さまよう血 山崎洋子

2018.1.6

09狸坂と避病院

 

 狸坂と避病院 

 二〇一七年は吉田新田誕生三百五十周年だった。
 と言っても、吉田新田を知らない人がほとんどだと思うので、ちょっと説明させていただこう。
 吉田新田は江戸時代の初期、入海を干拓・埋立してできた広いエリアだ。JR関内駅を挟んで、海と反対側に、先端がすぼまった釣鐘型に伸びている。両側には大岡川と中村川。横浜市の区で言えば、中区と南区が半分ずつくらい入っている。
 埋立完了から約二百年間、ここは田畑だった。が、横浜が開港すると爆発的に人口が増え、「関内」と呼ばれる砂嘴上だけではどうにもならなくなった。そこで後背地であった吉田新田が、「関外」として、田畑から町へと変貌していった。
 「関内」が横浜の顔とすれば、「関外」はいわば、裏横浜的な存在だ。現在でも簡易宿泊所街や歓楽街を擁している。
 港、官公庁、外国人居留地のある関内地区は海外に向けた日本の玄関口。官庁街でもある。その分、行政はこの地区の美観に力を入れてきた。
 とはいえ、開港当初は急ごしらえ。産業革命を果たした列強国から見れば、上下水道はないし、道は舗装されていないから雨が降ればぬかるむ。居留地のすぐそばに遊郭がある。なんとかしなければと、幕府も頭を悩ませていた。ことに外国人宣教師たちからは、遊郭を他所へ移すようにと、かなり責め立てられていた。
 そんな時、慶応二年の大火という大転機が訪れる。遊郭にほど近い豚肉料理店から出火し、関内全域に火事が拡がった。多くの犠牲者を出し、港も家屋も損壊したが、皮肉なことに、横浜の近代まちづくりはこれを機に始まったのである。
 遊郭跡に誕生したのは、災害時の避難場所を兼ねた公園だ。人種や身分を問わず、誰でも入れるということで彼我(ひが)公園と称された。現在、スタジアムのある横浜公園がそれである。
 彼我公園から港へと続く日本大通りは、歩道と車道(当初は馬車)に分けられた、日本初の西洋式大通りだ。通りの両側に配されたのは石造りの耐火建築。やがてガス燈が灯り、瀟洒なホテルや商館が立ち並んでいく。
 しかし都市は、清く美しいものだけで成り立つわけではない。港湾や建設現場、輸出用の茶葉を焙煎する工場などには、男女を含めておびただしい数の日雇い労働者が働いていた。
 彼らは「関内」で寝泊まりすることなどできない。「関外」の吉田新田からも弾き出され、さらに奥の、貧民窟と呼ばれたあたりにかたまっていた。あまり語られることのない、横浜ダークサイドである。
 吉田新田から中村川を渡り、平楽と呼ばれる丘へ向かう一帯も、昔はそのような雰囲気を持つ場所のひとつだった。山羊坂、蛇坂、狸坂と、動物の名前の付いた坂が多い。起伏が多く、人よりも獣のほうが多いという、鬱蒼とした場所だったのだろう。
 いまは横浜市南区の一部で、私の住まいからほど近い。よく行く散歩コースだ。吉田新田側から中村川に掛かる三吉橋を渡り、「日本一かわいい商店街」と名乗る、わずか三十メートルの三吉橋通り商店街を抜け、古くからこのあたりの鎮守である中村八幡宮にいつもお参りする。
 そこから狸坂へ向かう道は静かな住宅街。昭和五十年代あたりまでは、八百屋、魚屋、雑貨屋などの店が並んでいたというが、いま残っているのは酒屋、米屋、美容院くらいだろうか。
 住居のコンクリート塀に「石敢當」という文字の刻まれた、小さなプレートを見つけた。「いしがんどう」もしくは「いしがんとう」と読む。T字路や三叉路に置かれる魔除けで、沖縄でよく見る。横浜は沖縄からの移住者も昔から多かった。
 いよいよ狸坂に入ると、これがけっこうな勾配である。急勾配というわけではないが、長いし、後半がことにきつい。古い木造アパートが目立つ。無人になっているものも数棟。庭は草木が生い茂り、野良猫が軒下から顔を覗かせる。
 坂を登りきったところにあるのは唐沢公園。知る人ぞ知る、みなとみらいの夜景鑑賞スポットだ。公園の柵の外側、雑草の茂る一隅をよく覗き込んで探すと、「避病院」という文字が刻まれた小さな石碑が見つかる。避病院とは伝染病専門病院のこと。ここにあったのは西洋人専用の避病院だった。
 明治十年代前半、コレラが大流行した。中国経由で横浜に入ってきたらしい。神奈川県下ではこの年だけで患者数七百二十人、死者三九五人を数えたという。山手にはヨコハマ・ジェネラル・ホスピタルがあり、天然痘病棟もあったが、その頃、天然棟病棟だけここへ移している。
 中村川をもう少し遡ったところには清國人専用の避病院があった。日本人用の避病院も、もちろん各地に設けられている。明治十年代は、伝染病との戦いが続いた時代でもあった。
 ここで、ヨコハマ・ジェネラル・ホスピタルのことを少し紹介しておきたい。この病院は山手82番地にあり、居留地外国人の委員会で運営されていた。開港時、日本には、医者が患者を診るための、いわゆる施療院はあったが、入院施設を持つところはなかった。入院治療という習慣が、日本にはなかったのだ。
 居留地にはイギリス、フランス、アメリカ、ドイツなどが海軍病院を持っていたが、やはり、どこの国の人間でも治療や入院を受け付けてくれる病院が必要だというので、各国の委員が協議し、当初、居留地88番に設立したのが始まりである。
 残念ながら経営がうまくいかず、三年で閉院となった。が、ちょうど居留地82番のオランダ海軍病院が閉鎖するというので、そこを丸ごと借り受け、あらたに、インターナショナルなジェネラル・ホスピタルが再建された。
 基本は居留地外国人が対象だが、日本人も診てもらえた。創業時、「各国貴賎無格別治療看病」という日本語の広告が出ていたという。
 大正十二年に起きた関東大震災は、こうした病院も倒壊、消失させた。各国の海軍病院も被災して閉院。中村字中居の丘にあった避病院も、この時、なくなった。
 更地になった丘に、山手からジェネラル・ホスピタルが移ってきた。が、この不便な場所は仮の営業である。昭和十二年(一九三二)、震災からの復興が進むと、また山手82番に戻り、アメリカ人建築家J・H・モーガンの設計による鉄筋コンクリート二階建ての立派な病院が建てられた。
 しかし、それもつかのま。この年、日中戦争が勃発。
 さらに四年後には太平洋戦争が始まり、横浜に住む外国人たちも、いやおうなく日本の敵味方に分類された。病院運営の委員会も、メンバーは中立国のスイス人、同盟国のイタリア人とドイツ人、そして日本人という構成。そうこうするうちに敵性財産に指定され、三菱信託株式会社の管理となった。さらにその後、財団法人に譲渡され、名称も、そのまま日本語に翻訳して「横浜一般病院」と変わった。
 それから二ヶ月後、山手は防諜上の理由から立ち入り禁止区域になり、横須賀海軍病院がここを借り上げる。一般病院は建物を残し、中身は関内の相生町にあった関東病院の建物へと移転していく。
 なんとも紆余曲折の多い病院だったが、そこで終わったわけではない。戦後はブラフホスピタル、国際親善病院と分かれていくのだが、ここでこの病院を取り上げたのは、本書のテーマと大いに関わりがあるからだ。
 戦争が終結し、敗戦国日本はアメリカに占領された。一般病院はまた、ヨコハマ・ジェネラル・ホスピタルという名に戻り、欧米人の管理下に置かれた。
 その玄関先に、こっそりと置いていかれるようになったのである。身元のわからない嬰児たちが。 

 聖母愛児園

 中区山手町に、聖母愛児園というキリスト教系の養護施設がある。私の手元にある創立60周年記念誌(二〇一〇年発行)の「沿革」によれば「聖母愛児園の始まりは、一般病院(中区山手町82)の玄関先に子どもが放置されていた昭和21年4月です」という記述で始まっている。
 戦後はまたジェネラル・ホスピタルという名称に戻っていたのだが、以前のまま、一般病院と呼ばれていたのだろう。
 この病院には、マリアの宣教師フランシスコ修道会というキリスト教会派から派遣されたシスターたちがおり、看護部門の責任と運営を委託されていた。保護された子どもたちの面倒をみたのも、このシスターたちである。
 昭和二十一年度の記録を見ると、六月に最初の混血児が登場する。山手のトンネル脇に遺棄されていた白人との混血女児。生まれたばかりの赤ん坊だった。中区役所経由で愛児園に送られてきたが、すぐに亡くなり、中区の善行寺に埋葬されている。
 同じ頃、中区役所経由で日本人の子どもが三人。一人目は、桜木町駅に近い大江橋脇の電柱にくくりつけられていた一歳半くらいの女児。二人目は中区の映画館に置き去りにされていた生後三ヶ月足らずの男の子。3人目は中区元町をうろついていた、六歳くらいの精神薄弱がある女児。
 が、このあとは、ほとんどが混血児になる。日本人だろうと混血児だろうと、保護が必要なことに変わりはないのだが、受け入れ先は自然と分けられていったようだ。
 これまでの歴史で見てきたように、日本の場合、混血児は特殊視されてきた。ましてや父親がついこの間まで敵であり、いまは大手を振って街を闊歩している占領軍ともなれば、反感も大きい。
 巷には占領軍相手の娼婦が溢れていたが、彼女たちが産んだ子だろうという、負のレッテルも貼られていった。混血児とその母親は、どういう状況のもとにあったにせよ、差別と偏見と反感の真っ只中に放り出されたのだ。
 混血孤児は日を追って増え、もはや病院内では間に合わなくなった。そこで昭和二十一年(一九四六)、山手68番地に聖母愛児園という保護施設が建設された。
 キリスト教団体はいろいろあるが、聖母愛児園の母体は社会福祉法人聖母会である。明治三一年(一八九八)年、熊本におけるハンセン氏病患者救済活動に始まり、各地で貧しい人々のための施療施設、孤児の養育などを行ってきた団体だ。
 大正十二年(一九二三)年には札幌市北広島村に孤児の養育施設と診療所を開設。現在ここは「天使の園」という養護施設になっている。後述するが、横浜からこの施設へ送られた混血児も少なくなかった。
 昭和二十一年から二十二年にかけて、聖母愛児園は一三六人の孤児を受け入れている。そのうち四十人が死亡。二十三年は二百三十四人を受け入れ、五十人死亡。二十四年は二百四十三人を受け入れ、十七人死亡。二十五年は二百十五人を受け入れ、一七人死亡。二十六年は二百三十五人を受け入れ、七人死亡。二十七年は百八十五人を受け入れ、二人死亡……と続き、終戦の翌年から昭和三十一年までを数えただけで二千四十三人を受け入れている。
 初期の頃、亡くなっている子供の数が多いのは、ケアが悪かったからではない。瀕死の状態や、遺体で遺棄されていた嬰児も少なくなかったからだ。また、日本全体が食糧難で、大人も子どもも栄養が足りていなかった。栄養失調だと、治るはずの怪我や病気でも死に至る。衛生事情も最悪で、伝染病、結核などが蔓延していた。そうした状況が改善されるに連れて、死者の数も減っている。
 亡くなった子どもたちのうち、九四人が戸塚の聖母の園墓地に埋葬された。いま、その墓地はなくなったが、御霊は納骨堂に納められている。
 愛児園の資料では保土ヶ谷の墓地にも、昭和二十一年十一月に、たった一週間しか生きられずに亡くなった女の子が埋葬されたとなっている。保土ヶ谷と言えば英連邦戦死者墓地である。確認のために行ってみた。
 英連邦加盟国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタン)は第一次世界大戦以降、戦争絡みで亡くなった兵士、民間人の遺体を本国に戻さず、現地で埋葬するという決まりを設けた。
 これによって世界に二千五百カ所もの英連邦墓地が造られたのだが、保土ヶ谷にあるもののそのひとつである。児童遊園地だった広い土地を、第二次世界大戦後、日本政府が提供した。ここにはエリザベス女王、ウイリアム王子、ダイアナ元妃、サッチャー元首相なども訪れている。
 よく手入れされた芝生の墓地は、国ごとに区切られ、千八百人が埋葬されている。埋葬者の名簿もきちんとしているので、管理人さんに、聖母愛児園で亡くなった子どもの名前を伝えて調べてもらった。が、ついに見つからなかった。納骨堂には「UNKNOWN」というアメリカ人埋葬者が複数あったから、もしかするとそこに……と思ったが、もはや確かめる手立てはない。
 子どもたちが愛児園に送られてきた経過も、またさまざまだ。迷子、遺棄児として発見され、区役所や警察経由で送り込まれる、ジェネラル・ホスピタルや愛児園の玄関先にそっと置いていかれる、育てられないから預かって欲しいと親や親族が連れてくる、親の知人が連れてくる、東京・新宿にある聖母病院経由で送られてくる、妊婦がジェネラル・ホスピタルに駆け込み、出産して愛児園に預ける……などなど。
 キリスト教の施設だから、保護された子どもたちは洗礼を受け、姓名不詳の場合は名前もここで付けられた。そうした混血児の多くが、アメリカへ養子として渡っていった。日本人からの養子縁組申し出は皆無だったようだ。
 戦後の混乱期でなくても、日本人は養子をとる場合、血のつながりを重視する。前述した「横浜ヤンキー」の著者、レスリー・ヘルムは夫婦ともに白人だが、子どもに恵まれず、一九九二年、日本の養護施設から、日本人の女の子を養子に迎えている。次いで男の子も養子に迎えているが、この子も日本人の孤児である。
 このことについて、レスリーはこう記している。
「意外だったのは、僕たちが日本で養子をもらうと決めたことに日本人の親しい友人たちでさえ理解しがたいという反応を示したことだった。まるで僕達が常識的な礼儀作法もわきまえずに土足でずかずかと彼らの家に上がり込んだかのように、みんな一様に眉をひそめた」
 日本人である私には、その反応が理解できる。日本では、養子であることを隠す傾向すらあるのに、ひと目で実の親子ではないとわかる日本人の子ども、それも孤児を、名家の白人夫婦が家族にするなど、常識どころか良識にも外れていると、日本の友人知人たちは思ったのだろう。
 聖母愛児園の話に戻ろう。養子希望のアメリカ人夫婦は、養育の環境が整っているかどうかの審査を受ける。子供の身元がわかっている場合は、親の同意が必要になる。
 一定期間、預かってもらえたら、必ず引き取りに来る、と期間を区切る親もいたが、これっきり子供とは会わないという親も少なくなかった。その場合、親は「引渡証」というものを書いた。 

  引渡証
  私は右の者の実母ですが養育不能につき横浜市中区山手町六八番地
 聖母愛児園長に引渡します。
  今後、子どもが病気になったり死んだりしても、あるいは外国へ養
 子に出したとしても、一切、文句は言いません。自由に取り計らって
 ください。

 だいたいがこのような文章だ。おそらく、定型文があったのだろう。
 なんと冷酷な、と思われるかもしれない。しかし同じ女性が、日をおいてシスター宛に送った個人的な手紙も残されている。そこには紋切り型の引渡証とは異なり、子どもを手放さざるを得ない女の、血を吐くような思いが綴られていた。
 その後、女性がどうなったか、わかっているケースも多数ある。ある女性は気が狂って病院へ収容され、ある女性は自殺し、ある女性は直後に病死……特殊な時代とはいえ、目を覆いたくなる。
 レイプされた結果、ということもあっただろう。中絶は闇で行われ、母子ともに命を失うことを覚悟しなければならなかった。産んだとしても、世間の目の冷たさ、育てていくことの困難は、いまの時代を生きる私たちの想像を超えている。誰が彼女たちを責められよう。
 父親であるべき男性にしても、みんなが冷酷で無責任だったわけではないだろう。子どもが生まれたことを知らないままの者もいたはずだ。本国に妻や恋人がいるのに日本女性と付き合い、結果的に酷い仕打ちをすることになった者もいただろう。
 レスリー・ヘルムの父、ドナルド・ヘルムも、愛した日本女性に中絶をさせ、別れてしまったことで、罪の意識から逃れることができず、オペラの「蝶々夫人」を観るたびに泣いていたという。

 GIベイビー

 終戦直後から、日本各地に占領軍が入ってきた。神奈川県は横浜市内、横須賀、厚木、座間と、沖縄を除いてはもっとも米軍基地の多い場所となった。その分、混血児の数も全国一となり、GI(アメリカ陸軍兵士の俗称)との間にできた子どもだからと言うのでGIベイビーと呼ばれたりした。
 このあたりの詳しいことは、拙著「天使はブルースを歌う」を読んでいただけたらありがたい。
 しかし、相手が米軍兵士とは限らなかったようだ。
 「Children of the Occupation(占領の子供たち)という本の著者でオーストラリアのジャーナリスト、ウォルター・ハミルトンが、二〇一二年十月二十五日にオーストラリア大使館で行った講演録をインターネット上で読んだ。
 オーストラリアは英連邦軍に属している。講演録によると、終戦後、英連邦軍は四万人の兵士を日本に送り込んだそうだ。その本部は広島の呉に置かれた。そして、他の連邦国軍が去ったあとも、十年間に渡って駐留を続けたという。
 英連邦占領軍は日本女性との交際を禁止していたそうだが、見える範囲に若い男女がいれば、国籍を超えて欲望が芽生えるのは自然の摂理だ。どういうケースの欲望かはさまざまだが、ともかく子どもが生まれるまでに至ったケースも少なくなかった。
 一九五二年に禁止令は解かれ、結婚も許可されるようになったが、アメリカと違ってオーストラリア政府は、養子縁組には反対の立場をとっていたようだ。呉には百人から二百人の混血児がいたのではないかとハミルトン氏は語り、実際の例を複数挙げている。
 昭和二十七年(一九五二)は、厚生省が初めて混血児調査を行った年だ。それまでにも、混血児の増加が問題にならなかったわけではない。普通に家庭で育つならともかく、父親不在、養育環境が得られないという子どもが圧倒的に多いのだ。
 昭和二十五年(一九五〇)には衆議院議員の一人から厚生省に対して、実態調査をしているのかと質問が出た。これに対して厚生省は、「いまのところ何もしていない」と返答した。
 じつはGHQの圧力がかかっていた。GIベイビーと呼ばれるくらいだから、米軍はこの事態に関して大いに責任がある。しかし、レイプ被害も含めて、母親や子どもに生活保障をするとなると莫大な費用がかかる。日本に対して責任を払うということは、将来的なことも含めて、他国で起きた同様の事案も同様にするということだ。
「それを言うなら日本軍だって、戦地や植民地で同じことをしたでしょう。その結果を保証しますか? しないでしょ? 互いに、国の恥や傷になることには触れないでおきましょう」
 GHQのそうした対応に、日本側は異を唱えることができなかった。
「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」という、「無差別の原則」がある。逆に言えば、混血だからといって、日本の子供以上に特別な保護もしない、ということである。GHQにとっても日本政府にとっても、この原則は一種の盾になった。
 そこで篤志家や宗教団体が、見かねて保護に乗り出したのである。
 昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約の発効で、日本は占領を解かれた。アメリカの圧力もなくなったところで、ようやく、厚生省は全国の混血児数調査を実施した。最初に生まれた混血児たちが就学年齢に達する。どこでどういう教育を受けさせるか、それを決めるのが急務だったからだ。
 「神奈川の社会事業」(神奈川県民生部発行 昭和二十八年三月三十一日)によると、昭和二十七年五月一日の時点で、県下の混血児は五五三人。うち、三百六十六人が横浜市内にいる。あとは、横須賀市七十一人、川崎市十三人、鎌倉市十二人、藤沢市十人、茅ヶ崎市八人、平塚市六人、三浦郡十三人、高座郡四十五人。米軍キャンプの場所と混血児数が見事に連動している。
 このうちの二七六名が県内の児童福祉施設に保護されていた。この数字は全国の児童福祉施設にいる混血児の五十七・二パーセントに相当する。
 調査は、神奈川県の場合、児童相談員が担当区域を回り、混血児を識別し、養育者、関係者、駐在経験者、町内世話人などに面接、聞き取りというかたちで行われた。ただし、「対象者を刺激しないよう」、少々あやふやな話であっても、深く追及することはなかった。
 また、外国人家庭にいる者、朝鮮、中国系はこの数字に含まれていない。
 さらに言えば、その前に亡くなった混血児については、まったくカウントされていない。だから、GIベイビーの数は、二十万人だ、いや二万人だと諸説入り乱れている。
 保護施設に目を向けると、もっとも多数を受け入れていたのは横浜・山手の聖母愛児園。百四十三人を保護している。次いで多いのが大磯のエリザベス・サンダース・ホームの百十三人。
 しかし、最大人数を受け入れてきた聖母愛児園はあまり知られておらず、混血児の養護施設といえば、語られるのはエリザベス・サンダース・ホームだ。
 聖母愛児園はキリスト教団体として、他の施設と同じく粛々と運営されていた。一方、サンダーズ・ホームには澤田美樹という際立った「顔」があった。混血児問題を世に知らしめ、ホームを運営するため、澤田は積極的に、自身をマスコミの前に出していった。

  


                         (第9回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年1月19日(金
)掲載