さまよう血 山崎洋子

2017.9.12

02「山崎さんは利用されたのでしょう」

「山崎さんは利用されたのでしょう」

「困ったことになりました!」
 という連絡を受け、急遽、依田さん、鈴木さんと会った。コラムが出て、すぐのことだった。
「山崎さんが朝日新聞に書いたコラムを見て、衛生局が激怒してるんです。あんなでたらめを書くなら、慰霊碑を建てさせないと言って」
「でたらめ? つまり、山手外国人墓地の管理人だった安藤さんの話も、田村泰治さんの研究も、嘘だということですか?」
 驚いて問い返す。
「いや、事実ですよ。確かに書類はなにもないけど、嘘をつく必要がない方たちの証言や研究成果があるわけですから。衛生局もそれはわかってるんです。だから嘘だとは言ってないです」
 わけがわからない。
「でも、赤ちゃんたちの慰霊碑は許可されたんでしょ?」
 関東大震災の被災者、ドイツ巡洋艦爆発事故犠牲者の慰霊碑は、すでに建っている。
「そうです。でも、役所としてはひっそりと、そのための銘板も建てずにやるなら、ということだったんでしょうね。こんなふうに公になると、横浜のイメージが悪くなる、ということなのですよ」
「私はこのことを、これから出す本に書くつもりだったのですが、いけないのでしょうか?」
 山手ライオンズクラブに迷惑をかけたくはなかった。倶楽部のメンバーは飲食店経営者も多い。衛生局と揉めたくはないだろう。
「いやいや、ぜひ書いて! 横浜にはこういう歴史もあるのだということを、なんらかの形で伝えていきたいのです。だけど、衛生局を刺激したくないから、慰霊碑が無事に建つまでは、あまり表沙汰にしないほうがいいかと」
 だけど、チャリティーCDが出来上がってくる。売らなければならない。なんと言って売ればいいのか。いやそれより、きちんとした情報や資料を得る必要がある。山手ライオンズクラブの話と田村泰治さんの著書で充分、理解したと思っていたのだが、行政資料はほんとうにないのだろうか。
「市役所へ行って取材してきます」
 という私を、もうちょっと待ってほしいと二人は止めた。山手ライオンズクラブとしては、いまさらこの企画を中止するわけにはいかない。
 だが、年が明けて一九九八年になっても、許可は降りなかった。日経新聞にチャリティーCDの記事が小さく出たのだが、それでまた、衛生局は臍を曲げたらしい。
「朝日と日経、この二紙はけっこう影響が大きいのですよ」
 二人は溜息をつく。が、思いがけず、後をこう続けた。
「これまでは、企画が潰れてしまうといけないと思って、山崎さんに我慢してもらっていたのですが、我々としても、いつまでもこんな状態に置かれていたくはない。よければ衛生局へ行って、好きなように取材してきてください」
 ほっとした。もし私がでたらめを書き、市役所への取材でそれが明らかになるのなら、そのことはどこかのコラムなり、執筆する本の中で、ちゃんとそれを明記しなければならない。それが物書きの良心だ。
 さっそく編集者から取材依頼の電話を入れてもらった。彼は衛生局の私に対する反感を考慮して、毎日新聞社、としか言わなかったようだ。新聞社の名を出した時点では、なんの問題もなく、取材は受けてもらえそうだった。
 が、ちょっと気が咎めた編集者が「ライターも一緒に行きます」と言った途端。電話口の職員がふと沈黙し、「そのライターの名前は?」と問い返した。わざわざ「作家」ではなく「ライター」と言ったのに、相手は気づいたのだ。よほどこの問題に対して神経質になっていたらしい。
 まさかここで嘘を言うわけにもいかず、編集者は私の名前を告げた。すると、「ちょっと待って下さい!」と、あわてたふうに電話は保留にされ、次に繋がった時の返答は「その人はなんとか、連れてこないようにしてもらえませんか」だった。
 これが民間企業だったらわかる。だが市役所で、私は横浜市民だ。根岸外国人墓地について伺いたい、というだけのことで、なぜこんなふうに拒まれるのか。私はクレームをつけに行くわけではない。なるべく正確なことを知りたいというだけだ。なのにこの拒否反応はどうしたことだろう。逆に、なにかあるのではないかと疑いたくもなる。
「とりあえず、僕が行ってみますよ」
 困惑して怒る私を、編集者はそう言って宥めた。一人で出向いた彼に対して、市役所の担当者は、「何も資料がありません」の一点張りだったが、彼は辺見庸さんや故平岡正明さんなど、一筋縄ではいかない作家を担当してきた強者だ。
「本を書くのは山崎さんですから、市役所の見解を、じかに山崎さんにおっしゃってください」
 と言い、私の来訪のアポを取ってくれた。
 しかし、私ごとき物書き一人に、大げさな対応だった。通された会議室には、部長以下五人もの男性が、長テーブルに並んでいる。そこに対峙するかたちで、私と編集者に椅子が用意されていた。取材に来たというのに、まるで取り調べを受ける容疑者だ。五人のうち一人は、ノートを広げてペンを構えている。
 この時のやりとりについては、『天使はブルースを歌う』に詳しく書いたが、ここでは簡略に記す。要するに、嬰児たちに関する書類はなにもないから、根拠もない、というのが市役所の答えだった。
 もちろん、それは予測していた。が、平成九年に出た田村泰治さんの本はどうなのか。田村さんは教育者で、退職後も行政との繋がりは深い。そのような人が、あれほどはっきりと嬰児のことを書き、当時、新聞のインタビューも複数、受けている。衛生局は抗議しなかったのだろうか。
「したんじゃないかと思いますけどね」
 部長はあいまいにおっしゃった。そして意外にも、
「まあ、私も個人的には、ほんとのことだと思ってますよ、嬰児たちのことは」
 と続けた。が、証拠がない以上、行政として認めるわけにはいかない、と。
 それはそうだ。まっとうな答えである。だが、次の言葉には頷けなかった。
「そんな歴史を掘り起こして、誰が喜ぶと思います? 事実だったとしても、みんな、忘れたいんじゃないでしょうか」
 さらに彼は、とどめを刺すように言った。
「山崎さん、利用されてるんじゃないですか、山手ライオンズクラブに」
 その言葉が正しかったことを、私は後に知ることになる。山手ライオンズクラブは、三十周年事業として慰霊碑を建てる許可を得た。が、その碑が、秘かに葬られた嬰児たちのためのものであることを、衛生局には内緒にしていた。言えば反対されることがわかっていたのだろう。
 しかし、私にもエディ藩にも、そのことは告げられていなかった。

 片翼の天使

 そんなことがあったにもかかわらず、一九九九年五月二十二日、根岸外国人墓地で慰霊碑の除幕式が行われた。門を入ってすぐのところに管理小屋がある。先に記したように、ここは崖に沿った階段状の墓地だ。門と地続きになったこの場所は、墓地の一階部分にあたる。
 ここには管理事務所があり、いつも在所しているとは限らないが、管理人もいる。ドイツの巡洋艦爆発事故の犠牲者を祀った碑があり、毎年十一月に、ドイツ領事なども出席して墓前祭が行われている。そこへあらたな慰霊碑が加わったのだ。
 横浜市衛生局、山手ライオンズクラブ、地元・立野小学校の生徒、横浜インターナショナルスクールの生徒たちがそれぞれ数十人。そして横浜国際社会の代表者などが列席した。
 私はエディ藩と一緒に作成したチャリティーCD『丘の上のエンジェル』を、ここで流したかった。だが、衛生局ががんとして許可しなかった。どんな歌なのか聴いてもいないと、はっきり言われた。
 結局、これはなんのための碑なのか、伝えるものはなにもない。マスコミも来ているだろうに、衛生局も山手ライオンズクラブも、なんと説明する気なのだろう。
 参列した日本と外国籍の子供たちによる美しいコーラスを耳にしながら、私は白い布で覆われた慰霊碑を見つめていた。歌が終わると、いよいよ除幕だ。どのようなデザインの碑なのか、私は知らない。
 白布がさっと払われた。ほぼ円筒形の台座の上に、不思議な曲線を持つ何かが載っている。あれはなんだろうと、誰もが無言で見つめていたと思う。私もそうだ。
 その時、私の耳に囁く声があった。
「片翼の天使です。『丘の上のエンジェル』を聴かせていただいて、なんとかその心を写し取りたかったので」
 首を曲げて、声の相手を見た。初めて会う人だ。この碑を制作した澤部設計事務所取締役の澤部さんだと、あとで知った。
 よく見れば、台座の上に載っているのは、拡げたられた翼だ。だが、片方が短い。つまり、飛び立つことができない天使たち……。私は言葉もなく、青みがかったブロンズの翼を、ただただ見つめていた。
 たいていの碑には、これがどういうものなのかという説明が記されている。しかし、この碑には文字が一切刻まれていない。山手ライオンズクラブの挨拶状には「戦後の混乱期に埋葬された子供達を含む、墓碑、墓標のない方々のため」の碑だとあった。衛生局と折り合いをつけるには、それが精一杯だったのだろう。
 衛生局からは課長が列席し、挨拶に立ったが、「今後も墓地の運営に努力してまいります」という紋切り型のものだった。
 だが、救いがひとつあった。横浜国際社会代表として列席されたジョン・ウィルコックスさんは、挨拶の中ではっきりと「戦後の混乱期に生まれた、名も知れぬ多くの嬰児達のために」とおっしゃったのだ。英語だったから、衛生局は気にしなかったかもしれない。
 この除幕式のことは、翌日、複数の新聞に出たが、どの記事も、「米兵と日本人女性との間に生まれた子供が八百体余りも埋葬されている」ということが記されていた。しかし、その記事に対して市の衛生局から苦情がきたという話は聞かない。
 こうした行政の態度は、ちょっと理解しがたい。証拠のない伝聞に過ぎないと反対するのなら、なぜそれを貫かないのか。
 ともあれ、碑は建った。『天使はブルースを歌う』という、私にとって初のノンフィクションも、この年の九月に刊行された。
 根岸外国人墓地と慰霊碑をめぐる秘話は、戦後横浜の闇とともに詳しく書いた。もともとのメインテーマだったカップスのメンバーも、ひとりひとり取材した。そこから浮かび上がってきた「横浜」の素顔は、当時の私にとって、実に新鮮なものだった。この街にどっぷりとはまるきっかけになった。
 それから十六年後の二〇一五年、日本は終戦七十周年を迎えた。十六年の間には、さまざまなことがあった。私は小説、エッセイ、ノンフィクションの他に五本の舞台脚本を書き、そのうちの二本では演出も経験した。
 カップスは二〇〇四年、再結成し、「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」というドキュメンタリー映画も公開された。
 私が彼らを取材したのは一九九七年から九九年にかけてだったが、当時の彼らはばらばら。これからまた、音楽業界で一旗揚げようという意欲も、とくに感じられなかった。
 デイブ平尾(ヴォーカル)は六本木で「ゴールデン・カップ」というライブハウスを経営していた。いつ会っても酒のグラスが手にあり、愛想の良い酩酊状態だった。
 ミッキー吉野はカップスの後もゴダイゴのメンバーとして活躍していた。だがこの時は心臓を悪くして六週間もの入院をした直後。カップス時代もゴダイゴ時代もころころと太っていたのに、横幅が昔の三分の一ほどしかないほど痩せていた。けれども、メンバーの中でただ一人、音楽についての夢を熱く語っていた。
 マモル・マヌーはまったく連絡の取れない人だった。困り抜いて、失礼かと思ったが留守電に「電話をください」と入れておいたが、いっこうに返事は来なかった。
 が、ミッキー吉野のスタジオへ取材に行った時、前触れもなく彼が現れた。私がいることを知って来たのか、偶然なのか、わからない。尋ねたことには真面目に答えてくれたが、その後も単独では会えなかった。なのに本が出てから「俺のところにはちゃんと取材に来なかった」と怒っていたらしい。
 ルイズルイス加部は、娘のように年の離れた女性ミュージシャンと結婚したばかりだった。「俺はもう男性機能がないから駄目だと言ったのに、ラブホテルへ引っ張って行かれた」と、いかにもハーフという大きな目で、こちらをまっすぐに見て真面目な口調で言った。
 そういう人なのだ。嘘がない。自分に不利になろうとお構いなしに、ほんとうのことを言う。私はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で見たミケランジェロのピエタを思い浮かべた。とても母親には見えないほど、若くて美しいマリアの膝に、細長い体をぐったりと預けたキリスト。加部と女性との関係は、いつもこうなのではないかと思った。
 そして、メインで取材したエディ藩は、音楽活動に身を入れているようには見えず、荒んだ印象だった。だが不思議と周囲に愛され、いつも誰かが彼を、見返りも求めずフォローしていた。私もその一人だったかもしれない。そうさせるだけの魅力が、彼にはどこかあるのだ。
 そして二〇〇四年、突如として彼らの前に現れたのが桝井省志さんだ。「shall we ダンス」「ウォーターボーイズ」「それでもボクはやってない」など、数々のヒット映画を世に送り出したアルタミラピクチャーズの代表取締役である。
 桝井さんが全面的にサポートして、ザ・ゴールデン・カップスは華々しく甦ったのである。
 それから四年後、デイブ平尾が亡くなった。さらに、解散直前のメンバーだった柳ジョージも二〇一一年に他界した。いまこれを書いている二〇一七年の時点で、エディ藩、マモル・マヌー、ルイズルイス加部、ミッキー吉野は音楽業界で仕事をしている。
 そして私は、終戦七十周年の二〇一五年、またもや根岸外国人墓地のことで横浜市から拒絶された。

 

 

(第2回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2017年9月26日(火)掲載