見えないものと仲良くなる 安田登

2017.11.6

03見えないものと仲良くなるためのツール2、芸能

 「見えないものと仲良くなるためのツール」、今回は芸能だ。
 先日、東京・広尾にあるお寺、東江寺(とうこうじ)さんで「手猿楽事始(てさるがく・ことはじめ)」という会を催した(20171021日)。
 手猿楽とは、玄人ではない人がする能のことで、応仁の乱で、能(当時は猿楽)をはじめ、多くの芸能が下火になったころから盛んになり、そののち江戸時代にもよく行われたそうだ。
 江戸時代の能は、幕府や各藩のお抱え能楽師(中には士分に取り立てられた者もいた)や武士たちによる「武士のための、武士による芸能」であり、基本的には武士以外は観ることも演じることもできなかった。
 しかし、手猿楽というフリーの芸能集団による辻能は、庶民の目にもふれ、しかもかなりの人気だったようだ。また、四条河原や吉原での遊女能は禁止令が出るほどの盛況だったという。
 そんな手猿楽の現代的な意味を考えようという会だった。
 メンバーは、安田が謡を教えている方たちが中心だ。
 マルチクリエイターのいとうせいこうさん、浪曲師の玉川奈々福さん、情報学者のドミニク・チェンさん、音楽家のヲノサトルさん、日本美術の橋本麻里さん、編集者の足立真穂さん、メンバー唯一の会社員の金沢霞さん。それにお寺の和尚さんや造形作家の山下昇平さん、ヒップホップダンサーの実験道場のメンバーも加わった。
 能は、芸能として完成している。完璧だ。いまさら手猿楽のことを考える必要はない、と思っていた。しかし、その考えが変わったのは、銚子市(千葉県)の中学校での体験だった。
 銚子市(千葉県)は、私の郷里である。
 高校時代の同級生が先生をしている、その中学校に能の授業をしに行った。そのときに、この学校が次の年に廃校になると聞いた。子どもの減少による統廃合だ。
 「じゃあ、最後に、子どもたちと、この土地の伝説を演じよう」
 そう提案した。演じるのは中学生だ。新作能などは無理だが、しかしせっかく能の授業の連続として行うのだから、能の手法を使った作品にしようと思った。
 まずは、土地の伝説を取集し、能の構造で作品化した。セリフは能の「謡(うたい)」で謡う。演技は「型(かた)」だ。そのほかに、この土地に伝承されている太鼓の演目も入れたし、銚子の民謡も入れた。西洋風の音楽もちょっと入れた。
 銚子には、月に一度通っている。保育園時代の友人、吉田孝至君が寺子屋を開催してくれているからだ(銚子の学校での授業を計画してくれるのも彼だし、土地の伝説の収集をしてくれたのも彼と校長先生だ)。それをもうちょっと増やして一年間稽古をすれば何とかなるのではないかと思った。
 知り合いの狂言師やダンサーも手伝ってくれた。

 この中学校の最後の生徒は十四人。銚子というと海のイメージがあるが、この学校の生徒は、農家の子がほとんどだ。浜の子のような荒々しさはない。
 校長先生が「ふだんの生徒を見てもらいましょう」と、みんなで椅子取りゲームをした。
 驚いた。ゲームにならないのだ。
 最後に残ったひとつの椅子に男子生徒と女子生徒が座ろうとした。ふつうならば、どちらかがどちらかを排除するはずだ。が、ふたりは「どうぞ、どうぞ」と譲り合って座ろうとしない。「人がいいにもほどがある」と校長先生はにこにこしながら言う。
 そんな生徒ばかりの中学校である。
 だから声も小さい。声を荒げる必要がないからだ。先生も穏やかだ。それはとてもいいことなのだが、声が小さすぎて謡にならない。それでも一年間、稽古を続けていると声も出るようになり、型も決まるようになってきた。何より真剣だ。一生懸命だ。各人が各人のすべきことを全身全霊で行っている。
 本番には、友人たちが東京から「地謡(コーラス)」を謡いに来てくれた。みな、能は素人だが、中にはプロの歌手もいる。
 前日にリハーサルをした。
 困ったことが起きた。子どもたちの本気の演技に地謡の人たちが感動して、涙が溢れてきてしまうのだ。声がつまって謡えなくなるのである。
 そこで本番では子どもたちの方を見ないで謡おうと決めた。
 14人の生徒に800人以上の観客が集まった。地元の方が中心だ。前の方の席にはお年寄りが座っている。上演を始めると、その方たちが手を合わせている。そして涙を流して観ている。
 ダメだ。せっかく生徒の方を見ないで謡おうと決めていた地謡の人たちは、手を合わせ、涙を流すおじいちゃん、おばあちゃんの姿を見て、またまた謡えなくなってしまった。それでも声をふりしぼり、上演は無事に終えた。
 翌日、地元の方たちから「よくやった」とおにぎりが届いた。

 なぜ、前の方に座っていたおじいちゃん、おばあちゃんが泣いていたかを後で知った。前に座っていた方たちは、この中学の卒業生の方たちだった。
 中学校の統廃合などは、子どもが減少している昨今では「よくある話」だ。が、そこに住む人たちにとっては、この中学の廃校は「よくある話」ですますことはできない。
 なぜなら、その中学校は、戦後すぐにできた中学校だからだ。それまでは小学校(尋常小学校)までしか行けなかった子どもたちが、はじめて中学校に行けた。その喜びは、現代の私たちにはわからないだろう。
 そんな中学がなくなるのだ。子どもが少ないからだということは頭ではわかる。しかし、いくら論理的に説明されても、気持ちはそれを受け入れることはできない。
 そのときに、この舞台を観た。なぜか涙が出て来て、手を合わせたくなった。そして、理由はわからないが、学校がなくなることを受け入れることができた、そういわれた。
 鎮魂がなされたのだ、そう思った。
 この中学校を卒業した方たちの「思い出」への鎮魂であり、そしてそのような方を受け入れて来た「中学校」への鎮魂だった。
 このときに芸能、それも素人による芸能の力をまざまざと知った。

 東日本大震災(2011年3月11日)のすぐあとの5月の連休に、手猿楽の会の会場(そして寺子屋の会場)である東江寺の和尚さん、飯田義道師とともに福島に出かけた。
 難を逃れて東江寺さんに身を寄せていた方たちがいて、その方たちの家がいまどうなっているかを見て来て欲しいと言われたからだ。震災後2ヶ月も経たなかったからか、柵や表示も不完全で、気がついたら立ち入り禁止地区に入っていて、「ここは入っちゃだめだ」なんて叱られたりした。
 あの震災では本当に多くの方が亡くなった。亡母が住んでいた千葉県旭市でも十人以上の方が津波で亡くなった。震災で亡くなった方のための法要は折に触れて行われる。
 また、東江寺にはシベリア抑留を体験した方たちの絵が多数、保存されていて、その方たちのための法要も当寺で行われている。
 しかし、このような法要では、ときに何かがちょっと違うと感じることがあると飯田和尚はいう。むろん読経や法事は供養になる。しかし、そのあとの法話が、何を話してもしっくりこない。個人ならば、その人の思い出や歴史を語ることが供養になる。しかし、供養すべき人が多数になったときに、個人の方のときに比べて弱い感じがするというのだ。
 そういうときに、法話ではなく芸能をする。その方が有効なのではないかと飯田師はいう。それは芸能が個人を超えたものだからであろう。

 日本の古典芸能、特に「能」は「こころ」を重視しない。
 「こころ」の特徴をひとことでいえば変化することだ。「こころ変わり」という言葉がある。昨日まではあの人が好きだったのに、今日は全然違う人を好きになっている。それが「こころ」である。
 能で大切にするのは、その深層にある「思ひ」だ。
 人買いに我が子を誘拐されて狂気となり、京都から隅田川(現・東京都)まで旅をする母をシテ(主人公)とする能『隅田川』がある。彼女は、都から遠く離れた隅田川を前にして『伊勢物語』の東下りの章を思い出す。
 在原業平は、ここ隅田川で、都に残した、愛する女性のことを思った。自分はここで我が子のことを思っている。
 この場面で能『隅田川』は、「思ひは同じ恋路なれば」と謡う。
 愛する女性と我が子、対象は違う。すなわち、「こころ」は違う。しかし、いまここにいない人を恋うるという「思ひ」は同じだ。どんなに「こころ変わり」しても、人を恋うる「思ひ」は変わらない。「思ひ」は個人をも、時代をも超える。
 ちなみに、ここでは「こひ」に「恋」という漢字を宛てて「恋路」としているが、「こひ」とは「乞ひ」である。満たされざる渇望をいう。
 定義的な言い方をすれば、「本来は自分とともにあるものが、一時的に離れてしまい、それが戻ってくるまで何もできなくなる状態」、それが「こひ」である。
 たとえばバーゲンセールに行った母親が、人混みを掻き分け、一心不乱にバーゲン品を探しているとする。ふと気づくと子どもがいない。その途端に彼女はバーゲン品など、どうでもよくなる。子どもが見つかるまで、それこそ狂気のようになって探す。
 それが「こひ」である。
 対象が、長い干ばつのあとの雨ならば「雨乞い」になるし、それが食べ物ならば「乞食」となる。
 「思ひ」は個人も、時代も、状況も変える。それが能が650年以上も続いて来た理由であり、そして亡くなった多くの方の「思ひ」に届く理由なのだろう。
 私たちは芸能を通じて、いまここにいない人とつながることができるのだ。

 

 

(第3回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2017年11
月27日(月)掲載