写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2017.4.19

08漁師町の女――和歌山毒物カレー事件

 車一台がやっと通れるほどの切り通しを岬の突端に向かって歩いていくと、いきなり視界がひらけ雨まじりの突風が頰を叩いた。目の前には白波が立つ海原が広がり、その右手には、ローマ時代に作られたコロッセウムのようなすり鉢状の急斜面に、岩場に張りついた貝のように小さな民家がびっしりと密集していた。
 海と対峙しつつ、外界との接触を拒むかのようにひっそり佇む集落の姿に重い空気を感じ、私はしばし足を止め、傘を強く打つ雨音のなか、その景色をずっと見つめていた。
 今では、他の地区とつながる車道も存在するが、かつては目の前の海へ船で出るか、獣道のような道を抜けていくしか、外の世界へ出る方法はなかったという。

林眞須美が生まれた集落

 和歌山県有田市、集落の名前は矢櫃(やびつ)という。「ヤビツ」の語源はアイヌ語との説もあり、同じ地名は各地に存在する。アイヌ語の意味は、「谷と谷に挟まれた土地」。漢字の意味する矢櫃は、矢を容れる容器のことだ。目の前の集落には、矢を挿した細長い櫃のイメージはしっくりこず、大陸から次々と人々が流れてくる前に、列島の至るところに暮らしていたアイヌの人々が残していった言葉のほうが、この集落には似合っているように思えた。
 夏祭りで供されたカレーを食べた四人が亡くなった「和歌山毒物カレー事件」の犯人とされた林眞須美死刑囚は、この集落で生まれ育った。漁業を生業とする網元の娘だった彼女は、幼い日より何不自由のない恵まれた生活を送ってきた。事件発生当時は疑惑の人物と騒ぎ立てられ、二〇一七年四月現在、冤罪を主張している。常にマスコミのスポットライトが当たる女性だ。

カレー事件とマスコミ

 事件が起きたのは一九九八年七月二五日。現場は、和歌山県園部(そのべ)市の新興住宅地。毎年おこなわれる夏祭りでは、住民たちが作ったカレーが振る舞われるのが恒例となっていた。それを楽しみにやってきた人々がカレーを口に運ぶと、次々に嘔吐や下痢の症状を訴える人が現れ、六七人が病院に搬送された。当初は食中毒と思われていたが、翌日には六四歳の自治会長と五四歳の副会長、女子高生、小学校四年生の四人が死亡する事態となった。警察が彼らの吐瀉物や遺体を調べると、毒物である亜砒酸が検出された。
 捜査が進展するにつれ、林眞須美と夫である健治の周囲で高額な保険金詐欺が起きていることが明らかになった。警察は林眞須美が亜砒酸を使い、知人男性らの殺害を企てていたとして、カレー事件も同一人物による犯行と疑った。事件から約二ヶ月が過ぎた一◯月四日、警察は本件とは別件の知人男性への殺人未遂と保険金詐欺で林眞須美を逮捕する。そして一二月九日には、夏祭りの会場でカレーに亜砒酸を加え住民を殺害した容疑で再逮捕した。
 事件発生直後、警察が林眞須美と健治をマークしていることがマスコミに漏れると、二人と子どもたちが暮らしている家のまわりには報道陣が殺到し、静かな住宅街はとんでもない騒ぎに包まれた。夫婦の一挙手一投足を追って四六時中カメラが家に向けられた。取材とは名ばかりのプライバシーの侵害に怒った林眞須美がテレビカメラに水をかけるシーンが何度も全国に流れた。あの映像だけを見た人は、林眞須美が恐ろしいほど太々しい女性だと思ったことだろう。
 かく言う私も、かつては写真週刊誌のカメラマンとして、警察から漏れてくる情報によって右往左往していた者の一人である。事件の捜査対象になっている人物に関する情報は、新聞社やテレビ局が加盟する記者クラブを通じて流れてくることがほとんどだ。
 私はカレー事件の現場は知らないが、別の事件で、警察にぴったりマークされている人物の張り込みをしたことがある。同僚を殺した容疑のかかった女性で、林眞須美のようにテレビ局が張りつくことはなかったが、警察だけでなく新聞社や私たち雑誌記者たちからも追いかけられていた。いつ彼女が逮捕されるかわからないので、行動確認をしている警察が引き上げるまで、朝から晩まで私たちも現場に居続けた。逮捕の瞬間を逃してはいけないと必死だった。
 カレー事件が起きたときに写真週刊誌で仕事をしていたら、おそらく私は嬉々として現場に飛んでいただろう。だから、林眞須美の家を囲んだ記者たちを批判する資格はまったくなく、とやかく言うつもりもない。ただ、映像や写真を通じて、ひとたび疑惑の渦中にある人物と報じられてしまうと、刑が確定したわけでもないのに、犯人のように扱われてしまうのはいかがものかと思う。過去の冤罪事件において、警察の自白偏重の取り調べやいい加減な証拠集めがその一因となったケースは数多いが、マスコミの報道体制もそれを助ける温床となっているのは、否定できない事実だろう。

林健治を訪ねる

 林眞須美は死刑囚としていまだ獄中にいるが、林健治はすでに刑期を終え、和歌山市内に暮らしていた。連絡先を知り合いの編集者から聞き、取材の申し入れをするとすんなり了承してくれた。少し古びている以外は何の変哲もない小さなマンション、そこにはテレビの画面で見慣れた林健治の姿があった。
 彼に聞いてみかったことは、彼女が殺人を犯したかどうかより、林眞須美という女性はどのような人物だったのかということだ。
 二人が出会ったのは、健治が三六歳、眞須美死刑囚二〇歳のときだった。以降の物語を健治は独特の言い回しで、あけすけに話してくれた。
「まぁ、出会いゆうたって、そんなに込みいったもんじゃないんやけどね。僕が白アリ(駆除)の仕事やっとったとき、今は亡くなった若い男の子がたまたま入ってきたんよ。そいつが女遊びばっかりしてるようなやつで、手帳を見ても女の名前がたくさん書いてあるのよ。そのなかに名前があった看護婦のひとりに、眞須美の友だちがおったんです。僕はそのころ結婚しとったけど、まだ女遊びしたい歳ごろやったし、なら女の子紹介しましょか、いう話になって。その後、なんやかんやあって、眞須美がですね、初めてうちに来よったんですよ」
 健治は既婚者だったが、そのことは伏せて眞須美とつきあい出したのだという。
「当時の嫁はんの実家が埼玉でね。『ちょっと静養してこい』と帰らして、ほいでそのあいだに眞須美と。ほいだら頭いいんですよ。心臓外科で勉強してるんやから、まぁ頭いいよね。やっぱり心臓とか脳はね、トップクラスですよ。まぁ歯医者とか産婦人科は最低クラスやろうけど。そんでまあ、綺麗やしね。一メートル六五くらい背ぇあったし、痩せとったしね、あの頃は。そいでお金持ってたし」
 当時、シロアリ駆除の会社社長として羽振りのよかった健治だったが、それでも眞須美の金使いには驚いたという。
「ものすごい持ってるわけよ、実家がね。そんときは僕もよう儲けとったから、財布の中にギチギチに金持っとったけど、まぁ、親が欲しいだけくれる言うんですよ。その買いっぷりを見たらびっくりですわ。まぁ言うたら、くだらんもんよう買うてました。化粧水とか、普通は何百円かで買えるんやけど、それでも化粧品やからゆうてね、一万五〇〇〇円のもん買うんですよ。化粧落とすだけの薬ですよ。そんでタクシーでですね、大阪から私の住んでる和歌山まで往復するんやけど、六万円かかるんですよ、六万。夜一〇時になったら深夜割増になるから、よけい高くなる。それでもバンバン来るんですよ」
 眞須美は夜中に寮を抜け出しては、タクシーで和歌山とのあいだを往復した。
「だから二〇万くらいの金なんか、二日か三日でのうなってしまう。タクシーでバーッと来て、そこらのコンビニ寄って買い物したら、もう食事代も残ってないんですよ。『そんなに使って、金はどうすんの』ちゅうたら、いやお父さんに電話すればすぐに銀行に入るから、ゆうわけや。へー、ほうなん。嘘かホントか、ワシも魅力ちゅうか関心あったから、お父はんにいっぺん電話してみいよ、と電話させたんですよ、眞須美に。『お父はん、ちょっとお金のうなったんで振り込んでよ』『なんぼならぁ』てな感じで、『五〇ほど振り込んでぇ』ゆうたらね、明くる日にはもう五〇入ってたんです。ほぉ、すっごいところの子どもやな、と驚きましたわ。ほんでね、しばらくしたら僕を親に会わすゆうから、ドキドキしましたよ。嫁はん、おんのにね」
 私はいつの間にか、漫才のようにリズムのいい健治の話に引き込まれていた。
「やばいですよ。ほなかて漁師でしょ、相手は。兄貴は暴走族のリーダーですよ。誠会ちゅう暴走族の。親父は漁師の網元ですよ。おたくは知らんやろうけど、和歌山では辰ヶ浜ゆうたらね、そこでいったん喧嘩起こしたら死体が上がってこんくらい怖いとこなんですよ。馬の道いうとこに行ったら、ほんまに上がってこんのですよ。昔の芸人や俳優が一晩で四億、五億の借金作ったのもあそこですわ。大きな博奕やっとんです。そういうところの網元の娘に手ぇ出してるんですよ、私。それも嫁はんがいてんのをひた隠しに隠してね。ほんで行ってみたら、眞須美の婿どついたるゆうて、向こうは鉢巻き締めて構えてるんですよ。『猫の子引っぱってくるみたいに、うちの娘ぇ犯しくさって』ゆうて、みんな棍棒持って立っとったですよ。仕方ない、そこへ行ってやね、話をしましたわ。やったらまぁ、なんでか気に入られて、親父から。ほいで、埼玉に帰らしてた女と別れたんですわ。当時はアパート借りとったんですけど、アパートなんか住んどったらあかん、ワシが友だち連れてったら格好悪いから、家買えゆうて。ほんで家買うたんですよ。三〇〇〇万くらいのをローンで」
 家を買ってすぐに、眞須美の父親が訪ねてきたという。
「これ持っとけゆうて、スーパーのレジ袋を差し出すんですよ。なんかな思うて中のぞいたら、札束ですわ。そんときは、ボンとカウンターの上に置いといたんです。ほいで、あとで眞須美に『この金もろてええんか』ゆうたら『うん。ええ、ええ。もうといたらええわ』って。二〇〇〇万ありましたわ。そのころから僕も、金の感覚がなかったんですね。ほんだ今度は、翌日眞須美のお母さんが来てですね、『健治さん、これ』ゆうて袋を渡すんです。一〇〇〇万入っとんですよ。『お母さん、これ……昨日二〇〇〇万親父さんにもうたですよ』ゆうたら、『お父さんはお父さん、私は私』て。家買うた三〇〇〇万分の現金をね、夫婦でボンとくれよったんです。そんなような家でしたよ」
 なんとも豪快な一家だ。健治の話はまだまだ続いた。
「漁師町やからね、自宅はそんなに綺麗で立派なわけでもないんやけど、船は沖出て一回傾いたら一〇〇〇万、二〇〇〇万の売上げですからね。鯛獲り専門やったから。バブルが弾ける前やったし、一匹獲ったら三万、四万で料亭がナンボでも買いよるんです。そりゃもうすごい金でしたよ。だから、家の一軒や二軒建てるくらいは漁業組合がぜんぶ金出すんです。なんぼでも金貸してくれるわけ。漁船の売上げから何パーセントか抜くいうやり方やから、博奕で負けて一晩で家とばしたかて、ナンボでもまた家建つんですよ」
 健治の話を聞いていると、三方を丘に囲まれ人を寄せつけない印象を受けた集落が、妙に人間臭く感じられてきた。

紀州徳川家が用いた熊野水軍の末裔

 林眞須美が生を受けた集落の来歴に関しては、しっかりとした記録が残っている。
 もともと人跡未踏だったこの地に人が住みはじめたのは、江戸時代初期の元和(げんな)年間のことだ。元和は、徳川家康が大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした慶長二〇年(一六一五年)、後水尾天皇の即位に際して改められた元号だ。元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれ、応仁の乱以降続いた戦乱が終わりを告げた、徳川家の支配体制が盤石になった時代である。
 御三家のひとつ紀州徳川家の祖、徳川頼宣が紀州に入ったのは元和五年のことだ。西暦でいえば一六一九年、今から約四〇〇年前のことである。戦国時代より紀州は、大名に統治されない特殊な土地だった。根来衆に代表されるような「地侍」、半農半士の集団が割拠し、独自の勢力として複数存在していた。ゆえに豊臣秀吉の紀州征伐に屈するまで、山深くまで海が迫った地勢学的な要因もあって紀州全域を配下に治める者はなく、難治の国とされた。
 天下の趨勢が決したとはいえ、紀州に御三家のひとつが配されたことは、いかにこの地域の統治が難しく、幕府がその管理を重要視していたかの証しでもある。そこで頼宣は、領内の地侍たちを藩士として召し抱える地士(じし)制度を定めた。彼らをそのまま野に放っておけば、反乱の温床となる可能性があるからだ。
 紀州入りして間もなく、領内を巡る意味もあり、頼宣は熊野神社に参拝した。その帰途、現在の東牟婁郡(ひがしむろぐん)串本町津荷(つが)に暮らしていた漁夫の茂兵衛と茂大夫という者が水先案内人として、頼宣の船に同乗した。
 東牟婁郡といえば、中世から戦国時代にかけて紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘、そして瀬戸内海を席巻した熊野水軍の拠点のひとつだ。津荷からほど近い古座(こざ)には、高川原(たかがわら)氏と小山氏という水軍の領主がいた。両者は源平合戦から信長、秀吉の時代まで戦乱の世を生き抜いてきたが、江戸幕府の成立により水軍は存在価値を失った。不穏分子化する恐れがあると判じた頼宣は、高川原氏と小山氏を紀州藩士に取り立てた。ただ、両氏に仕えていた者たちすべてが地士として藩士になれたわけではなく、村に残り漁師などをして暮らす者も多かった。津荷に暮らしていた漁夫の茂兵衛と茂大夫が、まさそれだった。
 船旅の途上、頼宣は彼らが熊野水軍の末裔だと知り、その技能を活かす方法を思いついたのだろう。両名に矢櫃で暮らし、海の見張りをするよう命じた。生活の糧を漁で得られるように、海女舟とアワビ漁用の舟を三艘ずつあたえたという。こうして矢櫃は諸役御免の地となった。茂兵衛と茂大夫は、「くま」と「ちよめ」という名の妻をそれぞれ伴い、矢櫃に入った。この二組の夫婦から矢櫃の歴史がはじまったわけだ。諸役御免というお墨付きの効果もあって人口は増えていき、明治に入る頃には八〇戸までになったという。

土地、言葉、生業、そして意識の断絶

 熊野水軍からはじまった矢櫃の歴史。その時間の堆積の上に、林眞須美は生まれた。領主の肝煎りで移住してきた者たちの子孫が暮らす矢櫃に対して、ほかの集落の人間は、少なからずやっかむ気持ちもあるのだろうか。ある男性は明からさまに言った。
「あそこは海賊だよ。言葉も違うしな」
 眞須美死刑囚の生まれ育った集落と周囲の町や村とのあいだに、歴史的かつ心理的な断絶があることがうかがえる。男性の言葉を裏付けるように、矢櫃に限っては南紀方言が色濃く残っているという。和歌山弁ではなく。
 健治が語るこの地の人々の豪快さは、博奕のような生業(漁師)のみならず、遠い昔に水軍として命のやり取りをしてきた血の名残もまた、影響しているのかもしれない。漁船の安全が確保されるようになったのは戦後しばらく経ってからのことで、長い歴史の中で見れば、つい最近のことだ。櫓を使った人力の時代から漁師たちは自分の経験とカンだけを頼りに、命懸けで海と向きあってきた。しぜん漁師の生き様は、毎年収穫が望める農家や定期収入を得られるサラリーマンとは異なったものになろう。
 今日でこそ近隣の工場へ働きに出る人も増えたが、長らくこの集落では多くの人が漁業で生計を立ててきた。眞須美自身も、網元である父親の豪胆な生き様をその目に焼き付けながら育った。高度経済成長期以降、多くの日本人の中に埋め込まれた「一億総中流意識」とは相容れない価値観の中で生きてきたのだ。

園部の住民との埋まらないギャップ

 カレー事件の現場となった園部は、中世に拡大した荘園にその名が見られる歴史ある土地だ。紀ノ川が近くを流れる、のどかな田園地帯である。同じ和歌山県とはいっても、眞須美の生まれ育った海辺の集落とは別世界だ。当然、人々の気質も大きく異なるだろう。
 眞須美が暮らした豪邸は今では公園になってしまっているが、そもそも新築ではなく中古だった。ハウスメーカーが量産するような、よくある戸建て住宅ではなく、そうした規格を度外視した豪華な造りが気に入ったのだという。
「買ったのは事件の三年ほど前やったね。一二五坪ほどあって、リモコンで門もサーッと開くしね、うわーいいなー、これがほんまに金持ちの家やなと思うたくらい立派な家でしたよ。そこらの建売と違うてね。ええ家やと惚れ惚れしたね。まぁ、それが失敗の元やったんや。いや、ほんとに」
 すでに保険金詐欺を生業としていた二人は、園部の住宅街では浮いた存在になっていった。
「朝まで麻雀して、昼間から外車に乗ってね、サングラスはめて遊んでると。近所のもんはもう、あれはヤクザだって、そういう雰囲気やったですよ。だからみんな、敬遠してたわな。そこへもってきて、この事件で火ぃついたもんやから、あいつを犯人にしてあいつを追い出せたらヤレヤレや、いうことやったんやろね。それで一気に加熱したんやなと思てるよ、ワシは」
 カレー事件は、眞須美の動機がいまだはっきりせず、犯行の目撃者もいない。眞須美自身、一貫して犯行を否認し続けている。眞須美も健治も、自分たちが逮捕されるとは思ってもいなかった。
「漁師町の出やからね、なんやかんやゆうたってあいつは面倒見がよかったし、情も厚かったですよ。だからマスコミを憎んだりとか、そんなことはまったくなかったし、なんぼ悪いこと書かれたって、なかなか憎みきれんのよな、性格的に。それが仇になったんやなぁ。記者をみんな家に入れて、そうめん食わしたりなぁ。ワシら、マスコミちゅうのはテレビか映画の中でしか見たことなかったし、実際に目の前にやってきたら面白かったしね。最初は遊んでたからなぁ、人が四人亡くなってんのも忘れてしもうて。あんないろんな人がマイク持ってきたら、ええ格好になってしまうわ。『健治さん、私はあんたが犯人やない思うからここで飯食うてんのやで』て、そんなこともゆうてくるしやね。家の上にはヘリコプターが飛んで、警察はうろうろしてる。水戸黄門は来るわ、月光仮面は来るわで、まあ面白かったね。ほんとにまぁ、人が亡くなったのにアレやけども、自分にしてみれば初めての体験、経験やから、そりゃ麻雀や競輪してるよりよっぽど迫力あったよなぁ。すごい事件が起こったんやなと。まさかそんとき、自分がお縄になるとは思うてへんから」
 取り繕う気配もない健治の話しぶりから、小悪人ではあろうが、あのような陰惨な事件を起こすような人物にはどうしても見えてこない。これは私の思い違いなのだろうか。
「眞須美は豪気なところで育ったもんやからね。他人からごたごた言われたからって、陰でこそこそヒ素を盛るだなんて、そんな姑息なことはようしないですよ。そういう生まれつきだから。矢櫃だったらそんなん、もうその場で喧嘩ですから。だからワシ、最初っからどうしても動機が解せんのよ。近所のもんに言われて激高して、こっそり陰険に意趣返して、それはないやろうと」
 しかし、彼らの思いとは裏腹に、警察による包囲網は徐々に狭まり、逮捕の日は近づきつつあった。

 

 

(第8回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年4月28日(金)掲載