ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2021.3.2

30単行本『越えていく人——南米、日系の若者たちをたずねて』間もなく刊行!

 

 南米アルゼンチンに長期滞在していた2017年に各地を旅取材し、「ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ」というやたらと長いタイトルの連載を「あき地」でさせてもらって2年、それから10ヶ月かけて大幅な加筆修正をして、ようやく本が出ることになりました。旅取材を出発してから実に、3年と9ヶ月も経ってしまいました……!

 

先ほど、見本が出来上がってきました

巻頭の口絵ページ

装丁は大原由衣さんの手によるものです

 

 いま、当時のことを思い出そうとして、アルゼンチン滞在中の2017年4月に書いた企画書を読み返してみました。

 そこには以下のようなことが書かれていました。

 

 (略)自分が何人であるのか、ということを考えると同時に、多くの日本人たちが自分たちの国の移民の歴史や日系人という存在にたいしていかに無知であるのか、ということも思い知らされることになりました。たとえば現在アルゼンチンに滞在中で、多くの日本人旅行者にも会いますが、わたしの顔や出生地の話、および日系人の親を持つという話をすると、外国滞在の長短にかかわらず彼らのほとんどは、外国人の血が入っているのかどうかについて質問をしてきます。このことから考えられるのは、彼らは日系人という存在をいわゆる「ハーフ」というイメージで漠然と考えているということが言えるのだと思います。

 いっぽうで日系人を、あくまで日本人と見る向きも存在します。たとえば南米諸国の多くは親日国家とされています。それは日系移民の献身が現地で評価されていることによると言えるのですが、このようなことが昨今のテレビや政治などで、そのまま「日本人の評価が高い」とか「日本人の勤勉さの賜物」といったような受け止め方をされているとわたしは感じています(同時に、日本生まれ、日本育ちの韓国籍中国籍の人たちや、いわゆる一般的な日本人とは見た目が異なる日本国籍保持者を外国人とみなすような人々の傾向も市井にあふれています)。

 以上のことから、日本において、文化や血筋による「日本人」や「日系人」の区分けや捉え方は二重基準になっている、とわたしは考えています。

 

 これは、自分が日本社会で生きていく中で、重要なトピックであり、テーマでした。「日系人」と言っても、実際には実にさまざまな人がいますし、住む土地や国、移住した時期によってもその有り様はまったく異なります。そういうことを、もっと日本で暮らす人々に知ってもらいたいと思っていました。各地に存在する移住地に暮らす日系人たちは日常的に日本語を使っていますし、反対に移住してから時間も過ぎ、世代が重なり、すでに日本語を話さなくなっている人たちも多くいます。

 

 たとえ日本語がしゃべられなくなっても、生活の一部、考え方の一部に日本文化が残っていたり、それを独自に発展させてきたり、とそのようなことを目の当たりにすることで、文化や言語とはなにか、といったことを考えるきっかけにもなりました。

(中略)

 日本かどうか、日本人かどうかをやたらと気にするようになってしまった日本社会にとって、こういうひとくくりにできない複雑さはいま潜在的に求められるものではないでしょうか。

 上記のように日系人といってもさまざまな人たちがいるので、統計をとるとか傾向をつかむとか、最近のわたしはそういうことに興味は持っていません。むしろできれば、できるだけそういうところから離れて、ひとくくりにされてしまいがちな「日系人」という存在の多様さを見ていきたいと思います。

 わたしと同年代、30代前後の日系移民を先祖に持つ人々の生活に密着し、彼ら彼女らがどんな生活を送り、どんな仕事をしているのか、また自分の住む国や日本という存在をどう感じているのか、国という概念のことや世界のこと、それから未来将来のことをどう見ているのか、を聞いて話し合ってみたいと思います。そのため、できるだけ多くの人、できるだけ多くの地域や環境に生きる人を対象におこなえればいいと考えています。

 

 改めて企画書を読んで、これを書いたのは用事があってアルゼンチンの隣国パラグアイに来ているときだったと思い出しました。 そのときわたしは、パラグアイのとある日系の家庭の、バーベキュー(アサード)パーティに招待してもらったのですが、そこで肉を焼く、自分と同年代の男性たちの会話に入ることができませんでした(彼らは主に日本語で話していたので、言語的問題というより自分のシャイさの問題でしたが)。そしてそのとき、それまで日系の方とお会いすることがあっても、それは年配の方々であって、同年代、あるいはもっと若い世代の人たちと話したことがほとんどなかった、ということに気づいたのです。  年配の方々から移住の歴史を聞くことはできても、「これからの」人たちと話したことがない、とアサードパーティで肉をつまみ、いただいたビールを飲みながら漠然と思っていたところ、この本の中にも出てくる、ペルーで数年前に行った沖縄祭りのことが思い出されたのでした。くわしくは本書に譲りますが、沖縄祭りでは自分と同年代の日系人たちが多く集まり、大規模なイベントとしての祭りを行っているところを目撃し、自分もこの中にいたかもしれないという可能性を考えたのです。そうしたことから、若い世代の話を聞いてみようと思いました。

 あのときのアサードパーティもそうですが、人見知りでめんどくさい性格の、自分のような人間をすんなりと受け入れ、いろいろ話を聞かせてくれた人たちのおかげで、とてもおもしろい本ができたと思います(そして辛抱強くつきあってくれた編集の田中さんのおかげでもあります)。

 多くのみなさんにこの本を読んでもらい、地球の反対側に暮らす人々のことに想像を巡らせてもらいたいと思っています! そしてそのことは、自分たちが暮らすこの日本社会を新たな視点から考えるものになると信じています。

 

◯書誌詳細◯

日系移民の子孫たちの言葉から浮かび上がる、
もう一つの日本近代史

『越えていく人――南米、日系の若者たちをたずねて』

推薦

移民たちはみな未知なる世界へと旅に出たが
それは〝同一性・帰属意識〞を探求する旅でもあった
だが彼らは帰る場所を探しているわけではない
陽が昇る未来に向かい今も旅を続けているのだ

宮沢和史氏

出会えば出会うほどわからなくなる。それでも少しずつわかっていく。
期待を現実で溶かしていくための、ゆっくりで誠実な旅の記録。

望月優大氏

私もそうだけど、もう誰もかもがじつは日系移民なんだな、
たまたま日本に住み続けてまだ移動してないだけで。
そのあり方は私たちが思っている「日本人」よりはるかに多彩だ。

星野智幸氏

この本を読み進めていて何より実感できたのは、
私たちがどんな国に帰属していようと、どこに移り住もうと、
所詮は誰しも地球という惑星の、逞しき住民ということだ

ヤマザキマリ氏

 

定価:本体1800円+税
四六判、320ページ、並製
亜紀書房・書籍詳細ページ

(了)

 

単行本『越えていく人』は来週3月10日発売です。