写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2017.6.30

10川俣軍司――流れゆく者たち

深川通り魔殺人事件

「うちの目の前は立ち飲み屋、その二軒となりは食堂で、当時は昼間っから人通りも多くて賑わっていたね。今じゃどこの店もやってないけどさ。うちも昔は簡易宿泊所(ドヤ)をやっていて、東北からの出稼ぎの人を泊めたもんだよ。このあたりは、若い女の人が歩けるような場所じゃなかったね」
 私は、一軒のタバコ屋の女主人から当時の話を聞いていた。
 東京都江東区森下は、広く深川とも呼ばれる江戸以来の土地だ。一九八〇年代まで労働者向けのドヤが何軒も建ち並んでいた街の面影は、現在ほとんど残っていない。わずかに数軒のドヤはあるが、そこに泊まる肉体労働者の姿はなく、「フクシ(福祉)」と呼ばれる老人、生活保護受給者たちがひっそりと暮らしている。
「川俣軍司ねぇ。お世辞にもきれいな街じゃなかったけど、まさかあんなことが起こるなんて思いもしなかったよ。朝から晩まで大騒ぎでね。あの男が泊まった宿はもうないよ。マンションになっちゃったからさ」
 昭和五六年(一九八一年)六月一七日の白昼、寿司職人など職を転々としていた川俣軍司(当時二九歳)は、タバコハウスと呼ばれていたドヤを出て、前日受けた築地にある寿司店の面接の結果を聞くため、新大橋通りにある電話ボックスに向かった。所持金は一八〇円、荷物はカバンひとつ、その中には寿司職人の証である柳刃包丁が一丁入っていた。
 期待と裏腹に、寿司店のマネジャーから伝えられたのは、不採用のひと言だった。放心状態で電話ボックスを出た軍司は、森下駅の方角へ商店街を歩き出した。進行方向から幼稚園児をともない乳母車を押す若い主婦が歩いてくる。視界に三人の姿をとらえた刹那、軍司はカバンから柳刃包丁を取り出し、突然襲いかかった。三〇秒ほどの間に、女子どもばかり目についた四人を殺害、ふたりに重傷を負わせたうえ、通りかかった三三歳の主婦を人質にして中華料理屋「萬來」に立て籠った。
 説得に当たった捜査員に対して、「俺には電波がついている」などと話し続けたという。
 篭城から七時間後、突入した捜査員が身柄を拘束、軍司は逮捕された。中華料理屋から連れ出される際、警察から口に猿轡(さるぐつわ)をかまされ、白いブリーフを穿(は)かされて現れたことから、食い入るように生中継のテレビ画面を見ていた多くの人々に、強烈な印象を刻みつけた。
 これが世にいう「深川通り魔殺人事件」の概要である。

茨城県鹿島郡でのふたつの証言

 逮捕後の薬物検査で、尿から覚醒剤の反応が出た。昭和四〇年代半ばから流通量が増えはじめた覚醒剤は、暴力団や在日朝鮮人グループの資金源となり、労働者を中心に広く蔓延し、それが原因の通り魔殺人がたびたび起きるなど、当時、深刻な社会問題となっていた。
 川俣軍司が覚醒剤に手を染めたのは、中学卒業後に東京で寿司職人の修業をするが挫折し、故郷に帰っていた時期のことだ。茨城県鹿島郡波崎町太田(現神栖市)の実家から車で三〇分ほどの銚子の歓楽街に入り浸っていたころ、知り合ったヤクザから買ったのがきっかけだった。
 覚醒剤の常用が事件の引き金の一端となったことは間違いない。ただそれ以前から暴行事件などを繰り返し、すでに前科七犯であったことからも、本人の資質に問題があったことは疑う余地がない。私は、彼が事件起こす背景を知るために、軍司の故郷へと向かった。
「まさか、あの野郎が事件を起こすなんて思いもしなかったから、びっくりしたんだよ」
 川俣軍司が生まれ育った茨城県神栖市でそう語るのは、事件を起こす前、一年ほど彼を雇ったという電気店の社長である。
「川俣軍司の親父さんがうちで品物を買ってくれていたから、ずっと付き合いがあってね。東京で板前の修業をしてからこっちに戻ってきていて、車の免許を取るまでの間しばらく使ってくれないかって親父さんに言われてね、お得意さんだったから、ふたつ返事で了承したんだ」
 事件前、川俣軍司はどの店でも一週間ともたずにクビになっていたが、電気店での仕事は水に合ったのか、特にトラブルを起こすこともなく勤めあげた。
「ちょっと短気な野郎だなって思ったけど、お客さんとは絶対トラブルを起こしちゃいけねぇよって、言い含めたら素直に聞いてね。うちでは真面目に働いていたよ。だから、事件を起こしたとき、最初は信じられなかったねぇ。次の日かな、朝一番で警視庁捜査一課の刑事がうちの店に訪ねてきた。それでも、まだ信じることができなかったよ」
 川俣軍司より一二歳年上の電気店社長は、悪い印象はまったくと言っていいほどないようだった。しかし、実家の周辺で聞き込みをしていくと、違う声が耳に入ってきた。
「チンピラだよね、チンピラ。小さいときは一緒によく川で泳いだり、遊んだもんだけど、東京から帰ってきたら、人が変わっちまってね。全身に入った入れ墨を見せびらかして歩くようになって、声を掛ける人もいなくなっちまったね」
 入れ墨を見せびらかしていたのは、ちょうど電気店で働きはじめた頃のことで、先の電気店の証言と時期が重なる。話をしてくれた男性は軍司より五つ年下で、話を聞くかぎり、相手によって大きく態度を変えていた様子もうかがえる。

シジミ漁がもたらした光と影

 軍司が暮らした家は、常陸利根川のほとりにあった。父親は主にシジミを取る川漁師として、一家の生計を支えていた。生まれ育った太田は江戸時代後期まで砂丘と林ばかりで、ほとんど住む者のない土地だった。一七七〇年、太田宗助が代官所から許可を得て新田開発に取りかかったことが、集落が形成されるきっかけとなった。現在この集落に暮らす人々の多くは、明治期以降に入植して居を構えている。川俣軍司の一族もその流れに乗って、この地へとやってきた。
「この集落で川俣なんて姓は珍しいぞ、土地も持ってないべ。どっからか流れてきたんじゃねぇか。今はビニルハウスになっちまってるけど、つい最近までそこに借家があったんだよ。軍司のところは地主さんから家を借りてたから、これは推測だけども、先祖は地主さんの使用人みてぇなことをやってたんじゃねぇか。昔は船も持ってて東京に物を運んでひと財産つくった人だったから、いっぱい使用人がいたんだ。商売をやめるときに家を貸してやったんじゃないかな。軍司のところは土地も持っていなかったから、農業もできねぇし、生活は厳しかったよ」
 軍司の一家が暮らしていた借家は近所なのだという男性は、そう言った。
 シジミ漁は通年行えるわけではない。禁漁期間の夏場は農業にいそしむ半農半漁の人々がこの集落では大多数を占めていて、土地を持たないのは軍司の一家ぐらいだった。それゆえに一家の生活は集落の中でも群を抜いて貧しかった。母親は満足に乳が出ず、粉ミルクを買うこともできなかったため、軍司は幼いころ重湯で育てられた。
 軍司の暮らした借家はなくなっていたが、同じ形の長屋が二〇メートルほど離れた場所に残っていた。外から見るかぎり平屋の文化住宅といった雰囲気で、夫婦ふたりで暮らすにはちょうどよさそうな大きさである。これと同じ程度の家に、軍司は両親と三人で暮らしていた。
「いつも親父さんの怒鳴り声が聞こえてきてなぁ。騒々しい家だったぞ」
 近所の男性は言う。貧しいながらも楽しい我が家、とは程遠い日常だったようだ。
 一家の大家は現在、太田地区を走る国道沿いで雑貨などを売る商店を経営していた。宝くじやロトの販売もしているらしく、ひっきりなしに客がやってきた。六〇代後半から七〇代と思しき店主は、Tシャツに野球帽といったラフな格好の客たちとは違い、アイロンがかけられた綺麗なシャツを着ていた。
「あの家ですか? 当時、年間二万五〇〇〇円で貸していたと聞いています。ただ、うちが建てた家屋じゃなくて、『土地を貸してあげるから好きに建てなさい』ということだったようです。私はあんまり軍司と関わってないから、はっきりとは思い出せませんけど」
 積極的には話したくない、という雰囲気がにじみ出ていた。
 寿司店での修業を中途半端に切り上げて故郷へ帰ってきた軍司は、父親の口利きで電気店に勤めたあと親の跡を継ぐ決意をし、ともに漁に出るようになった。
 シジミ漁師となってからの働きぶりは極めて熱心だったという。朝から晩まで、人一倍働き、最初の月は二〇〇万円の売り上げがあった。はじめは父親の言うことを素直に聞いていたものの、少し仕事を覚えると一人前になった感覚に陥り、何か言われると腹を立て、「海に突き落とすぞ」と、凄むようになった。家に帰ってからも、少しでも気に食わないと、母親が作った料理をお膳ごとひっくり返すこともあったという。両親はたまらず家を出て、銚子市内に暮らしていた長男の家へ避難した。
 ひとりになった軍司は、シジミ漁での稼ぎで購入した外車に乗って馴染みのホステスがいる銚子へと連日のように繰り出した。しかし、ホステスに夫がいることを知ると、包丁を持って夫婦に切り掛かり、懲役一年の実刑判決を受ける。
 銚子市内を歩いてみると、思わぬことを教えてくれる人と出会った。
「川俣軍司のお兄さんっていうのも、今から五〇年前に、この銚子で殺人事件を起こしてるんですよ。勤めていた鉄工所の社長さんを刺しちゃったんです」
 軍司だけでなく、実兄も殺人を犯している。その話を耳にして、本人にはどうすることもできない血筋というものが頭をよぎった。この事件の背景には覚醒剤だけでなく、出自というものも少なからず影響しているのだろうか。
 刑務所に収監された軍司は、物理的にシジミ漁師は廃業となったが、事件を起こす以前から利根川に潮止めの堰が出来ることが決定していて、すでにシジミ漁師たちは次々と廃業していたから、事件の有無にかかわらず、シジミ漁師の道は絶たれていたことになる。
 一年後に刑務所を出所すると、銚子市内や都内に出て、寿司店や水産加工会社などで働くが、そのたび一週間と経たずにトラブルを起こしては、転がるように職場を替えていった。蓄積していた覚醒剤の影響もあり、見えない導火線は日ごとに短くなっていたのだろうか。
 そうして、テレビを通じ日本中を騒がせたあの事件は、あの日、あの場所で起きた。
 二九歳で逮捕された川俣軍司は二〇一七年現在、六五歳。いまも刑務所の中にいる。無差別に四人を殺害した罪の重さゆえ、おそらく二度とシャバに出てくることはないだろう。

己を保つための媚薬

 取材の終わりに、私は、軍司がシジミ漁の船を出していたという漁港を訪ねた。広々とした利根川の上流に目をやると、漁師たちを追いやる原因となった潮止めの堰が見える。
 事件を犯すまでの川俣軍司の人生を振り返ってみると、粗暴なだけではなく、ときに真面目に働く一面もあった。シジミ漁は軍司に経済的な支えを供してくれた。電気店での働きぶりも良かった。しかし彼は、刹那のきっかけで何度も道を外れていった。いったいなぜか。
 戦中には一般に流通していた「ヒロポン」などの覚醒剤が、高度経済成長期には暴力団の大きなシノギの種となり、ドヤ街などに暮らす労働者たちに蔓延した。一億総中流といわれた時代の中で、そこに収まりきらない人々も数多く存在した。彼らの中には自らその道を選んだ者もいるが、社会の枠組みから弾き出されたことにより、そこに身を置かざるを得なかった者も少なくなかった。社会に疎外感を感じる者にとって、覚醒剤は己を保つための媚薬となった。
 白いブリーフにハイソックス、猿轡をかまされ、中華料理店から摘み出され、テレビのブラウン管に登場した川俣軍司を異端の者と蔑むことが、この社会の、人々の一般的な見方であっただろう。彼の側から社会を見ると、覚醒剤で現実を忘れなければ生きていくことが辛い、という側面があったのもまた事実である。
 生まれ持った軍司の性向を無視することはできないが、良い会社に就職し、幸せな家庭を築くという固定観念に囚われ、そこからはみ出た者を白眼視する風潮も、事件の一端にはあったのではないか。
 昨今、芸能関係者が覚醒剤や大麻でしばしば逮捕されるのも、もともと社会からドロップアウトした者の住処であった芸能界で、一般社会のようにひたすらクリーンさが求められるようになったことと、因果関係はないだろうか。
 社会は、さまざまな人々、雑多な価値観を許容できる柔軟な場所であるべきで、それらを排除する意思が働くと、跳ね返る者を生み出すきっかけとなる。
 川俣軍司は異端者ではなく、紛れもなく私たちの社会が育んだ赤子なのだ。

無宿人の末裔と一枚の木の葉

 シジミ漁の道を絶たれ、東京の周縁地域、深川へと流れた川俣軍司。
 彼がたどり着いた森下がドヤ街となるルーツは、江戸時代にさかのぼる。一六四一年に深川に材木集積所である木場ができると、森下周辺に職人たちが暮らす長屋が作られていった。
 江戸の人口一〇〇万人のうち、半分の約五〇万人は武士以外の町人といわれているが、町人が暮らした土地の面積は江戸全域の二割ほどで、必然的に住環境は悪く、明治時代以降のスラムや、昭和に入ってのドヤ街のルーツとなった。
 明治時代に入って東京に人々が流入すると、職人たちが暮らした森下の長屋は、近代資本主義を支える労働者たちの木賃宿に変わっていった。
 明治二二年(一八八九年)の調査では、森下には東京で二番目に多い六三戸の木賃宿があった。戦後の高度経済成長期には肉体労働者が泊まるドヤ街に変わり、東京オリンピックを経て一九八〇年代まで、街はそうした労働者たちで溢れていた。
 そもそもは川俣軍司の一族が、利根川の水運で栄えていた茨城の神栖に流れてきた。江戸時代、利根川の川筋には無宿人が少なくなかったと「東京ノースエンド」の章で触れたが、そうした人々の動きの中に川俣の一族もいた。さらにそこから、東京のドヤ街へと流れた。
 川俣軍司にしろ小原保にしろ、辺境の地から東京へと流れてきた男たちの人生は、個人の意思というより、私には、社会や経済という濁流に翻弄され人知れず暗い暗渠に堕ちていく哀しい木の葉の旅路のように思えるのだ。

 

 

(第10回・了)
※この続きは、2017年初夏刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年7月28日(金)掲載