見えないものと仲良くなる 安田登

2018.8.22

10聞こえざる声を聞く=脱魂と身体(1)

 

 中国には三大悪女と呼ばれた人たちがいる。誰を三大悪女とするかは人によって違うが、次の三人がそう呼ばれることが多い。
 ・呂后(りょこう):漢を建国した劉邦(高祖)の后
 ・則天武后(そくてんぶこう):唐の皇后だったが、やがて武周朝を建て女帝となる
 ・西太后(せいたいごう):清の咸豊帝の第三夫人だったが絶大な権力を持っていた。写真も残っている
 この三人の中で、詳しい物語が伝わっている最古の悪女が呂后(呂雉)である。
 呂后は、漢文の授業で学ぶ「四面楚歌」や「鴻門之会」で有名な漢の建国者、高祖・劉邦(りゅうほう)の第一夫人である。
 名もない無頼の徒であった劉邦を助け、漢の建国を礎を築いた、まさにアゲマンの代表だ。大敵、項羽との戦いでは一度は人質になったりもしたが、若い頃の彼女には後世いわれる悪女のイメージはない。
 そんな彼女が悪女化するのは劉邦の晩年、そして死後だ。まずは漢の建国に功績のあった重臣らを次々と殺害し、その代わりに自身の一族を取り立て、政治の実権を逃げる。
 しかし、彼女が世紀の悪女として歴史に名を遺したのは「ひとぶた(人彘)」の一事からだろう。
 劉邦には、戚(せき)夫人という愛妾がいた。項羽との戦いには、劉邦はもっぱら彼女を同行して、陣中で舞を舞わせたり、ともに碁を打ったりもした。戚夫人が産んだ子、如意は優れた子だった。漢帝国を継ぐのは呂后の子に決まっていたが、劉邦すらもその位を如意に譲ろうとしたほどだ。その話は重臣たちの諫言でなくなったが、しかし呂后にとっては面白くない話だ。いや、面白くないどころか、自分や子どもの地位すらも脅かされかねない、事件である。
 それでも劉邦が生きている間は我慢をした。彼女の恨みが爆発したのは、劉邦の死後である。
 呂后は、如意と戚夫人を捕らえ、如意は毒殺した。
 しかし、戚夫人に対しては毒殺なんて生やさしいことではすまなかった。まず彼女の両手両足を切った。古代中国には「肉刑」と呼ばれる身体の一部を切断する刑罰があったが、それでも「足斬り」、「鼻削ぎ」、そして「刺青」がその中心だった。両手両足を斬るなんて刑は記録にもほとんど見ない。
 すごいでしょ。
 が、それだけではない。戚夫人の眼をつぶし、耳を打ち抜き、喉を焼く薬も飲ませた。そして、トイレ(あるいは天上の低い部屋とも)に押し込め「人彘(ひとぶた)」と呼ばせたのだ。彘は豚のことである。
 こわっ!
 呂后の子の恵はすでに帝位を継いで恵帝と呼ばれていたが、呂后は我が子恵帝に、変わり果てた戚夫人の姿を見せた。
 恵帝は最初、それが何だかわからなかった。しかし、母からそれが人であること、そして戚夫人の変わり果てた姿であること聞き、「もう世の中を治めることはできない」と酒色に溺れるようになり、立ち上がることもできない病気になってしまったと『史記(呂后本紀)』に伝える。

 なんともひどい話から書き出してしまってすみません。
 こんな話を書いたのは、この人彘(ひとぶた)にされた戚夫人が、今回の「脱魂」に関連する人だからだ。
 戚夫人は、劉邦の陣中で舞を舞ったと書いたが、その舞は「楚舞」であったといわれている。「楚舞」の特徴は、イナバウアーのように上体を後ろに大きく反らすことにある。
 いまの中国舞踊にもこのような舞は残っているが、実は能にもあるのだ。
 能というと、ゆったりした舞をイメージする人が多い。なのにイナバウアーというのは何とも不思議に感じるだろう。
 その舞は、『張良(ちょうりょう)』という能で、劉邦の軍師、張良に扮するワキが舞う舞だ。
 圧倒的な力の差があった項羽率いる楚軍に、劉邦の軍が勝てたのは、この張良の軍略の功績が大きい。彼は兵法の秘伝の体得者なのである。で、その張良に兵法の秘伝を授けたのが黄石公(こうせきこう)という不思議な老人だった。
 能『張良』は、その不思議な老人と張良との出会いを描く(元ネタは『史記』)。
 不思議な老人、黄石公は自分の履いている靴を川に落とし(舞台では後見と呼ばれる人が靴を舞台上に投げる)、張良にそれを取って来いと命じる。張良は川に飛び込み、その靴を拾おうとするが、急流に翻弄されて拾うことができない。その翻弄されるさまを描くのが、イナバウアーのような舞なのだ。
 しかもこれ、靴の落ちた場所によって舞の軌跡を一瞬で考えて舞うという、アドリブで舞われる舞なのである。私はこの舞は、能のルーツの舞のひとつだと考えるが、それについては後述する。
 楚の舞である「楚舞」を舞うのが、劉邦に愛された戚夫人と、そしてその軍師であった張良だというのが、なんとも不思議で面白い。楚とは敵である項羽の本拠地だからだ。
 項羽が、もう自分はお終いだと悟ったのが、四方を囲む劉邦の陣地から、楚の歌が聞こえたきたのがきっかけだったという「四面楚歌」というのも面白い。なぜなら楚は歌ではなく舞で有名だったからだ。
 揚子江の南を江南といって、古代から独自の文化を築いてきた。江南には項羽の楚のほかに「呉越同舟」で有名な呉と越があるが、「楚の舞踏、呉・越の歌謡」といわれるように楚は舞踏で有名だった。
 それなのに「(四面)楚歌」である。
 これに関しては、いろいろ書きたいことがあるが、それを書いていくと今回のテーマである「脱魂(だっこん)」になかなか辿りつかないので略すとしよう。

 さて、話を戻して…
 江南は古代から独自の文化を築いてきたといったが、特に楚の古代文学の精華である『楚辞』は、脱魂型の詩集として中国古代文学史上でも異彩を放っている。
 『楚辞』の代表的作者である屈原は、巫者的性質を有す王族だ。
 『楚辞』の代表的一篇は、讒言(ざんげん)によって地位を追われた屈原が、自分が正しいのか、あるいは間違っているのかを知るために、神界を飛翔するという長編幻想詩「離騒(りそう)」である。
 「離騒」の一部を紹介しよう。
 ※以下、牧角悦子先生の訳を参照した。

 

ある朝、私は、古代の聖王である舜帝の霊前にひれ伏して祝詞を唱える。
すると我が魂は、その身体から抜け出て天界に向かった。
気がつくと「鷖(えい)」に乗っている。
鷖とは鳥の名だが、これは天空を飛ぶ車だ。
この車を引くのは四頭の蛟龍(こうりゅう)。
風を待って私は空高く上昇した。
朝、舜帝が崩じた蒼梧(そうご)の地から出発したが、
夕べにはもう死者の霊魂の眠る崑崙山(こんろんざん)の
県圃(けんぽ)に着いていた。
「ああ、しばらくこの霊域に留まっていたい」
そう思うが、日はあっという間に暮れようとしている。
私は太陽に「止まれ!」と命じる。
太陽の御者である義和(ぎか)に命じたのだ。
眼の前には、遥か延々と続く長い道。
わが車は、上昇したり、下降したりしながら、
自分の行くべき道を探し求める。
天空の車はやがて、朝の太陽が水浴びをするという咸池(かんち)に着いた。
そこで我が車を引く蛟龍たちに水を飲ませ、
太陽がそこから昇るという扶桑の木にその轡(くつわ)を結んだ。
霊木、若木(じゃくぼく)を手折って太陽を払い、
しばらくの間、ゆったりとあたりをさまよい歩く。
我が車の先駆けは、月の御者である望舒(ぼうじょ)である。
後ろを守るのは風の神、飛廉(ひれん)。
美しい尾長鳥、鸞(らん)と鳳凰とが私の行く路を清め、
雷神は「未だ具(そなわ)らず」と私に告げる。
私は鳳凰に命じる。
「高く飛べ。昼も夜も休むことなく飛べ」と。
つむじ風はあるいは集り、あるいは散れて私を天へと誘えば、
雲も虹もひきつれて私を迎える。
光は入り乱れ、あざやかに、そしてあでやかに混じりあい、
きらめく光芒をはなちつつ上へ下へと車を走らせて、
やがて車は天の門に到着した。
そこには、門にもたれて私を望む女たちがいる。
「夕暮れの門番よ、霊域への門を開けよかし」、私は叫ぶ。
しかし、暗がりがあたりを包み、一日は終わろうとしている。
もう進むことはできない。
蘭を手折り、その花に思いを託してひとりたたずむ。
世の中は乱れ濁り、分別もなく、
美しいものを覆い隠して嫉妬するばかりだ。

 

 主人公の天界飛行はまだまだ続くが、読んでみて「あれ、話がうまくつながらない」とか「突然、話が飛んだ」と感じるところがあっただろう。読み進めると、もっと出てくる。これが脱魂文学の特徴だ。論理性も一貫性も薄弱である。だからこそ面白い。
 さて、先ほど楚は舞で有名だという話を紹介した。日本で舞といえば、まずはアメノウズメ命だろう。我が国で最初に登場するのが、天岩戸神話におけるアメノウズメ命の舞である。
 弟、スサノオ命の暴戻さに、姉で太陽神でもある天照大神は、ついに天岩戸に姿を隠してしまった。太陽神の引き籠りによって天地は永遠の暗闇に閉ざされ、さまざまな禍事が起こる。この事態の解決のために、思考の神である「思金神」はさまざまな儀礼を考案するのだが、その最後に全身に植物をまとったアメノウズメ命に舞を舞わせたのだ。

 

天の宇受賣の命、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて、天の眞拆(まさき)を鬘として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草に結ひて、天の石屋戸にうけ伏せて、蹈みとどろかし、神懸りして、胸乳(むなち)を掛き出で、裳緒(もひも)をほとに忍し垂りき。

 

 アメノウズメ命は、桶をどんどんと踏み鳴らして「神懸り」し、乳房を露出し、下衣の紐をこれ見よがしに性器の前に垂らした、とある。
 すると高天原が振動して、八百万の神たちはみな笑(咲)い、これがきっかけになって太陽神の復活が実現するのだ。
 そういう意味では、アメノウズメ命の「神懸り」の舞は太陽神の復活をうながす呪術的舞踊であったといえよう。だからこそ、これ以降も天皇家の鎮魂祭や大嘗祭には、アメノウズメ命の子孫である猿女君氏の人々が奉仕することになる。
 しかし、実はこの「神懸り」は、『古事記』や『日本書紀』の中にあらわれる、ほかの「神懸り」とはちょっと異質なのである。ほかの「神懸り」には託宣、すなわち神からの言葉が伴う。巫女に神が憑依して、巫女が神となって神託を宣べる、前回にお話した憑依型、それが「神懸り」の基本だ。
 前回、お話した神功皇后の託宣などがそれだし、能『翁』の翁神や、『ケサル王伝説』のケサル王の憑依とも同じである。
 憑依をしない神懸りであるアメノウズメ命は、『楚辞』の屈原のように「脱魂」していたのだろうか。脱魂は、憑依と違って他人にはわからない。
 しかし、本人にとっては、それは非常にリアルな意識体験である。「脱魂」型と「憑依」型には意識という点で大きな違いがある。
 すなわち、「脱魂」型の方は魂が飛翔しているときでも本人の意識があるのに対して、「憑依」型の方は、憑依された巫者が託宣を宣べているときにはそのときの記憶がないことが多いということだ。
 また、「憑依」型の方には祝詞や歌などの歌唱的なものが伴うものが多いのに対して、「脱魂」型がアメノウズメ命の舞のように床を踏み鳴らしたり、跳躍したりという激しい身体動作を伴うのが多いのも特徴だ。
 前者が節(メロディ)的なのに対して、後者は拍子(リズム)的なものが多い(むろん例外もある)。アメノウズメ命のオケを踏み鳴らす舞に対して、『翁』の「とうとうたらり」も節(メロディ)的だし、『ケサル王伝説』の「あらたらたらり」もそうだ。
 「脱魂」型が運動によってトランス状態になるのに対して、「憑依」型は音韻と節によってトランス状態になるのだ。
 ちょっとここでまとめておこう。
 ・脱魂(ecstacy)型
  魂が巫者の身体を離脱して、神霊の世界に飛翔する。
  巫者の意識があることが多い(神霊界での記憶がある)。
  舞や踊りのような身体的運動がそのきっかけになる。
 ・憑依(possession)型
  神霊や亡霊・精霊など巫者の身体に憑依し、巫者が神霊として語る。
  巫者の記憶がないことが多い。
  歌や呪言、あるいは音楽などによって憑依が起こる。
 ただし、これは二分した場合の話で、憑依型でも意識(記憶)があるし、あるいはもうひとつの人格が現れ、それを観察する人格も現れたりする場合もあるし、分類は人によっていろいろだ。また、これは精神医学との関連からも語ることができるだろうが、ここでは深入りをしないことにする。
 また、アメノウズメ命の「神懸り」を「脱魂」型と言っていいのかどうかも疑問が残る。「神懸り」の「かかる」という日本語は「ある場所、ある物、人などについて事物や人が支えとめられる。また、あるものにかぶせる(『日本国語大辞典』)」なので、魂が脱けるという意味の「脱魂」とはちょっと違うし、英語の「エクスタシー(ecstasy)」の語源である「ek"out"+histanai"to place,cause to stand,"」というのとも違う。
 これに関しては、またいつか詳しくお話することにして、いまは「脱魂」型という語をそのまま使うことにする…が、すでにだいぶ長くなってしまったので、ここで一度筆を措いて、続きは次回に。

 
 

(第10回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2018年9
月24日(月)掲載