見えないものと仲良くなる 安田登

2018.2.5

06イナンナの冥界下り

 


 今月(2018年2月)、シュメール語で書かれた神話『イナンナの冥界下り』を、イギリス(ロンドン)とリトアニア(ヴィリニュス)で上演する。
 アーツカウンシル東京の長期助成による上演だ(国際交流基金にも助成をお願いしたのですが、残念ながら認められませんでした)。
 神話のあらましを簡単にお話しよう。
 主人公は、「イナンナ」という、天と地を統べる女神だ。
 あ、いま「女神」という語を使ったが、シュメール語では単に「神(diĝir)」である。女性の力がとても強かった時代、神(男神)と女神との区別はなかった。これは日本も同じだ。
 イナンナは天も地も統治しているので、本当はもうこれだけでいいだろうと思うのだが、しかしただひとつ彼女の管理下にないところがあった。
 「冥界(死者の世界)」だ。
 ちなみにシュメール語で冥界をあらわす「クル(kur)」には、冥界という意味のほかにも「異界」や「異邦」という意味もあるが、もともとの意味は「山」である。最初期の楔形文字の「kur(山)」は、三つの土の塊から成る。漢字の元となった甲骨文字の「山」とも発想が似ている。

           楔形文字の「kur(山)」

山1
山2
            
             甲骨文字の「山」

山3

 また「下る」のシュメール語(ed3)には「上る」という意味もある。だから本当は「冥界下り」ではなく、「冥界上り」なのかも知れないが、まあ、いまは気にせずに…。
 さて、ある日、イナンナは冥界に心を向け、持てるものをすべて捨て、かわりに7つの「神力(シュメール語で「メ」)」を身につけて、冥界に向かった。
 冥界には、冥界の女王がいる。イナンナの姉である「エレシュキガル」だ。
 エレシュキガルは、イナンナが来たのを喜ばず、門番ネティに「7つの門で7つの神力(メ)をすべて引き剥がせ」と命じる。ネティがその命令のままに、イナンナの神力(メ)をすべて引き剥がして裸にすると、冥界の裁判官たちもイナンナに「死のまなざし」を向けて、「弱い肉(死骸)」にしてしまう。そして、イナンナを冥界の釘に吊るすのだ。
 イナンナがいなくなった地上では、あらゆる生殖活動が止まった。人間の生殖活動だけでなく、動物も、そして植物も繁殖をしなくなった。
 イナンナは、冥界に行く前に、大臣であるニンシュブル(ちなみに女性)に、「もし、自分が戻らなかったら、父神さま(複数)にお願いに行くように」と命じていた。ニンシュブルは、イナンナから命じられたとおりに神々の神殿を廻ったが、みな「イナンナが勝手にしたことだ」と相手にしてくれない。
 しかし、最後に赴いたエンキ神は、クルガラ、ガラトゥルという二体の精霊に命の草と命の水を与えて冥界に遣わして、イナンナを救出した。
 神話では、救出されたイナンナが自分の身代わりとして、冥界に送る神を探すというくだりがこれに続くが、今回の上演ではイナンナの救出までを演じる。
 私が、シュメール語の原文を能の謡(うたい)の手法で謡い、それに狂言師の奥津健太郎さんや、浪曲師の玉川奈々福さんが日本語で返す。
 シュメール語は、紀元前にはそれを話す人が、すでにいなかったという超古代語なので、現代人でこの語を理解できる人はほとんどいない。しかし、会話の片方の言葉が理解できると、どんな内容が話されているのかがだいたい理解できるのだ。


 本作品は、数年前から東京と那須で何度か上演しているので、ご覧いただいた方も多いだろう。
 初演は那須の二期倶楽部の「山のシューレ(NPO法人アートビオトープ)」での公演だった。「山のシューレ」では、本作品を上演する数年前から『古事記』の「イザナギの冥界下り」と、ギリシャ神話の「オルフェウスの冥界下り」などを演じていた。冥界神話シリーズの最後として、もっとも古い本作品を演じたのである。
 さて、本連載のタイトルは「見えないものと仲良くなる」だ。神話時代の人々は、まさにこのタイトル通りに見えないものと仲が良かった。
 …と言いたいところだが、本当はちょっと違う。
 神話は、「見えないもの」との仲たがいによって生まれたといってもいいだろう。見えないものが見えなくなり、聞こえないものが聞こえなくなった人々が神話を作った。見えざる神々、聞こえざる神々との訣別による欠落感が、神話を生まざるを得なくなった動機であろう。
 神話時代というのは、実は「新しい時代」なのだ。
 が、見えざる神々、聞こえざる神々は、神話時代になっても完全に消えることはなかった。『古事記』には、そんな神々が間違って再出現してしまうという、びっくりエピソードがいくつかある。
 もっとも有名なのは、天岩戸神話だ。
 アマテラス大神が天岩戸に籠ったことによって、世の中は暗闇になり、常夜と化してしまった。そのとき、「万(よろず)の神の声(おとない)は、狹蠅(さばえ)なす満ち」という状態になったと『古事記』に書く。
 無数の神々の声が、何日も続く暗闇の中に五月の蠅のように(狹蠅なす)充満したというのだ。
 アマテラスの岩戸籠りによって生じた暗闇は、視覚的な暗闇だけではない。世阿弥は、それを「言語を絶して、心行所滅」と書いた。あらゆる差異がなくなり(言語を絶して)、あらゆる感覚器官が停止した(心行所滅)、そんな《闇》だ。
 ちなみに、日本語の「やみ(闇)」は「止み」が語源だともいう。光だけでなく、音も、動きも、すべてが止まった状態(止み)、それが《闇》だ。音も光も、なにもない。
 そんな《闇》だからこそ、見えざる神、聞こえざる神は出現することができる。それは、日常的な視覚も聴覚も運動も停止した《夢》の中だけに、出現するものがあるのと同じだ。
 泉鏡花は、小説『草迷宮』に、「到る処の悪左衛門(秋谷悪左衛門)」という妖怪を登場させ、彼とその夥間(なかま)一統は「人間の瞬く間を世界とする」といわせた。私たちがまばたきをして目を閉じた、その瞬間のみに出現している者たちがいる。それらが泉鏡花の妖怪なのだ。
 天岩戸神話に出現した神々も、そのような神々だったのであろう。


 見えざる神々、聞こえざる神々のおしゃべりは、かなり大きい声だったようだ。その声の大きさを『古事記』では「五月の蠅」と書いた。
 「五月の蠅」といっても、ハエすらあまり見なくなってしまったいまの人は、なかなかイメージしにくいでしょうね。
 それがどのくらいの大きさかということを知ることのできる記事が、『日本書紀』にある。
 推古天皇35年の出来事である。五月(旧暦なので夏)に大量の蠅が集まって大きな塊(かたまり)になったという。その大きさは、なんと数十メートル(十丈)。
 でかい!
 数十メールのハエの塊が出現したのは奈良上空。ハエの大集塊は、雷鳴のような大音響を発しながら、奈良から信濃坂を越え、その後、進路を東に向け、上野国に至ってやっと四散したとある。
 形もでかいし、音もでかい。移動距離もハンパではない。
 この巨大なるハエの凝塊が発する、雷鳴のような大音量、それが「狹蠅(さばえ)なす」である。
 アマテラス大神が、天岩戸にこもってしまったとたんに、いままで口を閉ざしていたさまざまな神々が、雷鳴のごとくにいっせいに口を開いた音なのだ。
 これはうるさい。


 ところで、それまで口を閉ざしていた神々とはどんな神々だったのか。気になる。
 それを知る手がかりが『大祓詞(おおはらえのことば)』にある。
 『大祓詞』とは、大祓の日(6月と12月の晦日)に、私たちが犯してしまった罪・穢れを祓うために唱える祝詞だ(私はよく罪・穢れを犯すので大祓を待たずによく奏上しています)。
 そこには「語(こと)問ひし磐根・樹根立・草の片葉をも語止めて」とある。おしゃべりをしていた岩や木や草がしゃべるのをやめた、というのだ。
 むかしは、岩や木や草もおしゃべりをしていて、それが私たち人間にも聞こえていたんですね。そういえば、小さい子には、岩や木や草のおしゃべりが聞こえる子がたまにいます。
 そして、それらを黙らせたのは「皇親(すめらがむつ)、神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)」の命令によって集まった神々と、その皇御孫命(すめみまのみこと)だという。すなわち、皇室の祖であるアマテラス大神や、その父であるイザナギ命、さらに天地初発のときに成りませる神々と、そして天孫降臨のニニギノミコトだ。
 アマテラス一族が、岩や木や草の言葉を封印したのである。
 だから、アマテラス大神が岩戸に隠れてしまうと、その封印が解け、それらは一挙におしゃべりをはじめた。
 むろん、ここに出現したのは岩や木や草などの自然神だけではなかったであろう。鏡花の描く「到る処の悪左衛門(秋谷悪左衛門)」や夥間(なかま)一統をはじめ、通常の視覚や聴覚の外に生きるさまざまな神々が真の闇を得て再び出現したはずだ。
 『草迷宮』の登場人物である旅の僧は、悪左衛門という名を聞き、「おお、悪……魔、人間を呪のろうものか」と問うが、しかし悪左衛門は「いや、(われらは)人間をよけて通るものじゃ」という。
 「しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損なわるるは自業自得じゃ」ともいう。
 が、そのような怪異なものを見て驚くだけなら、まだいいだろう。おせっかいにも、彼らを退治しようなどというものもたちもいる。
 桃太郎や神話の英雄たち、能『安達原(黒塚)』の鬼女を調伏した山伏たちだ。怪異なものたちからすればいい迷惑だ。
 アマテラスが岩戸に入ってきたときに出現した神々も、悪左衛門と同じだ。本来は、人間には見えない世界、聞こえない世界にひっそりと生きていたのが、真の暗闇によって外に出されてしまった。
 『古事記』にはそれによって「ありとあらゆる災いが起こった(万の妖悉に発りき)」と書く。しかし、災いに「妖」の字を使っているから、これは私たちの想像する「わざわい」とは違うだろう。「妖」の字は、もとは巫女が神がかりになって舞っている姿である。もとは「笑」と同じ漢字だ。
 本当はまったく悪くないのに、人間の認知によって「災い」とされたものたちが「妖」なのである。


 さて、ではアマテラス大神らは、どのような方法を使って、その言葉を封印したのだろうか。その統治の方法はどのようなものだったのか。
 それは「安国(やすくに=安定した国家)」の樹立だ。すなわち「秩序」による統治である。
 秩序とは、順序(order)である。王という最高権威者のもとに、さまざまな身分が順序よく配される。これが家族にも兄弟にも敷衍される。土地の区分も秩序立って行われ、法という秩序も生まれる。
 あらゆるものごとに秩序(順序)が当てはめられ、秩序(順序)こそが善で、無秩序は悪だという考えが世界中に埋め込まれる。
 中国には「渾沌(混沌)」という怪物の話がある。その姿はいろいろな伝説があるので、はっきりとはわからないが、目が見えず、耳も聞こえないというのは共通するので、まさに《闇(光と音の止み)》の怪物である。
 そして、その名の通りに秩序に反する混沌の怪物で、善人を嫌い、悪人に媚びる「悪」の権化のような怪物だとされているが、これは後代に与えれた汚名であろう。カオスはカオスで楽しい。
 しかし、混沌は悪、秩序が善という基本的スタンスが、現代につながる「古代」を作り、そして見えざる神々、見えざる神々、聞こえざる神々を放逐した。
 『古事記』の中で、見えざる神々、聞こえざる神々がもう一度出現するときがある。
 天岩戸神話以前の話だ。
 アマテラス大神の弟であるスサノオ命が、父であるイザナギ命のいうことを聞かずに、あごひげがみぞおちに垂れ下がるまでの長い間、ずっと泣きわめき続けていた。
 それによって、世の中の水分はすべて涙になってしまい、青々とした山も枯れ果て、河や海も干上がってしまった。そのときに、天岩戸神話と同じく「悪ぶる神の音なひは、狹蠅なす皆満ち、万(よろづ)の物の妖(わざわい)悉に発りき」となるのだ。
 スサノオは、父である神のいうことをきかない、まさに非・秩序の象徴だ。日本版、「渾沌」である。彼が力を発揮するとき、秩序の権化である皇祖の力は弱まり、見えざる神、聞こえざる神が跋扈しはじめる。
 それにしてもずっと泣き続けるスサノオは、なんとなくかわいい。まるで幼児のようである。
 そして、幼児も見えざるものを見、聞こえない声を聞く非・秩序の存在だ。そんな子を、秩序の社会の中(たとえば電車の中)に連れて行って、スサノオのように泣き続けられると親も周囲の人も迷惑する。
 だから、学校や家庭などでは「秩序」を教える。「前へ倣え(権威のまねをせよ)」とか、「気を付け(気を利かせろ)」とかいいながら教える。
 親のいうことを聞きなさい、先生のいうことを聞きなさい、世間の声を聞きなさいと、そんなことばかり聞いていると、聞こえない声は聞こえなくなり、見えざるものは見えなくなるのである。
 しかし、いま時代は大きく変わろうとしているように感じる。いままでの「秩序」の世界の終焉を感じるのだ。そのときに世界はどうなるのか、私たちは何をすべきなのか。
 シュメール語の『イナンナの冥界下り』を演じているのは、そのことも考えたいと思っているからだ。
 なお、以下に情報学者のドミニク・チェン氏とゴスペラーズの酒井雄二氏と『イナンナの冥界下り』について話をした記事があるので、よろしければ本稿とあわせてお読みください。

https://wired.jp/2017/06/10/yasuda-inanna/

 

 

(第6回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
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月5日(月)掲載