見えないものと仲良くなる 安田登

2017.8.31

01母が見た幽霊

 終戦の玉音放送日が流れた日、東京の夏は暑かった。
 高見順は『敗戦日記』の八月十五日の項に次のように書く。


 ──遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
 夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。
 蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。

 この日を体験した人は、あの日を一生忘れられないという。そして、その日を東京で体験したふたりが、それも自分にとって特別なふたりがこの夏に亡くなった。
 ひとりは、私の能の師匠である鏑木岑男(かぶらき・みねお)師、もうひとりは私の母だ。師のことは、また今度書くことにして、今回は、その最後の数か月間、「見えない世界」とつながっていた母について書こうと思う。ちなみに師も母も、昭和6年(1931年)生まれ、終戦の日は14歳、今でいえば中学2年生である。
 今年の夏は格別に暑い。高見順が書く終戦の日のように、空を見上げれば夏の太陽がカッカと燃えている。私にとっては今年が忘れられない夏になりそうだ。

 母が認知症ではないかという連絡を、二世帯住宅で同居する妹から受けた。母は千葉県の旭市に住んでいる。
 旭市は、東日本大震災では津波で十数名の方が亡くなった被災地だ。だが、母は震災で元気になった。それまで「腰が痛い」とか、「からだがダルイ」などと言ってベッドに横になっている時間が長かった母が、震災で飛び起きて以来シャキっと元気になった。
 が、そんな母の様子が変だという。
 会ってみると、そんなに大きく変わったところはない。近くはないので、そう頻繁には会いに行けなかったが、月に一度は行くようにした。私が散髪したあとに行けば「髪を切った?」と聞かれたし、生活費の振り込みが遅れれば「まだ入金されていない」と催促された。ボケているという感じではない。
 でも、確かに変わったところがひとつあった。それは「幽霊がよく家に遊びに来る」というのだ。

 死期が近づくと、身内が「お迎え」に来るという。ひょっとしたら母も、と思ったのだが、どうもそうではないらしい。母のところに来るのは、身内ではなく、まったく知らない人たちだった。
 妙齢の婦人もいれば、母と同年配のお年寄りもいる。ときには子どもの霊も遊びに来る。来れば、霊たちは母とおしゃべりをする。ときには楽しかったことを話すこともあるが、その多くは生きていたときに感じていた不満や、この世に残した思いだ。母にも不満はあり、解決できない思いはあるが、残念ながら母の愚痴はあまり聞いてくれないという。
 幽霊たちは、私が母のもとを訪れたときにも、ときどき出現した。私が彼女たちの定席(母の目の前)を取ってしまうので、私の隣に座ることが多いようだ。
 母が「(幽霊が)来てるよ」というので、横を見ると「あ、消えちゃった」という。私が見ると、消えてしまうらしい。
 そこで、彼らにはわからない合図を決めて、幽霊が来たときは母が知らせてくれることになった。そこから母と私の会話は、私の隣にいる幽霊も意識したものに変わる。ふたりの会話に耳を澄ます幽霊に聞かせるものになるのだ。
 そして、話がひとしきり落ち着くと、母は幽霊に向かって「早くお墓に帰りなさい」と言って墓に戻す。
 幽霊と話す、それが母の認知症であった。この、母のしていることは、まさに「能」そのものなのである。

 あ、挨拶を忘れておりました。私は能楽師をしています。よろしくお願いいたします。
 …というわけで、本連載では「能」のことが頻繁に出て来ますが、自分の仕事のことを自分がしゃべるわけですから、当然「我田引水」のきらいがあります。そこら辺はどうぞ差し引いてお読みください。
 では、話を戻し…。
 さて、幽霊と話をし、そして最後に墓に戻す母の行為がなぜ能に似ているのか。あまり能に親しんでいない方のために、ちょっと説明をしておこう。
 能、特に夢幻能と呼ばれる作品群のシテ(主人公)は、この世ならざる存在だ。神のこともあり、精霊のこともあるが、幽霊であることが多い。この世に何らかの思いを残して死んだ幽霊がこの世に現れ、その思いを語り、舞い、そして思いを晴らして再び冥界に戻る。それが夢幻能だ。
 シテ(主人公)が、存分にその思いを語るためには、それを聞く人が必要だ。それを能ではワキという。
 ワキといってもわき役ではない。ワキとは、「分く」、すなわちあの世とこの世との分かれ目、境界にいる存在、マージナル・マンだ。ワキは、生の世界でも、死の世界でもない境界にいるからこそ、ふつうの人には会うことができない幽霊と出会い、言葉を交わすことができる。
 ワキは、シテと言葉を交わし、シテの思いを聞き、そして、その思いを充分に出し切らせ、成仏を助ける。
 と、能について知れば、幽霊の話を聞き、墓に戻す母の役割は、まさにワキであり、能であるといったわけをわかっていただけるだろう。
 ここでちょっと余談をしたいのだが、私は能楽師だが、母は能を好きではなかった。
 親孝行に、と思って、自分が出演する能の舞台に母を誘ったことがあったが、「あんな辛気臭いもの観ていられるか。歌舞伎がいい(しかもステーキの夕食付きで)」と言われた。だいたいそうくることは予想していたので、自分が能をはじめたことも内緒にしていた。
 それがバレたのは、テレビで『道成寺』が放映されたときだ。道成寺の僧侶たち(私はそのひとり)が、数珠を揉みながら蛇体と化した白拍子の霊に向かって祈っている姿を見た母から電話があり、「お前、蠅みたいなことをしていただろう」と言われた。
 小林一茶の「やれ打つな蠅が手をすり足をする」ではないが、僧侶役の私が数珠をスリスリ揉んでいる姿が、母には蠅に見えたのだ。
そんな母である。自分がしていることを「能」だと思ってはいなかったに違いない。

 さて、幽霊と親しい母を、周囲の人たちは「認知症」であると思っていたが、しかし、母が幽霊と親しかったおかげで、助かっていたのは周囲のものであった。
 認知症の初期症状のひとつに「物盗られ妄想」がある。自分の財布や大事なものを、誰かに「盗まれた」というのだ。加害者として疑われるのは、お世話になっているヘルパーさんや介護施設の職員の人だ。あるいは同居の家族のこともある。
 実際には、自分が置き忘れたということが多いのだが、しかし「ひょっとしたら自分が」と思うことがない。そんな妄想だ。
 母にもあった。
 電話で、よく母が話していた。
「玄関に置いたはずのお財布が盗られちゃったのよ」とか「しまっておいたはずの指輪が仏壇のところに出ていたのよ。誰かが盗んで、また戻したのに違いないわ」などいう具合にだ。
 だが、母が加害者にしたのはヘルパーさんや同居の妹ではなかった。
 幽霊だったのだ。
「また、あの女の子の幽霊が指輪を持ち出したのよ」とか「あのおばさんの幽霊が盗んだんだわ」などという。疑いをかけられた幽霊にとってみればいい迷惑だろうが、しかし生身のヘルパーの方や妹はそのおかげで助かった。
 ほんのちょっと前。日本人は幽霊や妖怪のような「見えない存在」と親しんでいた。むろん、それが引き起こした問題も少なくなかった。それを迷信だと否定したのは科学の功績でもあるが、しかし「見えない存在」のおかげでうまくいっていたこともあっただろう。

 見えない存在を消してしまったのは科学だけではない。似非霊能者や似非霊媒師のような奴らも、私たちに「うさんくささ」を植え付けることによって、見えない存在を消してしまった。霊能者なのにひどい話だ。
 また父は、絶対的無神論者だったが、そうなったきっかけは戦争だった。学生時代に軍隊に取られ、主計将校として参戦したが、戦争のせいで天皇制と、日本国と、そしてあらゆる宗教を信じなくなった。
 いや、宗教や国家だけではない。復員後の父は、「信じる」という行為自体を固く否定するようになった。科学も人も、また倫理も道徳も信じなかった。
 何も信じるものがない生活は、さぞかし苦しかったであろう。
 しかし、これは父だけではない。戦後に生まれた私たちは、常に心のどこかにあらゆる事物に対して疑義を持ちながら生きている。
 父を見て思うのは、戦後、見えない存在や、見えない世界を私たちから切り離した、その第一の要因は、ヨーロッパから輸入した、王権神授説、すなわち「神聖」にして「侵スヘカラス」という天皇の絶対主義君主制を、あたかも疑似宗教のごとくに国民に強いた国家の政策にあったのではなかったか。
 宗教的なものが、見えない世界を私たちから遠ざけたというのは、なんという皮肉だろう。
 今年も終戦の日が過ぎた。死者がこの世に戻って来る「お盆」もこの日である。
 真夏の炎天下、カッカと燃える熱い太陽を見上げ、眼に痛い光線を浴びながら、私たちがなくしてしまったものについて思いを馳せたい。

 

 

(第1回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2017年9
月28日(木)掲載