ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ニホン、ワカモノ 神里雄大

2019.7.6

22ボリビア(7) 沖縄の人だもん

 

 Aさんの車で、日ボ協会に戻る途中で、「オキナワ第一地域開発振興会」という看板が掲げられた建物に寄った。いま思うと、どこか泊めてくれる人がいたらいいなあと思う、ぼくの様子に気づいていたのかもしれない。建物のなかに入るとすぐ、初老の男性がなにやら作業していて、Aさんが紹介してくれた。顔がやさしい痩せた男性は安里ファウストさんという方で、農具だろうか、機械をいじりながら、「泊まるところはあるの?」と聞いた。ぼくはもったいぶって旅の目的を説明したあと、「泊めていただけるならありがたいです」と言った。Aさんは、「よかったねえ」と言い残して事務所に帰っていった。

 ファウストさんの作業が終わるまでもうすこしかかるということだったので、建物の奥を覗いてみると、体育館のようになっている。おそらくここでなにかイベントがあったり、子どもたちのスポーツ大会みたいなことが開かれたりするに違いないと思った。建物は年季が入っていて埃っぽく、そのときは電気をつけていなかったので、薄暗くちょっとこわいなと思った。外に出て新鮮な空気が吸いたいと思った。

 外に出て、建物の外観を写真に撮った。そのあとでようやく、建物の向かいに鳥居があったことに気づいた。ちょっとびっくりした。オキナワ移住地に来る前に、インターネットで鳥居があることは知っていた気がするが、沖縄に鳥居、という組み合わせがピンと来ていなかったので、無視していたのかもしれないと思う。沖縄では、明治時代の琉球処分以降、政府の皇民化政策が進められた結果、神道に合わせて御嶽(うたき)に鳥居が設置されたらしい。御嶽は、琉球の神がいたり来訪したりする「場」で、神道的「神社」とはそもそも考え方が違うので、太平洋戦争後、沖縄では鳥居が撤去されたケースも多いとか。ということを、ぼくはずっとあとで知ったので、このときには説明できない違和感だけがあった。そういう複雑な歴史があるなか、オキナワ移住地に鳥居があるということは興味深い。どうも、そこで暮らす沖縄系の住民が寄贈したものらしい。ちなみに鳥居の向こう側には広場があって、神社のようなものはなかった。誰もいなかったので、鳥居はぽつんとそこにあった。

 

 

 ファウストさんの車で、彼の家まで連れて行ってもらった。家は開発振興会からすぐのところだったが、青空の下、あまり舗装されていない道を走ると、各ブロックに巨大な家々が一戸ずつ並んでいて驚いた。聞けば、どれも沖縄系の人たちの家だという。資料館でオキナワ移住地の成り立ちを知ったあとに、その景色を見ると、果てしない苦労を経てこのような豪邸が建ち並んでいることには、相応の因果があるというか、当然というか、そんなことを思った。感銘を受けたのだった。

 ファウストさんの家も大きかった。だだっ広い庭のちょうど真ん中に、平家の家が建っている。立派な玄関を通り、部屋に案内してもらった。10畳はあっただろうか。大きなベッドがあって、ここをひとりで使っていいという。「散らかってるけど、気にしないで使っていいから。そういえば何泊するの?」

 ぼくは3泊させてもらいたいことを伝えると、ファウストさんは笑顔で「わかった」と言って、家の奥へ入っていったのだった。それからしばらく荷物を開けたり、ベッドでちょっと横になっていたりしたら、息子の直也さんが仕事から帰ってきた。直也さんは、細身だが筋力のある感じの20代後半らしい精悍な若者で、ファウストさんが彼を泊めることになったから、世話してやってくれと言うと、いつものことと言わんばかりになんでもない顔で、「わかった」と言った。ぼくは旅の目的を伝えると、興味を持ってもらったのかどうかわからないが、オキナワ第一の若者に会いたいと言うなら飲み会でも開くよ、と言ってくれた。

 直也さんへのぼくの第一印象は、寡黙な人だな、という感じで、あまり外に感情を出さないタイプなのかな、というものだった(ただ、この印象については、あとで思い直すことになる)。直也さんはこのとき27歳の3世で、ファウストさんが2世である。ぼくが自己紹介を済ませると、直也さんはキッチンに向かってスープを温めだした。今夜の晩御飯らしい。ぼくが手持ち無沙汰な感じを見てとると、部屋で休んでていいよ、と言う。けれど、ぼくとしてはそうはしたくなく、かといって手伝えることもなく、どんなスープなのかを観察したり、オキナワ移住地の各家庭ではどんなものを食べるのかということを聞いたりした。オキナワ移住地にいくつかあるレストランでは、日本食を出すところもあるが、沖縄料理を出す店はなく、その理由が「家で食べることができるから」らしい。直也さんが温めていたのも、昆布が入った沖縄っぽい出汁のスープだったように思う。テレビで天気予報を見たり、先日のサンタクルスのニュースの続報を見たりしながら、ふたりと世間話をした。ふたりとも沖縄らしいアクセントの語り口でぽつりぽつりという感じでしゃべっていた。

 食べ終わるとファウストさんは作業があるから、と言って再び奥に引っ込んでいった。ぼくと直也さんはビールを飲み、テレビを見ながら会話をした。

 直也さんは、前年に県費の研修生として沖縄に1年ほど滞在していたらしい。26歳の年に滞在し大学に通っていた。ぼくが興味のあったのは、沖縄で彼はどのようにまわりから見られていたということ。これはぼくの経験だが、日本でペルー生まれというとたいてい「ハーフ」なのかとか、血が混ざっているのかとか質問されるが、沖縄では「ああ、親戚の誰かがペルー行ってたなあ」みたいに言われたことが何度かあって、さすがにたくさんの人が移民しただけあって南米移民についての理解が深いというか、ある程度あたりまえのこととして捉えられているんだ、という印象を持っていた。ただぼくは沖縄に住んだことはないし、沖縄の若い人としゃべった経験もさほどなかったので、沖縄の若者たちがどういうふうに直也さんに接したのかは知りたかった。

 「いや、沖縄もいっしょだよ。大学に通ったけど、学生たちはほとんどわかってなかった。移民どうのこうのっていうのをわかる人はほとんどいなかった。『ボリビアから来ました安里です』って言っても、『はあ』みたいな感じだった」

 ぼくは先述の通り、沖縄県ではたいていの人が親戚に移民がいるというふうに思っていたので、これには驚き、落胆もした。

 「だから、こっちはずっと沖縄に憧れを持って、思いを馳せてたのに、沖縄に来たらおれたちのことなんて知らないんだって思った」と、直也さんは、けっして愚痴っぽくはならず、時折笑いながら話してくれた。ぼくは逆にぐずぐずした気分になってきてしまって、自分がペルー生まれであることで生じる、出身に関する説明の面倒くささのこと、「ハーフ」というアイデアは、半分は日本人だが半分日本人と認めてもらっていないような気になることなどを話した。

 直也さんは、沖縄で使われるアクセントの日本語で、こちらの質問をしっかり噛み砕いてからしゃべるという感じで受け答えをしてくれた。

 「たしかに、みんな『ハーフ?』ってよく言うよなあ。俺はいままでちゃんと説明してた。面倒くさかったけど。でも、自分なんかまだいいと思う。自分が行った研修は、毎年あるやつなんだけど、ボリビアだけじゃなくてほかの南米の国でも、沖縄の子弟(出身者)だったら応募できるもので、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、アメリカとかいろんな国の人たちが一緒になったんだけど、ブラジルとかペルーとか、ほとんどが日本語はしゃべれないっていう同世代が多かったから、その人たちはもっとかわいそうだった。『見た目は日本人なのに、なんで日本語しゃべんないの?』とか、『ハーフじゃないんでしょ?』みたいな。」

 直也さんがここで言うところのブラジル人、ペルー人は、おそらくは45世などの、親族皆が日系人であって、「血」は混じっていないが、日本語をしゃべらない、という人たちのことを指すのだと思う。そして、ハーフかどうかというのは、日本人が日本という国にしかいない(生まれない)、という前提でしか成り立たないのではないかと思う。だから、違う文化を持つ「日系人」を日本人と見ることができないし、また同時に日本に育った外国の「血」が入る人たちを日本人として見ることもできない。

 

 

「訛りのことも自分でも自覚してるんだけど、ガッツリ沖縄の訛りだから、沖縄行って、紹介してもらってしゃべりだしたら、『あ、沖縄のそこらへんにいそう』って言われる。いやいや、だって沖縄の人だもん、みたいな。あとは、『沖縄にいてもわからないよ』とか」

 これは知らず知らずのうちに、ぼくもやっていたことだと思う。日系移住地で出会った人に、『日本にいる人と変わらないですね』と言ったことがあるはずだ。そして、見た目が「日本人ぽくない」ネイティブの日本語を話す人に、『日本語うまいですね』とかも。本人は褒めているつもりだけど、こうやって考えてみると、本当に褒めていることになるかどうかは疑問だ。

 「ボリビアとか海外の沖縄の人たちは、沖縄のことを強く想ってるから。それは沖縄に住む沖縄の人たちより強いんじゃないかな。たとえば、沖縄の人たちより三線が弾けたり、ウチーナーグチをもっとできたりとか。文化に対して興味が強いから。南米にいる沖縄出身者のなかで日本語を流暢に話すのって、ボリビア(つまりオキナワ移住地)だけだと思う。だから、自分は、そういう意味で自信を持って沖縄に行ったんだけど、でも、たとえば同じ研修生のブラジルの子は、三線とか民謡とか、すごいできるの。アルゼンチンにもそういう子いた。そういう面ではボリビアは遅れてんなーって思った。日本語の自信はあったけど、伝統芸能的なものとか、文化を継承していこうっていう動きは他の(南米の)国は進んでんだなーって思ったよ。若者がそういう沖縄の文化を受け継いでいかなきゃ、っていう意識に関しては、そういう(ブラジルやペルー、アルゼンチンなど、日本語を「流暢に」しゃべらない)国のほうが強いかもって思った」

 ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアに住む日系人のなかで、沖縄出身者が占める割合は高い。ただ、いわゆる沖縄県系人だけが住む日系移住地は、ここオキナワ移住地だけである。サンファン移住地やパラグアイの移住地のように、ここでは言葉がしっかりと受け継がれている。直也さんの問題意識に、パラグアイ、ラパス移住地の安藤さんの言っていたことを思い出した。

 「オキナワ移住地も、昔にくらべてどんどん現地化していってると思う。俺らの世代ですら、後輩たちが日本語しゃべれなくなっていってるの見て、『あぁこうなっていくのかぁ』って思う。自分たちがまだ、そういう伝統芸能とかにそこまで興味示さないのも、やってないのも、いま日本語ができてて、まわりで誰かやってるから大丈夫、みたいな余裕があるからなんだろうなって。でも、たとえばブラジルとか同じ世代でも、4世、5世だけど、この世代の上でもういったん、日本語も伝統芸能はブラジルではなくなったから、いまからがんばるぞっていう段階に入ってるんだなって思った」

 

 

(22・了)

 

次回:2019年7月11日(木)掲載