見えないものと仲良くなる 安田登

2017.9.28

02見えないものと仲良くなるためのツール1、夢

 「見えないものと仲良くなる」というテーマで前回からお話をはじめたが、これから数回は、見えないものと仲良くなるためのツールをいくつか見て行こうと思う。私は能楽師なので、古典からも紹介する。
  今回は「夢」である。
  私事で恐縮だが、昨年還暦を迎えた。昨今、六十歳なんて老人でも何でもないが、しかしこの数年、確実に変わったと実感することがある。
 それが「夢見」である。
 若い頃は、夢は単に夢であった。しかし、このごろは夢の比重がやけに重くなってきた。むろん、夢は現実とは違う。夢はあくまでも夢である。しかし、夢の中には確実にもうひとつの世界があるという実感がある。それは日常のリアリティが作り出す世界とは違った、もうひとつの世界なのである。
 これは年齢だけの問題ではないだろう。夢の比重が子どもの頃から大きかったという人もいる。しかし、私にとってはこれはこの数年の出来事なのだ。
 だから、夜、布団に入るのが楽しい。ひとつの世界に別れを告げ、もうひとつの世界に入っていく感がある。
 こんな風に「死」を迎えることができれば楽しいだろう、なんてことも思う。
 いや、違った。
 これを書き始めたら突然、思い出した。小学校低学年のときの自分にも夢は重大事だった。
 小学校低学年の頃、祖母が亡くなった。祖母は亡くなる少し前から、夢の話をすることが多くなった。小学校低学年の自分にとっては夢と現実との区別があまりなく、夢の話を聞くことは怖いことだった。祖母の夢には、戦死した伯父たち(祖母にとっては子どもたち)がよくあらわれた。祖母の夢に現れる軍服姿の伯父たちの亡霊は、少年の私の脳裏にくっきりとした像を結び、その夢がさらに自分の夢に侵入してきて、この夢が自分の夢なのか、祖母の夢なのか判然としなくなくなった。
 その頃は悪夢ばかり見ていた気がする。
 そして、祖母が亡くなった。
 祖母には申し訳ないが、祖母が亡くなった「とき」の記憶はない。自分のことでいっぱいだったからだ。毎日の夢語りが突然、中断された。そのとき、「目覚めることのないばあちゃんの夢はどこに行くんだろう」と思ったことを今でも鮮明に覚えている。そして、祖母との共同作業の産物だった自分の夢はどうなってしまうんだろうかと恐ろしくもなった。
 祖母の夢の記憶が残滓となって、それからも当分、悪夢に悩まされた記憶がある。夢は子どもにとっても重大事だったのだ。

 昔の日本人にとって、夢は現代よりももっと現実味のあるものだった。夢の売り買いすらされていた。だから売る気のない夢は簡単に人に語ってはいけなかった。
 夢を人に語ってはいけないという教訓を伝える古典がある。『宇治拾遺物語』に載る(巻十三の五)。
 この物語の主人公は『宇治拾遺物語』では「ひきのまき人」と書かれているが、彼は吉備真備のことではないかといわれている。だから、以下、吉備真備(きびのまきび)として話を進める。奈良時代の物語である。
 吉備真備は、備中の国(岡山県)の郡司の家に生まれた。若いころ、自分の見た夢を「夢合わせ(夢解き)」をさせようと、夢解き女の家を訪ねた。夢合わせのあと、夢解き女と話をしていると、お付きの者を従えた貴人がやって来る音がする。
 備中の国守の長男一行だった。
 ちなみに吉備真備の家の「郡司」は地方豪族だが、今やって来た「国守」は中央貴族である。郡司と国司とでは格が違う。国守の若君は十七、八歳で姿形が美しいイケメンだった。彼も夢合わせのためにやって来たのだ。
 夢解きの女は、若君一行を別室に誘い、その夢を聞くや、「これは類なきすばらしい夢。必ず大臣にまでご出世なさいます。まことにめでたき夢でございます。が、決してこの夢のことを人に語ってはなりません」と告げた。
 このとき吉備真備は、若君が夢合わせをする隣の部屋に行き、その話を盗み聞いていた。国守の若君は、夢解き女の言葉に喜び、着ていた着物を脱いで与え、一行を従えて国司の屋敷に帰って行った。
 隣の部屋で話を聞いていた吉備真備は、夢解きの女に向って「夢には『取る』ということがあるというではないか。どうぞ、若君の夢を自分に取らせてくれたまえ」と懇願した。「人に語ってはならない」と告げたばかりである。しかも、位でいえば国守の方が郡司よりもずっと上。渋る女に吉備真備は、「中央から赴任して来ている国守はたった四年で都に帰ってしまう。それに対して俺は土地の者。俺を大事にするのが当然だろう」という。
 夢解きの女は、「確かにそうだ」とその申し出を受ける。そして、先ほどの若君と同じ動作を繰り返すようにと真備にいう。国司の若君と同じように部屋に入り、国司の若君と全く同じように夢の内容を語れと吉備真備にいった。
 真備がその通りにすると、夢解きの女も先ほどと全く同じように答えた。そして、やはり同じように、真備は着ていた着物を女に与えて帰って行った。
 その後、吉備真備は「文(漢学・漢籍)」を学んだ。彼はその内容をどんどん吸収して「才ある人(才識ある人)」としての評判が立つほどになった。その評判はやがて朝廷にまで聞こえ、官吏として試用されると、みるみるその実力を発揮した。
 さらに遣唐使として唐に派遣されると、最先端の学問や技術を次々に身につけ、珍しいさまざまな文物をも持ち帰り、天皇にも重用され、とうとう大臣にまでなった。
 それに対して国司の若君は大臣にもなれずに、官職もないままにその生涯を終えたという。
 この物語は「されば夢を人に聞かすまじきなり、と言い伝えたり」と締めて終わる。

 人の一生を左右するほどの夢だ。古来、これほど重視されていた夢を現代人は軽視しすぎているように思う。
 能も最後は「夢だった」で終わることが多いのだが、それをいうと「なんだ夢か」という人がいる。そういう人は、私たちが毎夜出会う夢の不思議さを忘れているのだ。
 夢って、とても不思議でしょ。
 夢が何よりも不思議なのは、本当は「見えないはず」なのに「見える」だからだ。
 「見えないはず」というのは、夢には「目」を使わないということだ。私たちは、通常の「見る」ときには、感覚器のひとつである「目」を使う。ところが夢を見ているときには「目」は使わない。これは不思議だ。
 さらに、「目」を使わない「見る」ということが厳然として存在するのを、ほとんどの人は実感として知っているはずなのに、「見えないものを見るということは変なことだ」と思っている。これも不思議だ。
 夢では「見る」だけではない。「聞く」も「触れる」もする(香りと味に関しては、私は夢の記憶が薄い)。
 ということは、感覚器を使わない、もうひとつの「感覚」が存在するということだ。私たちがふだん「見ている」と思っていることのほかの、「もうひとつの見える」世界が存在するということだ。
 フロイトは、この不可思議な「夢」を論理的に説明しようとして「無意識」というものの存在を仮定した。そして夢とは無意識からのメッセージだとして、それを読み取ろうとした。しかし、夢日記を付けた経験のある人にはわかっていただけると思うが、夢は記述しようとした瞬間に違うものに変容してしまう。毎日、夢日記を付けだすと、今度は夢そのものすらわかりやすいものに変容してしまう。
 夢は、論理的に扱うべきものではない。
 「見えないはず」なのに「見える」のは「夢」だけではない。幻覚剤を使ったり、あるいはクスリを使わずともさまざまな原因で、脳は「幻影」を見せる。これだって幻影ではなく、「もうひとつの見える」であるというべきなのかも知れない。
 幻影を見る「幻覚」は昔から存在していた。ただ、昔の人はそれを幻覚ではなく、もうひとつの現実として認知していたことが古典からわかるが、それに関しては長くなるので続きは次回ということで、今回はこれにて失礼をば。

 

 

(第2回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2017年10
月27日(金)掲載