写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2017.3.22

07ズーズー弁と吉展ちゃん誘拐殺人事件

 神奈川県の新興住宅地で生まれ、そこで育った。一九六〇年代に雑木林を造成、宅地化された街である。今ではショッピングモールやマンションが建ち並び、都心のベッドタウンとして人気も高く、移り住んでくる人々があとを絶たない。私が幼かった頃はまだ、駅のまわりに野っ原がひろがり、春になればシロツメクサに覆われた。空にはヒバリが飛んでいた。そのヒバリの巣を見つけようと、駆け回ったものだ。
 住宅地の外れには、建設現場で働く労働者の飯場がいくつもあった。しばしば生じる喧嘩が原因で刃傷沙汰となり、作業員が包丁で刺され死亡するという事件も起きた。

出稼ぎ労働者に石を投げた友人

 飯場の近くを通りかかって、たまに彼らとすれ違うようなときには、ふだん自分がしゃべっているトーンの日本語とは違う言葉を彼らが話していることが、幼いながらに感じられた。
「あれは東北のほうの言葉で、ズーズー弁っていうんだよ」
 男たちの言葉について母に疑問をぶつけると、そんな答えが返ってきた。
 ある日、友人の一人が、ズーズー弁の男に石を投げるという事件が発生した。すぐに小学校の知るところとなり、いつもは温厚な担任の女性教師がものすごい剣幕で彼を叱った。
「お前はあの人たちが、なんでここに来ているのかわかっているのか。あの人たちは、東北から出稼ぎにきているんだよ。冬のあいだは雪が降って農業ができないから、家族のため、お金を稼ぐために働きにきているんだ。もしケガでもしたら、お前はどうやって責任を取るんだ。あの人たちの家族みんなが、困ってしまうんだよ」
 そのとき、農閑期に東京など首都圏へとやってくる「出稼ぎ」という言葉を初めて知った。一九八〇年代前半、今から三〇年以上前の話だ。私にとって、最初の東北との接点であった。
 今にして思えば、同じ町に暮らしていながら何の交流もなかった彼ら東北人の姿は、最近首都圏近郊の町でよく見かける外国人労働者の姿とよく似ている。日本経済が底上げされ、東北から出稼ぎにくる者はほとんど見かけなくなった代わりに、アジアや南米から来た人々が、工場や建設現場などで働いている。彼らは私たち日本人と同じ町に暮らしながら、やはり違う世界を見ているのだろう。
 幼さゆえ当時は言葉にできなかったが、私の心に引っかかった違和感の正体は、土地に居ついた者と、時とともに流れてゆく者がまとう空気の違いだった。日本という国に、まだ色濃く地域性、土着性が残っていたことの証であろう。
 後年、いくつかの異国を旅してきた私自身の経験から言うと、よそから来た人間に対して、まず強い反応を見せるのは子どもだ。心を取り繕うところがないため、その反応はときに残酷ですらある。南米などを歩いていると、年端もいかぬ童子から「チーノ」(中国人の意)と連呼され、実際に石を投げられたこともある。今となっては確かめようもないが、あのときズーズー弁の男に石を投げた友人は、出稼ぎ者たちに異人の匂いを感じていたのだろう。

漂流者と「吉展ちゃん誘拐殺人事件」

 東京をはじめとする都市圏が地方からの労働者を加速度的に吸収しはじめたのは、一九五〇年代に入ってからのことだ。
 終戦直後、日本人の五〇パーセントは農業に従事していたが、一九五〇年代半ば頃から高度成長がはじまると、都市と農村部の給与格差はどんどん開いていった。一九六〇年の統計によれば、中卒の初任給は、東京に比して東北では三割も額面が少ない。戦後の農地改革によって小作人は減り、土地を手にする者が増えた一方で、農地の細分化が進んだため生産性はかえって上がらず、農村の次男、三男は、必然的に都市へと流れた。一九五〇年代後半から一九六○年代後半まで、東京オリンピック前年(一九六三年)の九三万人をピークに、毎年五〇万人以上が農村を離れて都市へと流入した。都市が過密化する一方で、農村では今日喧伝されるようになった「限界集落」へとつながる過疎化が、すでにこのときはじまっていた。
 高度経済成長、そしてオリンピックという大号令の下、東京では首都高速道路や団地の建設が本格化していく。とりわけ前者は、「水の都」といれわれた東京の運河や江戸以来の掘りを埋め立てるといった、がむしゃらな開発でもあった。これらの現場作業、また後者の団地建設ラッシュについても、実際に汗を流して街をつくり替えていった担い手は、東北地方を中心とした地方から職を求めてやってきた男たちだった。
 農村から東京への人口流入は、高度経済成長が安定期に移行する一九七〇年代前半まで続いた。そうした時代の奔流のなか、あの「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件」を起こした小原保(こはら・たもつ)もどこにでもいる東北の若者として、福島から東京へとやってきたのだった。
 彼は一一人兄弟の下から二番番目で、しかも幼い時分破傷風に感染したことが原因で普通に歩くことができず、肉体労働のできる体ではなかった。当然農家では食っていくことができず、他の多くの地方の若者たちと同じく、東京へ出てくることは生来、宿命づけられていたといえるのかもしれない。
 彼が東京で最初に居を定めたのは、当時一万五〇〇〇ともいわれた多くの労働者が集まる荒川区の山谷からほど近い、南千住であった。

事件現場と誘拐の手口

 古びた雑居ビルや木造家屋の狭間に真新しい現代風のマンションがそびえ建ち、思わず上空を見上げてしまう。時代の地層が剥き出しになった町の一角に、その公園はあった。コンクリートの築山で遊ぶ子どもの姿を、こぎれいな身なりの母親がにこやかに見守っている。ベンチでは、初老の浮浪者が今にも地面にずり落ちそうに浅く腰掛け、首をだらんと下げて眠っている。両者の間に物理的なバリアは何もないが、まるでお互いが存在していないかのように、そこには何の交流もない。
 吉展ちゃん事件の現場となった入谷南公園にやってきた。公園の目の前に暮らしていた村越吉展ちゃん(当時四歳)が小原保に連れ去られたのは、今から五〇年以上前、東京オリンピックを翌年に控えた一九六三年(昭和三八年)三月三一日のことだった。
 その日のうちに吉展ちゃんを殺害した小原は、それを秘して身代金を要求し、警察の警備の隙をつき五〇万円を奪って逃走。その後、二年にわたる捜査の末に逮捕された。警視庁には、「FBI方式」と呼ばれる専従捜査チームが結成され、名刑事と呼ばれた平塚八兵衛が捜査に当たった。広く情報の提供を仰ぐため、オリンピックを控え急激に普及していたテレビやラジオを通じて、小原の肉声が公開された。まさに、劇場型事件の走りといえる騒動だった。
 吉展ちゃんの姓を表す「村越」という表札の付いたビルを、公園のすぐそばに見つけた。もし両親がこのビルに暮らしているのだとしたら、事件から五〇年以上、毎日公園から響いてくる子どもたちの声を耳にし続けてきたことになる。何と残酷なことであろうか。

 事件が起きたのは夕方五時すぎ。吉展ちゃんは公園内にあったトイレの手洗い場で水鉄砲に水を入れようとしていた。アメリカ製で、銃身が六〇センチもある大きなものだったが、水を貯める部分が壊れていて、小さな吉展ちゃんは何とか水を入れようと悪戦苦闘していた。
「坊や、おじさんがなおしてあげようか」
 小原にそう声を掛けられた吉展ちゃんは、何の疑いも持たず、ついていってしまう。

『天国と地獄』を地でいく犯行

 当時三二歳の小原は、この南公園からほど近い御徒町にある時計店に勤めていた。
 自身の仕事に対するだらしなさが原因で借金問題が積み重なり、犯行に及んだのだ。問屋から仕入れ、店で販売するはずだった時計を個人的に売ってしまったり、修理に持ち込まれた時計を売り飛ばしてしまうなど、身勝手極まりない行為を続けていた。不正が明るみになり、総額一二万円の弁償を要求された。現在の貨幣価値に換算すると、六〇万円ほどだ。時計修理工として不義理を重ねた小原に信用はなく、店は辞めざるを得ず仕事も行き詰まった。もちろんそんな金は持っていない。頭を抱えていた小原は、事件を起こす四日前の三月二七日、金の無心をするため実家のある福島へ向かった。しかし、過去に借金を踏み倒している実家には結局顔を出さず、故郷の山野で野宿をして過ごし、三月三一日に虚しく東京へと戻っている。
 東北からの玄関口上野駅へ降り立ち、不忍池のほとりを歩きながら思いついたのは、最近観たばかりだった黒澤明監督の映画『天国と地獄』の登場人物と同じように、子どもを誘拐し身代金を得ることだった。横浜を舞台に撮影されたこの映画は、貧民窟に暮らす主人公が高台に見上げる豪邸の主に嫉妬心を抱き、身代金目的の誘拐事件を起こすというストーリーである。山崎努演じる犯人の青年が暮らしていた貧民窟は、横浜・黄金町で撮影された。二〇〇五年の摘発により、かつての面影は薄れた黄金町だが、昭和三〇年代から四〇年代にかけては娼婦や麻薬中毒者が町に溢れ、路上で野垂れ死ぬ者も少なくなかったと、往事売春を生業としていた女性から聞いたことがある。
 日本経済は右肩上がりに伸び続けていたが、それは裏を返せば、貧富の差が目に見える形で広がっていた時代だったともいえる。福島の寒村から出てきた小原にしてみれば、『天国と地獄』の世界は虚構ではなく、現実そのものに見えていたのだろう。南千住や入谷南公園周辺はもともと、貧しさが剥き出しになった土地であり、つい最近までその名残りは随所に残っていた。

貧民窟と東京外縁部

 南千住は江戸時代には刑場があった場所で、明治に入って工業化が進むと、地方から東京へ人々が流入してくるようになった。そうしてドヤ街として知られる山谷の町が形づくられた。事件が起きた入谷南公園周辺から歩いて数分の場所には、明治時代のジャーナリスト松原岩五郎が潜入取材をした入谷万年町と山伏町がある。松原が著した『最暗黒の東京』から土地の記憶をたどってみたい。その記述は生々しい。

“これぞ府下十五区内の内にて最多数の廃屋を集めたる例の貧民窟にして、下谷山伏町より万年町、神吉町等を結び付たる最下層の地面と知られぬ。町家をくぐりて一歩この窟に入り込めば、無数の怪人種等は、今しも大都会の出稼ぎを畢りて或る者は鶴嘴(つるはし)を担ぎ、或る者は行厨(べんとう)を背負い、或者(ママ)は汗に塩食みたる労働的衣服を纏い、(中略)あるいは下駄の歯入れする老翁、子供だましの飴菓子売、空壜買の女連、紙屑拾い、往来諸商人、しかしてこの窟の特産物たる幼稚園的芸人の角兵衛獅子等は、おのおのその看護者に伴なわれて、茹蟹または蜀黍(もろこし)の炙り灸を食いつつ疲れて殆んど歩めざる足を曳きずりて踣(こ)け転びつつ”(※括弧内のルビ筆者)

 松原は、下谷から浅草、さらには帝都三大スラムのひとつ鮫ヶ橋の残飯屋で自ら働くなどして、東京の貧民窟の姿を活写した。引用した文章に出てくる「角兵衛獅子」というのは、新潟県月潟村をルーツとする門付芸のことである。月潟村は越後平野の中にあって、近くを中之口川が流れ、大昔から毎年のように起きる洪水に悩まされてきた。安定した農作物の収穫もままならず日々困窮する村を何とかしようと、角兵衛という者が室町時代、村の子どもたちに獅子舞を教えたことが角兵衛獅子の起源だという。その後時代は移り、月潟村の子どもたちは大人たちとともに、江戸を拠点に全国を渡り歩くようになっていった。
 万年町と呼ばれる前は山崎町といわれたこの周辺は千束池と呼ばれる池がある低湿地で、もともとは東京湾の水が出入りする人煙とは無縁の土地であった。しかし江戸幕府が開かれると、戦場で土木工事や死体の処理を行う黒鍬組(くろくわぐみ)なる軽輩の者たちによって干拓された。
 黒鍬組のルーツをたどれば、木曽川や長良川に見られる堤防で集落を囲んだ地域「輪中」(わじゅう)から出た者たちで、水害に晒される土地で生き続けてきたがゆえに、独自の技術を身につけ、柄を黒く塗った鍬を持って全国各地を渡り歩いた。
 干拓された千束池の西側は、上野の山の先にできたため、山崎町と名付けられたという。この土地に暮らしたのは、乞胸(ごうむね)と呼ばれた大道芸人たちだった。もとは小伝馬町一丁目あたりに集められていたが、江戸の町が拡張していくにつれて外縁部へと追いやられていき、その後、江戸幕府が倒れるまで山崎町に暮らすこととなった。吉原遊郭を取り仕切る穢多頭だった弾左衛門の屋敷がもとは日本橋周辺にあったところ、浅草に移されたのと同じことで、やはり乞胸に対する賤視がそこにはあった。
 江戸時代の乞胸にルーツを持つ万年町の貧民窟は、関東大震災で壊滅したのち整理されていき、南千住の山谷や江東区の森下といった東京の外縁部に、あらたな貧民窟ともいえるドヤ街が形成されていった。
 角兵衛獅子に代表されるように、江戸時代を通じて貧民窟に流れてきたのは、地方の人間たちだ。吉展ちゃん事件が起きたときには、区画整理が進んだ入谷南公園周辺に往時の面影はすでに薄れつつあったが、それでも戦後すぐに建てられた長屋がまだ軒を連ねていた。
 華やかな高度経済成長の影で起きたこの事件にもまた、江戸の外縁部に当たるこうした地域が四〇〇年以上にわたり担わされてきた、負の因縁が付きまとっているのではないだろうか。

三ノ輪~東京球場~円通寺、そして殺害

 誘拐を思い立った小原の足は、かつて浅草へと向かう道すがら通りがかった際に子どもらの姿を目にとめた入谷南公園へと向かっていた。人により金の価値は異なるものだから一概には言えないが、実勢六〇万円の弁償金のために破滅の道へと歩を進めようとしていた。小原という男、かなりの小心者で根っからの悪人ではなかったのだろう。図太い悪人ならば、その程度の借金など気にせず、どこか他の土地へと流れていくに違いない。小原にはそれができなかった。借金のことで頭がいっぱいになり、分別を失っていた。
 事件を起こす半年ほど前から、小原は都電荒川線の荒川一中駅の近くで小料理屋を営む女性と同棲していた。彼女は、小原が事件を起こさなければ、将来の結婚も考えていたという。あるいは小原も、彼女との未来のため、目の前にある借金を何とかしようと思い詰めていたのだろうか。ジャーナリスト本田靖春の『誘拐』によれば、幼くして両親を亡くしたその女性は横浜の出身で、芸者をしているときパトロンを見つけ、小さな小料理屋を開いたのだという。
 世の中の本流から外れて生きてきた彼女は、深い淀みの中にもささやかな幸せを紡げる場所を見つけた思いだったろう。そこで、小原という男に出会ったのだった。
 公園から吉展ちゃんを連れ出した小原は進路を北にとり、自分の生活圏である三ノ輪方面へ向かった。途中立ち寄った公園で、吉展ちゃんを返すか殺すか一度逡巡したが、吉展ちゃんから、「おじちゃん、足が悪いんだ」と言われて決意を固めた。このまま返してしまっては、すぐに自分が犯人だと特定されてしまう。小原は殺害場所を探して三ノ輪界隈をさまよった。
 その間、吉展ちゃんは特にむずかることもなく、小原のあとをついてきたという。吉展ちゃんの人懐っこさが、仇となってしまった。
 小原が向かったのは、南千住にあった東京球場だ。事件の前年に完成したばかりの東京球場は、大映のワンマン社長永田雅一が、私財三〇億円を投じて建てたものだった。毎日大映オリオンズの本拠地で、内外野は天然芝、ブルペンは屋内にあり、今では当たり前になったゴンドラシートも設置され、球場内にはボーリング場まであった。時代を三〇年以上先取りした、さながらメジャーリーグのボールパークのような豪華さだった。夜になれば鮮やかなカクテルライトが下町を照らし、別名「光の球場」とも呼ばれた。ちなみに東京球場は、完成から一五年で取り壊された。家庭にテレビが普及するまでは大勢の人々が詰めかけた映画館が人を集められなくなり、大映が倒産したからだ。
 小原と吉展ちゃんが歩いたその日、シーズンは開幕前で試合は行われていなかった。光のともらぬ球場の近くで小原は吉展ちゃんに手をかけようとしたが実行できず、さらに南千住界隈をあてどなく歩いた。
 東京球場を出るときには、街はすっかり闇に包まれており、吉展ちゃんは「おうちにかえろう」と声をかけた。焦りはじめた小原が手を引いていったのは、いきつけだったバーの向かいにある円通寺の墓地だった。
 さすがに歩き疲れた吉展ちゃんは、小原に寄りかかるように寝てしまった。小原は吉展ちゃんをうつ伏せにすると、巻いていたベルトを外し、そのか細い頸部に巻きつけ窒息死させた。そして遺体を墓の唐櫃(かろうど)に押し込めた。

戊辰戦争と東北にまつわる因縁の地

 入谷南公園から車で五分ほどの円通寺を訪ねた。国道四号線沿いにある境内に足を踏み入れると、黒い格子門が目に入ってくる。上野寛永寺の黒門がここに移されたのだという。近づいて見ると、門柱には至るところ虫に食われたにしては大きい、直径一センチほどの穴が空いている。弾痕だ。一八六八年、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争において、薩摩、長州藩を主力とする西軍は幕府軍を打ち負かしながら東進し、四月一日には江戸城の無血開城に成功。戦わずして、幕府は西軍の軍門に降ったわけだが、それに不満を持った江戸の治安維持を担当していた彰義隊は、寛永寺のある上野の山に籠り、西軍に戦いを挑んだ。彰義隊の中には、千束池の干拓に関わった黒鍬組の子孫も少なからずいたという。
 戊辰戦争の舞台となったこの土地と小原との因縁に、私は大いに興味をそそられた。
 五月一五日に両者の戦端は開かれ、当時最激戦地となったのが寛永寺の黒門付近だった。当時の黒門は上野駅前交番から西郷隆盛像へと登る階段の手前にあった。彰義隊は壊滅し、一日で戦闘は終わった。彰義隊隊士の死体を埋葬し菩提を弔ったのが円通寺の住職であったことから、その後黒門は円通寺へ移築されることになった。上野の戦いの後、戊辰戦争は長州、薩摩藩を中心とする西軍と小原の出身地福島県の会津藩を中心とした東北諸藩との戦いへと移行する。彰義隊の生き残りのなかには、東北での戦いに身を投じた者も少なくない。しかし結果、会津藩は白虎隊の悲劇に象徴されるように、西軍から完膚なきまでに叩きのめされた。
 そして、戊辰戦争の血が染みついた黒門が移築されたこの寺に、約一〇〇年後、福島出身の小原が吉展ちゃんを殺し、埋めたのだった。
 この地に円通寺を開いたのは、平安時代に蝦夷を討伐した坂上田村麻呂だ。朝廷の命を受け、東北の蝦夷討伐において中心的な役割を果たした人物である。七九一年、征東副使に任命され、宮城県付近で蝦夷と戦っている。戦役に赴く途上、武運を祈ってこの寺を建てたのだろう。それから約三〇〇年の時を経て、福島とも因縁のある源義家がこの寺にやってきた。奥州清原家の内乱である「後三年の役」で討ち取った四八の首を供養する塚を建てたのだ。
 義家は、後三年の役以前にも、父頼義に従って豪族安倍頼時の乱鎮圧のため奥州に向かっている。その際、小原の故郷である福島県石川町母畑温泉付近に進軍。敵の襲撃によって馬が負傷し、温泉の混ざった川の水を使って手当をしたところ、不思議と馬の傷が癒えた。兵たちの士気を鼓舞する意味も兼ねて、山の神の助けであるといい、温泉の湯元に母衣と旗を奉納したことから、この地は母衣畑と呼ばれるようになり、それが母畑の語源となった。石川の地名は、源義家の従者石川有光が恩賞として与えられたことから、その姓にちなみつけられたという。
 円通寺と小原の故郷とのこの不可思議な繋がりは、何を意味するのだろうか。単なる歴史の偶然とは切り捨てられない土地の属性が生み出す、数奇な物語を思わずにはいられなかった。
 南千住の地は、江戸時代奥州街道の通過点であり、小塚原の刑場も置かれた。江戸の玄関口であり、奥州との境界でもあった。松尾芭蕉が奥の細道の第一歩をスタートしたのも、南千住の隅田川のほとりである。古来から、奥州と江戸や鎌倉、さらには京都を結ぶ中継点であったのが、ここ南千住という土地なのである。かつては、関屋の里と呼ばれ、平安時代には集落がすでに成立していた。誓願寺など古刹の創建年代は八世紀中頃のことで、円通寺の創建と同時代だ。人や物、軍馬が行き交ったのが、この円通寺の周辺だった。古代から昭和まで脈々と東北と東京を結ぶ土地の歴史は続いてきたのである。

ズーズー弁の記憶

 鉄筋コンクリート造の寺務所へ足を運び、吉展ちゃんが遺棄された墓の場所を尋ねると、「はい、こちらにどうぞ」まるで名所の案内でもするかのように先導してくれた。少し前に、小原を尋問で自白させた平塚八兵衛刑事を主人公にしたドラマがテレビで放送されてから、参拝者が増えているのだという。
 肩を寄せあうように墓石が並ぶ狭い墓地の一角に、小さな地蔵が置かれていた。この地蔵の下の唐櫃に、吉展ちゃんは押し込められていたのか。私は地蔵の前でしゃがみ、手を合わせた。二年以上にわたって密閉された空間に押し込められていた吉展ちゃんの遺体は白骨化し、口からは二年で発芽するネズミモチの芽が出ていたという。
 その後、墓地の裏に事件当時からある民家のひとつを訪ねた。
「すごい人出だったねぇ。遺体が発見されたときには墓地が閉鎖されていて、うちの家の二階から取材陣が写真を撮ったり、ビデオを回したりしていたんだよ。土足で家の中に入ってきたり、電話を使われたりして、マスコミにはいい思い出がないねぇ。NHKだけだね、あとからハンカチを送ってきたのは。ほかはどこもそれっきりだよ」
 礼をいって老女と別れ、ふたたび円通寺の界隈を歩きながら、今から五〇年ほど前に起きたセンセーショナルなこの事件のことを考えていた。私はこの世に生を受けておらず、リアルタイムでは何も知らない。福島出身である小原と私のか細い接点は、幼心に異国の言葉にも似たズーズー弁を聞いていた記憶だけである。ただそれだけに過ぎないのだが、それゆえに、私はこの事件のことが気にかかって仕方がない。単なる誘拐事件として片付けられない何か、よくあるニュースと通り過ぎられない何かが私を刺激するのだ。
 かつては、日本国内における地域差というものは、誰にでもわかる形で見聞きすることができた。思えば、テレビで東北弁を売り物にする芸能人もいた。しかし昭和四〇年代以降、高速道路や新幹線が開通したことにより、ヒト、モノ、カネの行き来は以前より広範になり、日本の社会はどんどんフラットになっていった。出稼ぎという言葉もほとんど死語になった。
 四歳の幼子を殺めた小原という男の所業は断罪されて当然だが、彼の人間性だけに罪をなすりつけることには、釈然としない思いがどうしても残る。やはり、彼が生まれ育った時代と風土にこそ、事件の鍵は秘められているのではないか。こんな仮定が無意味なことは百も承知だが、もし小原が現代に生まれていれば、同じような事件を起こすことはなかったのではないか。
 私は、小原の生まれ故郷を見ておきたいと思った。現在の景色に潜んでいるであろう、彼が見たかつての風景を描き出し、それを感じ、見ることによって、私なりにこの事件の答えを導き出したいと思った。

 

 

(第7回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年3月31日(金)掲載