写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2017.5.11

09劇場型犯罪と在日韓国人二世の半生

「真っ赤なスポーツカーに乗って、鳥打ち帽をかぶって、派手な色のシャツを着てね、オシャレで粋な人だったよ」
 二〇一〇年三月に韓国・釜山で亡くなった金嬉老(きん・きろう)の思い出を語るのは、静岡県掛川市内で理髪店を営む男性だ。金嬉老は掛川から七〇キロメートルほど離れた静岡市清水区(当時清水市)の生まれで、テレビを賑わせた殺人事件を同地で犯している。しかし、事件前には掛川市内に暮らしていたのだ。

金嬉老が通った理髪店

 事件が発生したのは一九六八年(昭和四三年)、今から五〇年ほど前の話だ。彼のことを記憶している人物に出会えるだろうかと心配していたが、杞憂だった。理髪店の中で話を聞いた。
 身だしなみにこだわっていたという金嬉老は、二週間とあけずにこの店に来ては散髪していったという。店主には心を開いていたようだ。
「スポーツカーにはいつもライフルが二丁積んであって、『おまえも撃つか? 河原で撃つと気持ちいいぞ』なんて言われたこともあったね」
 おそらくそのライフルは、立て籠もり事件に使われた猟銃M三〇〇だろう。事件以降、規制が厳しくなったが、今も市場に出回り、狩猟に使われている名銃だ。金嬉老は、このM三〇〇の弾倉に改造を施していた。日常的に銃を持ち歩くなど、たしかに普通の感覚ではないが、人に対しては親切で面倒見も良かったという。そんな彼の性格を物語るエピソードを店主が教えてくれた。
「一度朝鮮人の女の子を『店で預かってくれ』と頼まれたことがあって、一人前になるまで世話をしたことがあったんだ。そうしたら感謝してくれてね。パチンコで勝ったと言っては、理髪代が二〇〇円だった時代に五〇〇円のチップを従業員全員に置いていったな」
 その少女は金嬉老の知人の娘だった。金嬉老曰く、どの店でも朝鮮半島生まれだという出自から、受け入れを拒まれ続けたのだという。そうした経緯もあり、この男性が受け入れてくれ、しっかり理容師として育ててくれたことに恩義を感じたのだろう。
「とにかく義理堅い人でね。私の店には事件のすぐ前まで来てくれてたんです。幼い頃の話なんかもしてましたよ。日本人に馬鹿にされたんだって。学校では生徒だけじゃなくて、先生にまでからかわれたと言ってたな。だけどあの人が偉かったのは、ここ掛川では決して弱い者いじめはしなかった。私はね、何ひとつ悪い思い出はないんですよ」
 どこの都市でも似たり寄ったりかもしれないが、店主によれば、昭和四〇年代の掛川ではヤクザが幅を利かせていて、飲食店ばかりでなく商店街の洋品店などにも顔を出しては、みかじめ料を要求することがままあったそうだ。そうしたゴロツキまがいの連中に対して、金嬉老は毅然とした態度を取り、追い払ったことが何度もあったのだという。
 借金問題を抱えた金嬉老が清水のクラブで暴力団員の男ふたりを射殺、寸又峡(すまたきょう)の温泉旅館に立て籠もり、一三人の人質を取ったニュースがテレビに流れたとき、彼はいつものように開店の準備をしていた。
「あのころ、『木島則夫のモーニングショー』っていう番組があってね。それを毎朝つけていたんですけど、人質を取って旅館に立て籠もるだなんて、物騒なことが起きたなって見ていたら、金岡さんがインタビューを受けているんで驚いたのなんのって」
 金岡(安広)というのは、金嬉老の通名である。
「だけど、まさか人を殺すとは思わなかったよね。日本人の私にはわからない葛藤があったんでしょう。相手のヤクザから朝鮮人だなんだと言われて、頭に血が上っちゃって。残念なことになったと思ったよ」
 店主の話からは、金嬉老の知られざる一面が伝わってきた。

掛川に母親の足跡を追う

 かつて金嬉老の母親が掛川駅前で韓国料理屋をやっていたというので、店主に礼を言い、そちらに向かうことにした。理髪店を出て歩きだすと、電柱の陰からスーツ姿の恰幅のよい男がいきなり現れ、私の前に立ち塞がった。
「おい、さっきから何の話をしてたんや? 今さら余計なことを聞き歩いているんじゃねぇぞ」
 私と店主の話を立ち聞きしていたのだろう。かなり高圧的な口調で言った。男の言葉には関西の訛りがあり、静岡の人間ではなさそうだ。果たして何者だろうか。殺害された暴力団員の仲間なのか。金嬉老はすでに鬼籍に入ったが、あるいは今でも隠された事実があるのだろうか。
 何かを隠している男の態度が気になった。
「金嬉老の事件を振り返るということで、話を聞いて歩いているんです」
 微笑みながら取材をしていることを告げる。経験上こういうときは臆せず真っ正面から応じたほうがいい。
「そぉか……。金嬉老の親族は今も掛川に暮らしとるから、そこを訪ねてみたら、いろいろわかることもあるやろう」
 私の風体や声色に気を許したのか当初の強い口調はおさまり、わざわざ金嬉老の一族が経営している焼肉屋の場所を教えてくれたた。貴重な情報をくれたのは有り難かったが、収まりがつかないのは私のほうだ。男は何に焦っていたのだろうか。
「金嬉老のことで、何かご存じなことはありませんか」
 男は、それ以上聞くなとばかりに頭(かぶり)を振ると、足早に去っていった。
 期せずして、あの事件が今も人々の心に刻み込まれていることを知ることとなった。しかも、かなりはっきりとした像として。生々しい傷跡が突然ぱっくりと口を開けて現れる、そんな瞬間にこの取材ではしばしば出くわす。
 掛川駅北口を出て、西の方向に五〇メートルほど歩いた。クラブやバーの看板が連なる古びた雑居ビルの前で立ち止まり、しばし眺める。ビルのむこうに広がる空の青さに、象徴的なコントラストを見る思いがした。かつてここに、金嬉老の母親が経営する料理屋があった。小さな飲み屋が密集する猥雑な一角だったというが、今では、そんな賑わいの痕跡はない。いくつかの飲み屋を飲み込んだビルの存在だけが、この一角が刻んできた歴史の残滓を今に留めている。
 時の流れのなかで、街の景色はすっかり色褪せてしまったが、どうして金嬉老という人物は、私を含め、少なくない人々の心に巣くって消えないのだろう。
 彼の起こした事件が、個人の諍いから生じる犯罪という範疇から、ある種、突き抜けてしまっているからだろうか。民族や国家の軋轢、差別といったものと無縁ではない彼の人生に、喉に刺さったトゲのように、何らかの違和感やざわつきを禁じ得ないからだろうか。

私にとっての透明だった存在

 在日韓国・朝鮮人という存在を意識したのは、いつのことだろう。はっきりと思い出せないほど、子どもの頃の自分には縁遠い存在だった。もしかしたら、金岡という通名を使っていた金嬉老が、韓国人であることを知られにくかったように、じつは私の身近にも在日の人間はいたのかもしれない。逆にいえば、それほど見えにくい存在だった。
 在日の人間をはじめて生で知ったのは大学時代のことだ。その人物はユースホステル部の後輩で、祖父母だか両親だかが韓国人だと私に言った。彼は通名を使っていた。本人の口から韓国人であるということを告げられなければ、私は今でもそれと知らずに過ごしていただろう。実際、その後現在に至るまで、在日であるとカミングアウトしている人との知己を得たことはない。 
 現在日本には、約五〇万人の在日韓国・朝鮮人がいる。先の大戦中の一九四四年には二〇〇万人近くが日本に暮らしていたが、祖国へ帰還する者や、日本国籍を取得したことによって、現在の数にまで落ち着いた。
 さまざまな事件の取材をはじめたことで、在日韓国人の殺人者金嬉老の存在を知った。
 彼が事件を起こしたのは、私が生まれる四年前のことだ。私が産声をあげたときには刑務所の中にいた金嬉老との間には、何の物理的な接点も見出せない。それでもなぜ、この金嬉老という人物に私は興味を惹かれるのだろうか。己の借金問題からふたりの人間を射殺したことは言語道断の悪行である。どこの国の生まれであろうが、何の弁解の余地もない。在日差別への反抗心から事件を起こした、という彼の声明に共感したわけでもない。多くの知識人が訴えた、植民地問題における被害者の代弁者だという物言いにもピンとこない。むしろそうしたイメージは、金嬉老の本当の姿を歪めてしまうのではないかという思いがあった。金嬉老と家族が時代の奔流のなかでどのように生き、人格形成がなされていったのか、等身大の姿が知りたい。それが私にとって、透明な存在である在日の人々の姿を知る手がかりとなる気がした。

一家の悲運と差別

 金嬉老は在日二世として一九二八年一一月二八日、現在の静岡県静岡市清水区に生まれた。朝鮮半島の釜山(プサン)から渡ってきた父親は、東京で同じく韓国人の母親と出会い結婚した。清水へ生活の場を移し、清水港の港湾労働者の親方となって二〇人以上の人夫を使い、裕福な暮らしぶりだったという。ところが、今も清水港に会社がある鈴与の仕事で、樺太から運ばれてきた木材の積み下ろしをしていた際、木材に胸を直撃され、父親はあっけなく亡くなってしまう。金嬉老が五歳のときのことだ。
 その悲劇的な事故を境に、一家の生活は一変した。遺産相続で揉め、身籠っていた母親は金嬉老と姉と妹を連れて、家を出ることになってしまった。母親は一家心中も考えたが、なんとか踏みとどまると、清水区築地町にバラック小屋を建て、新しい生活をはじめた。しかし、女性であり、しかも日本人ではない母親に満足な仕事は見つからず、屑拾いぐらいしかできることはなかった。彼女はリヤカーを引き、傍らに金嬉老を連れて街に出た。
 チマチョゴリを着て屑拾いをする母親と金嬉老を、日本人の子どもたちが、「朝鮮人、朝鮮人」とからかい、ときには石を投げた。彼らに怒鳴るでもなく、黙って耐えている母親の哀しげな姿は、幼い金嬉老の心の中に重い記憶として刻まれた。
 尋常小学校に上がっても、金嬉老への差別は静まることがなかった。著書『われ生きたり』にはこのような記述がある。

“なにかといえば朝鮮人、朝鮮人とからかわれるのです。
「朝鮮人はかわいそう。なぜかというと地震のためにお家がペッシャンコ、ペッシャンコ。やあい朝鮮人! 野蛮人」
 節回しのついたこんな歌で大勢の同級生に囃し立てられ、誰も味方のいない私は泣きながら家に帰ることの繰り返しでした。
 私の学級に朝鮮人は私一人。学校には私のきょうだいを除いて、4、5人の朝鮮人がいました。苛められたのは、私だけではありません。皆おなじ経験をしています“

 貧しい生活ゆえに、妹たちは学校へ弁当を持っていくことができなかった。母親は息子にだけは弁当を持たせたが、それも麦飯に梅干しを乗せただけものだ。
 小学校三年生のある日、同級生から弁当をひっくり返され、踏みつけられた嬉老は我慢がならず、相手と取っ組み合いになった。喧嘩に割って入った担任教師は、嬉老だけを蹴飛ばしたという。帰り道、嬉老は学校の近くを流れる川にカバンを投げ捨てると、翌日から登校しなくなった。
 なんと暗く、塩っ辛い少年時代であろうか。読むほどに暗澹たる気持ちにさせられる。
 一方で、本当にそんなことがあったのか、にわかには信じがたいと感じる自分がいるのも確かだった。自然と私の足は、静岡市清水区に向かっていた。差別の記憶が土地に残っているかどうか、この耳で確かめたかった。

朝鮮人労働者の港町

 清水は、小ぢんまりとして落ち着いた港町である。嬉老少年がカバンを捨てた巴川が街の中心を流れ、その岸に沿って街並みが形成されている。清水港はかつて江戸へ米を送る積み出し港として栄えた。大坂などから荷を運ぶ船も行き交い、明治時代に入ると、茶葉の輸出港として繁栄を極めた。港の栄華の中心にあったのは巴川の右岸で、海道一の親分と言われた清水の次郎長の旧居や伊豆半島から運ばれた伊豆石を使った石蔵が多く残っている。そうした歴史はガイドブックにも大書されているが、私が目を向けるのは、スポットライトに照らされた歴史ではない。朝鮮人と蔑まれた嬉老親子が暮らした巴川の左岸、築地町に向かって歩を進めた。築地という町名からも、浅瀬の埋め立によってできた比較的新しい町だということがわかる。
 一九二一年に清水港と朝鮮半島を結ぶ定期航路が開かれたことで、港湾労働などの仕事を求めた朝鮮人労働者たちがこの町に集まりはじめた。朝鮮半島からの労働者を使っていた鈴与の寮も築地町にあった。
 清水港と朝鮮半島は、不思議な因縁で結ばれている。七世紀に起きた唐・新羅連合軍と百済・大和朝廷による白村江の戦い。この戦に、清水港付近を治めていた廬原君臣(いおはらのきみおみ)が一万余の軍勢を率いて参戦しているのだ。廬原君臣は白村江の戦いの三年前から船の建造を命じられ、勇んで海峡を渡ったが結果は惨敗であった。滅んだ百済があったのは、金嬉老が晩年に暮らした釜山の地だ。
 大和朝廷による百済復興計画は叶わなかったが、当時の先端技術を持った百済の人々が亡命してきたことによって、日本各地の開発が進んだのは歴史が物語っている通りだ。しかし、隣国同士の関係というものは洋の東西を問わず難しいもので、のちに日本による韓国併合が両国の関係に禍根を生んだ。金嬉老の父親をはじめとする朝鮮人が来日するきっかけともなった。そして、日本に暮らす朝鮮人の多くは、言われなき差別に苦しむことになる。
 金嬉老には、幼少期にクンツリという名の親友がいた。クンツリの両親は日本語を話せなかったこともあり、日本に馴染めず、母親は清水港に身を投げたという。クンツリは父親とともに清水を去っていった。

「よい日本人となるために」

「正直いって、朝鮮人への差別はひどかったよ」
 かつて金嬉老が通った小学校近くで、彼と年の頃が近そうな男性に話しかけてみると、学年は違うものの同じ小学校に通っていたというではないか。金嬉老のことをしっかりと記憶していて、自身もいじめたことを包み隠さず話してくれた。
「学校には朝鮮人はそんなに多くなくて、各学年にひとりかふたりぐらいだったよ。『朝鮮人、朝鮮人』とからかったりしていた。金嬉老は年下だったけど、怯むことなく向かってきたね。そうすると、こっちも生意気な野郎だって余計いじめたりして。今から思えばちょっと可哀想だったな」
 学校だけでなく、家に押しかけてイタズラしたこともあったという。
「このへんじゃ唐辛子を家の前に干しているのは朝鮮人の長屋ぐらいだったから、物珍しくてね。金嬉老が住む家に干してあった唐辛子を盗んだこともあったな。そうすると、母親が意味のわからない向こうの言葉を口走りながら追いかけてくるんだよ。それが面白くて、よくイタズラしにいったなぁ」
 これが日本人同士の間の出来事なら、笑い話で済ますことができるのかもしれない。しかし、「イタズラ」や「からかい」とはいえ、そこには朝鮮人を侮蔑する気持ちが含まれているため、どうしても笑い話として受け止めることができない。心の中で後味の悪さを噛み締めながら、男性に礼を言うと、私は長屋のあった築地町へと向かった。
 巴川に架かる港橋という橋を渡る。左手には富士山が見え、風景に彩りをあたえている。が、先ほど聞いた話を反芻するたびに、眼前の景色はにわかに色を失う。足取りは重い。
 かつて朝鮮人が暮らした長屋があったという辺りは、住宅や駐車場に変わっていた。言われなければ、屑拾いを生業とし、唐辛子を干しながら暮らした朝鮮人の母子家庭がここにいたことを知る術はない。細い路地が入り組んでいたというが、その面影は今やどこにもない。ただ、建っている家の区画が他の地区より狭く、かろうじて以前は細々とした家が並んでいたことがうかがえた。整備されたアスファルトの道を見つめながら、また男性の話を思い起こす。生々しい人間の記憶と乾いた景色のギャップに、頭がくらくらする。
 来た道を引き返し、今度は金嬉老が通っていた小学校へと向かった。彼は小学校に上がるとき、希望に胸を膨らませたと著書に記している。ところが、その思いは無残にも裏切られ、わずか三年で学校に通わなくなったことは先に触れた。
 清水を訪ねたのは四月の上旬ということもあり、校内の桜は満開だった。今から八〇年以上前の四月、この校門をくぐった金嬉老も桜の花に迎えられたことだろう。
 と、ひとつの石板が目についた。黒く古びた御影石には、「よい日本人となるために みんなで学びきたえよう」という文字が刻まれていた。この石版を嬉老少年が目にしたかどうかはわからない。ただ、朝鮮人という出自ゆえに、この学び舎で差別を受け続けた男のことを思うと、複雑な感情を抱かずにはいられない。
 よい日本人となれず小学校を中退した金嬉老は、丁稚奉公に出る。かつて父親のもとで使用人だった男と母が再婚したこともあり、彼の居場所は家にすらなかった。
 幼くして不安定な生活環境に放り込まれた金嬉老は、心の不安を埋めるかのように盗みなどの犯罪を重ねていく。少年院、刑務所と娑婆を行き来する生活のなかで、生まれ育った清水のクラブでヤクザ二名を射殺するという事件を起こした。銃の引き金を引く直接的なきっかけとなったのは、「アサ公が、ちょーたれたことこくなっ!」という男のひと言であった。銃弾を放った後、金嬉老は寸又峡の温泉旅館に立て籠もる。
 思えば、この小学校を中退した小学校三年生のときから、寸又峡の旅館へ籠ることを宿命づけられたような人生である。
 巴川のほうから吹いてくる一陣のたおやかな風に、校庭の桜が揺れた。
 舞い散る花びらのなか歩き出した私の足は、寸又峡へと向かっていた。

 

 

(第9回・了)
※この続きは、2017年初夏刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年6月12日(月)掲載