ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2019.4.8

19ボリビア(4) 傲慢な朝

 

 サンファン移住地から見て東に100キロほど行くと、沖縄系の人々が入植したオキナワ移住地がある。そこまでバスで向かうつもりだったが、オガタさんの計らいで車を用意してもらった。サンファンからオキナワまでそのまま連れて行ってくれるという。オガタ家には前の晩に泊めてもらっていて、夜はウィスキーだかワインだかをたらふく飲ませてもらった。朝ごはんもたしか、ご飯とか味噌汁とか梅干しとかを食べさせてもらった。卵焼きもあった気がする。至れり尽くせりである。

 朝、いっしょに酒を飲みながら議論を白熱させたオガタさんのお父さんは、NHKワールドを不機嫌そうに見ていたが、おはようございますと挨拶をすると昨日のことは覚えていないのか、微笑みを浮かべて、「おはよう」と返事をくれた。ぼくは昨晩彼に偉そうな意見を言っていたのだった。日本人移住地では、パラグアイでもそうだと感じたが、そこに暮らす人たちそれぞれの人間関係が濃く、日本文化の保持の仕方の純度が高い(日本より、「日本文化」の変化がない)ため、古き良き日本を感じることができる。けれども、それが悪く働いてしまうと単なる時代遅れの価値観に縛られているようにも見える、というようなことをぼくは言った。たとえば、昭和の封建的な夫婦のあり方や親子関係について物申した。あるいは自身は「日本から」移住してきた経緯があって、定着の苦労をする親世代の姿をすぐそばで見てきたからこそ(オガタさんのお父さんは子どものころに日本から移住した「一世」である)、ことさらに日本人であることをことさらに誇り、日本生まれではない子どもたちに対して、自分の「日本性」の優位を感じているのではないか、みたいなことまで言った。泊めてもらっている身だからこそ、その家主の言うことに対してイエスマンになってはならない、みたいに思ってしまって、余計にぼくの主張は強くなった。どうしてそういう話になったのかというと、彼の自分の息子に対する扱い方にぼくは不満を持ってしまったからだった。

 しかし、そうやって酒が入って議論した翌朝には、気恥ずかしい気持ちになってしまうのだから仕方がない。酒を飲まないと議論できないのだとしたら悲しすぎる。酒の席において、議論してはならない、のではなくて、酒を飲まなくてもできる議論をちゃんとすればいいのだけど、どうしてかそれができない人が多い、気がする(自分がそうなんだけど)。そして、そういう人たちの議論はもはや議論ではなくて、相手を言いくるめたいとか、自分の思考の正しさを誇示したいとか、ときにはほかに盛り上がる話題がないために、あるいは盛り上がる話題を探すことをさぼって、手っ取り早く間を埋めようとするためとかのものである。それを周りで聞かされる人たちは、そのストレスの発され方にうんざりし、酒を飲む手を止めて、いつのまにか片付けをし始めたり、もう寝ますと言って奥に消えていったり、あるいはべつのことを考えながらにやにやしたりするのだ。

 オガタさんはそんなぼくの態度をなんとも言えない表情で見ていて、「日本人てこんなにはっきり言わないんだと思ってた」と言った。ぼくはそう言われるのをそのときポジティブに捉えて、余計にはっきりとそういう主張を繰り返したが、本当のところはポジティブな意味ではなかった気が、あとになってからした。

 お父さんがNHKを不機嫌そうに見ていたのも、ぼくの挨拶に微笑みを浮かべたのも、実際には後悔じみた思いを抱えて、恐る恐る起きてきたぼくの目にそう映っただけなのかもしれない。お父さんは昨夜のことなど気にもしていないような感じだったが、昨日は議論が白熱しましたね、などと言えないぼくはけっきょく何も聞けずに、北朝鮮がミサイルを発射したとかするかもしれないとかいう、その日のニュースを見ながらごはんを食べた。

 

 そんなオガタさん一家が車を頼んでくれたのだった。お礼を言い、お別れの挨拶をし、2時間くらい車の移動。ぼくは途中から寝てしまって、運転手に起こされるともうオキナワ移住地に着いていた。2時間くらい経っていた。だから移住地の入口にあるはずの、「めんそ〜れオキナワへ」の看板や、そこに着くまでの風景の移り変わりを見逃してしまった。寝起きの目に入ってきた町の第一印象は、なんだか埃っぽいところという感じ。一本道にぽつぽつと店や建物があって、道も建物も茶色化灰色という感じで、サンファンに比べて、ローカル感というか、荒っぽさみたいなものを強く感じた。

 サンタクルスのSさんが話を通しておいてくれたという、オキナワ日ボ協会の事務局へ行った。そこは、日本にもよくあるような、新しいように思えて、年季も入っているふうにも見えるという公共施設らしい建物で、玄関口を入ってすぐ横に事務所があった。ぼくは事務所の窓口に向かって、誰に言うでもなく「すみません」と声をかけた。中には市役所のようにデスクが並べられていて、たくさんの書類が置かれていた。職員は3人くらいしかいないようだった。

 40代後半という感じの少し小太りの男性のAさんが出てきて、「ああ、なんか取材したいとかいうのですよね。聞いてますよ」とけっこう素っ気ない感じだった。なんだか意外に思った。ぼくはそのとき、オキナワ移住地であるから、沖縄人の血を引き、沖縄の名字を持つぼくは歓迎されるはずだと信じていた。だから、Sさんが話を通してくれると言ったときも、事前にアポなんか取らなくても、きっとすぐに誰かしらが興味を持ってくれるから心配ないと思っていた。当然、誰かしらが泊めてくれるだろうと期待して、宿も決めていなかった。そして、それが本当にただの傲慢だったことに気づくのは、少しあとのことだったのだ。

 Aさんに、「もう30分くらいしたら昼休憩に入りますので、ちょっとお待ちいただけますか?」と言われて、もっと距離の近いフレンドリーな対応を期待してたんだけどなあ、と思いながらそれを了承した。

 彼を待つ間、隣の建物にあった移住資料館を見学することにした。そこには、オキナワ移住地の設立された経緯や入植当時の写真、移住時に持ち込んだトランクや農具などが展示されていたが、ざっと見て回ったあと、資料として置かれていた『ボリビアの大地に生きる沖縄移民』というコロニア・オキナワ入植50周年記念誌を、なんとなくめくってみた。その本は分厚く、表紙には出発する直前の移民船の甲板に立ち、紙テープを持つ人たちと、それを見送る人たちが写った写真が使われていた。見送る人の中には日の丸を振る人も写っていた。

 本の冒頭には、何人かの祝辞が載っていた――ボリビア共和国大統領(現在はボリビア多民族国が正式名称)、オキナワのあるサンタクルス県知事、在ボリビア日本国特命全権大使、沖縄県知事、それから在ボリビア米国大使の祝辞も掲載されていた(すべて当時)。太平洋戦争後のアメリカ統治時代に、オキナワ移住地は設立され、その設立過程において、琉球列島米国民政府(アメリカ民政府)やアメリカ合衆国政府が関わっている。

 戦前、すでにボリビアに住んでいた沖縄出身の移住者たちは、地上戦が行なわれたために約94,000人の民間人が亡くなってしまったという沖縄の状況を憂い、救援会を立ち上げ、沖縄人をボリビアに受け入れる準備を始めた。彼らは新たな移民を受け入れるための農業組合を組織し、移住地の候補も選定した。一方、本島の14%を軍用地としてアメリカに押さえられ、日本本土や外地に住んでいた沖縄出身者たちが大量に引き揚げてきたこともあって、土地も食料も不足しており、その状況を解決したい琉球政府(住民自治政府だがアメリカ民政府が指揮監督した)は、このボリビアへの沖縄人受け入れの提案を具体化させることにした。また、アメリカはアメリカで、ラテンアメリカへの影響力低下を懸念し、当時のボリビアの独裁政権を共産主義への防波堤として利用しようと考えたことや、有色人種である沖縄人移民をアメリカ本土に受け入れないようにしたいと考えたことなどもあって、沖縄人のボリビア移住に積極的に関与したということである。

 そうして、19548月に「うるま移住地」に第一次移民が入植した。「うるま」とは沖縄(琉球)の美称である。それが途中で、いまの「オキナワ移住地」に名称変更したのかと思ったらそうではなかった。

 うるま移住地に入植が始まってからわずか2ヶ月半ほどで、移住地内に伝染病(うるま病)が蔓延し始め、移住者約400人から死者が15人も出てしまい、罹った人は140人を越えたという。そのため、1954年の12月には移住者たちの総会において、うるま移住地は放棄、新たな移住地への再入植することが決定された。そうして、第一陣の入植から1年もしないうちに、うるま移住地から130キロ離れた「パロメティヤ移住地」へ全住民が移動することになった。

 ぼくは展示室のほうに戻って、さっきはやり過ごした写真を見直した。そこには、野外で総会を行なっているところや牛車に乗って移動する人々、パロメティヤへ向かう道が雨に降られてボコボコになっている様子、移動が完了し祝賀会を行なっている写真などがあった。しかしながら、住民たちはパロメティヤ移住地にも1年ほどしかいられなかったのである。なぜなら、そこでは、移住地周辺の地主の反発があり、また土地も小さく、これからもやって来る移住者たちに割り振ることのできる土地が不足していたからだった。そうして、ボリビア内で2回の大移動のすえに、彼らがたどり着いたのがいまのオキナワ移住地(第一)である。

 資料館には、うるま病の調査カルテも展示してあった。添えられた説明文には、「この伝染病は発症してから三日目には必ず死亡し、四日目まで耐えぬけた人は必ず助かると言われた。」とあった。カルテには名前と年齢が書かれ、戦前どこに住んでいたか(沖縄、日本本土、南洋諸島、フィリピンなど)、発病前になにかに噛まれたか(蚊やハエなど)、何を食べたか(刺身や獣など)、発病の日付、場所、症状、嗜好品の有無(酒やタバコの量など)が記されていた。そして「死亡」と書かれたカルテもいくつかあった。

 

 

(19・了)

 

次回:2019年4月22日(月)掲載