまでは、歓楽街の中にあった。ちなみに悟空林の隣には、戦後東京で最初の米軍向けの慰安施設となった小町園が建っていた。
 悟空林と小町園のあった場所を歩いてみると、国道一五号線に面していて、現在はマンションとなっている。裏手は「しながわ水族館」である。小町園と悟空林は、東京の中心である皇居から見ると、都の東南の外れであり、東京の婦女子を米兵から守るための防波堤とするにはうってつけの場所であった。ここからほど近い場所には、鈴が森の刑場がある。刑場は江戸を守るための結界の役割を果たしたわけでもあるが、時代が下って、ここ大森に性の防波堤が築かれたのも江戸時代から続く地縁と無関係ではないだろう。

 

戦後、米兵のための慰安所に
 マッカーサーがトレードマークのパイプを加えて神奈川県厚木飛行場に降り立つ二日前の八月二八日のこと、マッカーサーの露払いをする先遣隊一五〇名が沖縄から厚木に入った。その先遣隊を待っていたかのように一日前の八月二七日には、小町園へ三〇名の女たちがRAA(特殊慰安施設協会)によって送り込まれていた。
 集まったのは、RAAが新聞に掲載した女性従業員募集の広告を見てきた素人の女たちだった。広告には、米兵相手の慰安婦募集とは書かれておらず、戦争で夫を失った未亡人や空襲で家族を失った女性などが衣服、食糧、住宅の保証などの好条件に惹かれて応募してきたのだ。戦前から小町園で働いてきた女中が、最初に米兵を相手にすることとなった三〇人の女たちの姿を目にしたときの記録が『昭和二十年八月十五日』(新人物往来社)に収録されている。

《いよいよ、明日の二十八日、厚木へ進駐軍の第一陣がのり込むという、その前日になって、お店の前に、二台のトラックがとまり、そこから、若い女のひとばかり三十人ばかりが、おりて、なかへ、ぞろぞろ入ってきました。(中略)その女のひとたちが、進駐軍の人身御供になる女だ、とすぐ分り、私たちは、集まって、いたましそうに、その人達を見やりました。
 モンペをはいているひともいますし、防空服みたいなものをつけているひともいます。ほとんど、だれもお化粧をしていないので、色っぽさなど、感じられませんが、しかし、何といっても、若い年頃のひと達ばかりですから、一種の甘い匂いのようなものが、たゞよっていました。
 このひとたちは、みんな素人のひとでした。(中略)銀座八丁目の角のところに、新日本の建設に挺身する女事務員募集の大看板を出して集めたひと達ですから、進駐軍にサービスをするという事は分っていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかったひと達もいて、なかには、そのときまで、一人も男のひとの肌には触れなかった生娘も何人かまじっていました》

 女たちの姿が瞼に浮かんでくるような、何とも生々しい記録である。マッカーサーが厚木に降り立った日に現れた五人の米兵たちは、特に問題を起こすことなく、事をなすとチップとタバコを置いて帰っていった。五人の米兵がその日の経験を兵舎で語ったのか、翌日からは、多くの米兵が集まり大混乱の様相を呈した。土足で小町園に入ってくるのはまだかわいいもので、中には女であれば見境なく、娼婦だけでなく、事務員の女に手を出そうとする者までいた。日に日に混乱はひどくなり、十人以上の米兵を相手にするのは普通で、朝から晩まで六〇人の相手にし、病院に運ばれ絶命した女もいた。

 

戦争と性―その濁流の跡
 悟空林、小町園跡を歩いてみると、マンションの一角に木造の小さな社が残っていた。社のある場所は、マンション住民のための通路の片隅で、わざわざ他の場所から持ってきたとは思えず、小町園時代からこの場所に鎮座していると考えるのが自然だろう。信心深かった昔日の人々は、娼婦であれ従業員であれ、この社に手を合わせたことだろう。この地のかつての主たちは、すでにこの場所からは消え、彼らの忘れ形見である社だけが残されていた。
 私は日頃信心など持ち合わせていないが、今では誰も省みることないこの社には頭を垂れ、手を合わせた。
 米兵たちに体を売ると知らずに小町園へと入っていた女たちや絶命した女たちが、小平に食糧が手に入ると騙されて山林に連れ込まれ、強姦されたうえに殺害された女たちの姿と、だぶって見えてしまう。どの女たちも、その日、その日を生き抜くために、必死だったのだ。そしてどちらも紛れもなく、時代の濁流に翻弄された者たちなのであった。

 

 

(第1回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2016年11月15日(火)掲載