「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2020.7.31

15起源の誘惑——フロイトとソクラテス

 

 前回まで、三回にわたって「狼男」の症例を扱ってきた。そこから引き出されたのは、「事後性」という特異な時間構造である。ある出来事に対するリアクションやその効果が、ずっとあとになってはじめて表れる。この構造は、個人の症状の意味をひとつの歴史のなかでとらえようとする精神分析にとってつねに本質的である。このことは、精神分析についてマクロな視点から考えてみる場合にもあてはまる。つまり、精神分析そのものの歴史を語るうえでも、事後性の論理は絶えず働いている、ということだ。
 フロイトは精神分析がひとつの「運動」であるということを強調した。ひとりまたひとりと精神分析家が育成され、やがて組織が作られ、それぞれが独自の臨床を行い、そこから新たな理論が生み出される。運動が展開してゆくにつれて、精神分析は次第にフロイト個人の手を離れ、ウィーンからチューリッヒ、さらにはベルリンやロンドンへと拡がっていった。しかし、だからこそ、フロイトはこの運動に確かな指針を与えるべく歴史を語ることに注力したのだ。
 なかでも、精神分析の起源という問題は、この実践の本質を考えるうえで重大である。ここまで繰り返し述べてきたように、分析実践の根幹には分析家と患者の親密な二者関係をベースとした転移という現象がある。フロイトは「精神分析運動史のために」(1914年)のなかで、ヒステリー治療の先輩格であるヨーゼフ・ブロイアーとその患者の関係に、転移の先駆的なモデルを見いだしている[1]。つまり、転移の現れこそが精神分析の出発点であるとみなすならば、ブロイアーこそ、フロイトに先立ってこの現れに立ち会った最初の当事者だったことになる。
 ここでフロイトが引き合いに出すのは、フロイトとブロイアーの共著『ヒステリー研究』(1895年)で取り上げられた「アンナ・O」(本名はベルタ・パッペンハイム)の症例である。彼女は、ブロイアーの報告で、症状を呼び起こした出来事の記憶を物語ることによって、ヒステリー性の言語障害や知覚異常といった症状が解消された成功例として最初に提示されている。この経験がのちに——分析家が患者に対していかなる「暗示」も行使しないという新たな条件のもとで—自由連想という技法へと引き継がれる。まさに精神分析の誕生を象徴する名高い症例だ。
 ただし、ブロイアーは彼女の転移をうまく治療に活かすことができたわけではなかった。反対に、フロイトの考えでは、彼女から向けられた熱烈な恋愛感情を症状とみなす視座を欠いたために、ブロイアーの治療は真の精神分析になり損なった。つまり転移性恋愛(本連載09を参照)による治療の中断の一例に留まったというわけだ。
 かくして、精神分析の正史で記念碑的な位置を占めるこの症例には、抜きがたく挫折の影がつきまとっている。それだけではない。フロイトが幾人かの弟子に私的に語ったところによると、ある夜、パッペンハイムはブロイアーを往診に呼んで腹部の痙攣を訴え、「あなたの子どもが産まれる!」と迫った。この想像妊娠を前にブロイアーは驚愕し、なんとかその場をやり過ごして、彼女が自分と妻の関係に危機をもたらすことに恐れをなし、急遽二度目のハネムーンへと旅立ったらしい。このスキャンダラスな逸話をフロイトの高弟アーネスト・ジョーンズが公にしたことをひとつの転機として、ブロイアーの症例報告は疑惑の渦に呑み込まれることになる。
 ただし、フロイトとブロイアーの関係は『ヒステリー研究』の出版を待たずして悪化し、以後ふたりの交流は途絶えてしまったから、この一件にかんするブロイアー自身の証言は、もっぱらフロイトの回想をつうじて伝えられているにすぎない。ましてや、フロイトからの伝聞というかたちで後世の者たちが語る言葉には、多かれ少なかれ歪曲されたゴシップめいたものも含まれている(実際、新たな資料の発見によってジョーンズの記述にはいくつか事実誤認があることがはっきりしている)。覆いを取り去って秘密を明るみに出そうとする語りそのものが新たな覆いとなり、秘密はいっそう魅惑的になって、さらなる語りを誘いだすかのようだ。

 ***

  したがって、精神分析の始まりを告げるこの一幕は、ひとつの「神話」として、事実か否かの判断を保留して受け取らなければならない。だが、重要なのは、フロイトその人にとっては、それはまぎれもない真実だったということである。フロイトが「精神分析とは何か」を示すために、さらには精神分析の創設者としてみずからを位置づけるために、この神話はぜひとも必要だったのだ。もしかしたらそれは、ブロイアーという権威からフロイトが真に自立するための物語だったのかもしれない。
 精神分析運動の最終責任者として比類なき地位を築きつつあったフロイトは、あくまでも事後的に、かつての師であり、理解ある友人だったブロイアーとの別れという苦い経験を消化し、その意味を理解した——たんなる同業者同士の諍いなどではなく、精神分析の本質と深く結びついた必然的な出来事として。これは、自分が身を投じている実践を、想像妊娠=転移から生まれた認知されざる子とみなすことに等しい。
 ブロイアーとフロイトを分かつ理論的な争点は、ヒステリーに性的病因(抑圧された性的欲望がもたらす葛藤)を認めるか否かということだった。想像妊娠の物語は、フロイトにとって、ヒステリーには性という厄介な魔物が潜んでいること、そしてブロイアーがその魔物から目を背けたことを完璧に証言している。この物語をつうじてフロイトが主張していることは明白である——ブロイアーは性という魔物を呼び出しておきながら、それと正面から向き合おうとはしなかった。それに対して自分はこの魔物と対峙し続ける道を選んだ、その道こそが精神分析なのだ…。
 このようにしてブロイアーとのすれ違いに重要な意味を与え直したフロイトだが、「精神分析運動の歴史のために」ではさらに興味深いことを述べてもいる。

 ひとを刺激して異議を唱えられたり、ひとを激怒させたりするのは、精神分析の避けられない運命である。そう承知しているので、私はみずから、精神分析を際立たせているものすべてについて、自分がその真の創始者であるという結論を引き出した。[2]

 フロイトの考えでは、精神分析は社会との軋轢からいつまでも自由になれない。なぜなら、人々が見ないようにしている不快な事実(抑圧されたもの)を明るみに出す作業が、精神分析には不可欠だからだ(ブロイアーが認めなかった性の問題はこうした不快な事実の筆頭である)。したがって、人々に易々と受け入れられるようになったら、それはもはや精神分析ではない。そして、この軋轢がもっぱらフロイトその人への非難というかたちで現れていることが、彼こそがこの実践の創設者であると告げている。皮肉と矜恃がぴたりと重なり合ったこの一節の直前で、フロイトはわざわざ、精神分析の発明にかかわったことでブロイアーを非難する声は実際聞いたことがない、と書いている。
 ところで、「精神分析の避けられない運命」というといかにも大袈裟に思われるかもしれないが、ラカンはこれとほとんど同じことを、もっとこざっぱりとした、そして意外な言葉で表現している。「健全な(salubre)」という形容詞だ。これは一般的には「害のない」とか「健康によい」といった意味で使われるが、ラカンはおそらく「救済(salut)」という言葉との繋がりが喚起する宗教的なニュアンスを意識している。以下は、1960 – 1961年のセミネール『転移』の初回での発言である。

 「健全」ということがフロイト的経験では何を意味するのか、はっきり言わせてもらおう。それは解放され〔=救われ〕ているということ、汚染から可能なかぎり解放されているということだ。この汚染とは、われわれの見るところ——われわれだけでなく、倫理的熟慮に開かれた目にはつねにそう見えているということだが——、社会のいっさいの既成秩序がそのまま溜め込まれた奥底のことである。[3]

  ラカンがいわんとしているのは、精神分析の倫理は、社会的な「善」とはまったく無関係だということである。善は既成秩序に相関する価値にすぎない。むしろ、精神分析はそこから可能なかぎり自由にならなければいけない。もちろん、既存の体制を「汚染」とみなすこの極限的な立場は、ひとを安らかな日常から引き離さずにはいない。ラカンはこの立場こそがフロイトを「死の欲動」(快原理の彼岸にある、死へと向かう根源的な傾向)の発見へと導いたという。だが、ここで引き合いに出されるのは、土壇場でロンドンに亡命してナチス体制の惨禍を切り抜け、自由の身で死ぬという願いを叶えたフロイト以上に、死の欲動がもたらす運命をその身をもって演じているような別の人物である。既成秩序のなかの異物であり続ける務めを背負うのは精神分析家ばかりではない。哲学の祖ソクラテスもまた、この務めに殉じたというのだ。

 ***

 「ソクラテスは、ポリスの信じる神々を信じず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のごときものを持ち込んでいるがゆえに、また、若者を堕落させているがゆえに、不正を犯している」。これが、名高いソクラテス裁判で争われた罪状である。ラカンの考えでは、ソクラテスは並外れた「健全さ」のゆえに死刑になったのだが、ここに驚くべきことは何もない。ソクラテスは「前もって決められた時間に、万人の同意のもとで、万人の善のために、現実の死を科された」のであり、「この運命を異様なものではなく必然的なものとみなしてもやり過ぎなところは何もないように思われる」[4]
 ソクラテス告訴の大義名分は不敬神という罪だが、彼が「万人の善のために死すべき」とみなされることになった本質的な要因は、すっとぼけた態度で議論をふっかけ、いかがわしい知識を吹聴して若者たちを堕落させている、という疑惑のほうだ。ソクラテスは、この疑惑は自分を「知者(ソフォス)」とみなして中傷する人たちの偏見に由来するものだと弁明する。それゆえこの偏見を突き崩すことが弁明のポイントとなるわけだが、そこでソクラテスは、「自分は知らない」という「不知の自覚」こそが哲学者としての自分の営みを動機づけていることを語る[5]
 そもそも、ソクラテスはなぜ人々を巻き込んで哲学に身を投じることになったのか。発端は、ソクラテスの弟子カイレフォンが、絶世の美男子として知られる神アポロンが祀られたデルフォイの神殿で神託を受け取ったことだった。カイレフォンは神殿で「ソクラテスよりも知恵のある者が存在するか」を問い、巫女をつうじて「そのような者はいない」という返答を受け取る。ソクラテスは、この出来事が「ソクラテスは知恵を弄して若者を堕落させている」という中傷の源であることを示しつつ、事実はその真逆であると訴える。彼はこの神託を聞いて次のように考えたという。

「神はいったい何をおっしゃっているのだろう。何の謎かけをしておられるのだろう。私は、知恵ある者であるとは、自分で少しも意識していないのだから。神は、私がもっとも知恵ある者だと主張されることで、一体何を言われているのか。まさか、嘘をつかれるはずがない。それは神の掟に適わないことなのだから」(『ソクラテスの弁明』21B)[6]

 神託はここで、答えではなくむしろひとつの問いである。ここで「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」というラカンのテーゼを思い出すならば、ソクラテスは、デルフォイの神託を神という〈他者〉の欲望の謎として受け取ったといってもよいだろう。この謎に取り憑かれるようにして、ソクラテスは哲学者としての欲望に目覚めた。自分が知恵のある者であるとは少しも思っていなかった彼は、〈他者〉の欲望の謎を解くために、自分よりも知恵のある者を探し出して神託を論駁しようと考える。こうしてソクラテスは、政治家や詩人、職人などを訪ねては彼らの知恵を吟味していくが、先々でいつも同じひとつの事実に突き当たることになった。
 政治家は人々から知恵のあるものとみなされているし、自分自身でもそう思っているが、実際にはそうではない。少なくとも本人が思っているほどの知恵を持ってはいなかった。また詩人は、素晴らしい作品を創りはしても、自分の作品の意味や価値について十分に知っているわけではない。なぜなら彼らは神託を受け取る巫女のように、その内容を知らないまま、重要なことを語る才能を持っているからだ。それにもかかわらず、彼らはその才能ゆえに、自分が誰よりも知恵のある者だと思い込んでしまう。職人にしても、その優れた技術ゆえに、自分が本当には知らないことまで知った気になっていることがわかった。
 自分が知らないことについて、「自分は知らない」と考えるか、「知っている」と思い込むか。ひとえにこの一点で、ソクラテスには一日の長がある。政治家や詩人や職人がそうであるように、何かに秀でている人間ほど自惚れの罠にかかってしまい、本当には自分を知らない。ラカンが好んだ言い回しを借りるならば、自分を知ること(me connaître)は見誤ること(méconnaître)と表裏一体である。神託がいわんとしていたのは、ソクラテスはこの自己誤認(méconnaissance)を免れているということだった。哲学者は、やはり事後的に、〈他者〉の言葉のなかにみずからのアイデンティティを見いだしたのだ。
 この話がソクラテスの不敬神という罪状への反駁ともなっていることはいうまでもない。ソクラテスを毛嫌いするアテナイの人々は、彼が背負っている神の意志を、それが人間社会の既成秩序に対する異物であるがゆえに、悪とみなしていたことになる。ソクラテス自身、このことをよくわかっている。実際、ソクラテスは対話相手にくだんの自己誤認を示そうと努めて憎まれてしまったのだと述べている。それどころか、最初の弁明を終えて、ソクラテスはこんなふうに訴えかける。

アテナイの皆さん、今まで述べてきたことが真実であり、皆さんに少しも隠し立てせず、ためらうことなくお話ししています。しかしながら私は、まさにこのこと、つまり真実を話すということで憎まれているのだということを、よく知っています。そして私が憎まれているというまさにそのことが、私が真実を語っている証拠でもあり、そして、私への中傷とはまさにこういうもので、これが告発の原因であるということの証拠でもあるのです。(『ソクラテスの弁明』24A)

 躊躇わずに真実を語り、示そうとし続けることは、ソクラテスにとって譲歩の余地のない神命であるが、まさにそれゆえに彼は憎まれ、事態は裁判にまで発展した。しかも、この裁判においても彼は相変わらず真実を述べているがゆえに、居並ぶ裁判員たちの憎悪をますますかき立てることになる。このソクラテスの言葉は、それが発される場の状況そのものであり、目下の裁判を、これまで自分が受けてきた扱いにかんする彼の証言の完璧な再現へと作り変えてしまう。
『ソクラテスの弁明』はプラトンによる創作を含んでいるから、この見事な構成はプラトンの文才に帰せられるべきかもしれない。だが、ちょうどフロイトにとってパッペンハイムの想像妊娠のエピソードがそうであるように、プラトンにとってはここで描かれたソクラテスの姿こそが、哲学のはじまりを物語る真実だったといってよい[7]。つまりこれは、事後的に起源の位置に置かれた神話である。こうしたことを踏まえたうえで強調しておきたいのは、この一節が、先に触れた「ひとを刺激して異議を唱えられたり、ひとを激怒させたりするのは、精神分析の避けられない運命である」というフロイトの言葉と響き合ってみえることだ。
 重要なのは、人々に嫌悪されるこうした姿勢こそが、若者たちがソクラテスに魅了された理由でもあったということである。ソクラテスの真理への情熱は、激烈な愛憎を呼び起こし、その最終的な帰結が死刑だった。ラカンはここに、ソクラテスがフロイトと共有している秘密を見いだす。ラカンの考えでは、ソクラテスに向けられた愛憎は、パッペンハイムがブロイアーに向けた愛憎、フロイトが看破し、みずからの実践の核とした転移性の愛憎と同じものである。哲学の起源には、ソクラテスへの転移が、あるいはそこに渦巻く性的欲望がある。ソクラテスの場合、この欲望は「少年愛」という独特の親密さのなかで展開された。次回からは、この展開を具体的にみていくことにしよう。

[1] Sigmund Freud, » Zur Geschichte der psychoanalytischen Bewegung « (1914), in: Gesammelte Werke, Bd. 10, Fischer, 1991, S.49-50.
[2] Ebd., S. 45.
[3] Jacques Lacan, Le séminaire livre VIII, Le transfert (1960-1961), 1991/2001, Seuil, p. 15.
[4] Ibid., p. 19.
[5] 日本ではソクラテス思想のスローガンとして「無知の知」という表現が定着しているが、近年の研究ではこれが誤りであると指摘されている。ソクラテスの振る舞いはάγνοια(不知、知らないということ)の自覚を核としており、この自覚をいわばメタ・レベルの「知」とみなすことはできない。また、こうした自覚が欠如した状態こそが「無知」と呼ばれるが、プラトンはこれにαμάθειαという語を当てており、「不知」に当たるうえのάγνοιαとは区別される。以下を参照。納富信留「「無知の知」を退けて——日本に渡ったソクラテス」、『哲学の誕生——ソクラテスとは何者か』、ちくま学芸文庫、二〇一七年、二六五 – 三一六頁。
[6] 以下、『ソクラテスの弁明』からの引用については以下の邦訳に準拠する。プラトン『ソクラテスの弁明』、納富信留訳、光文社古典新訳文庫、二〇一二年。
[7] 例えば納富による次の指摘を参照。「『弁明』は、ソクラテス死後に起こった論争の中で、彼のメッセージを人々に訴えかける著者プラトン自身の解釈である。そこでは基本的に、史実の記録や再現は意図されておらず、ソクラテス批判者たちや他のソクラテス文学の著者たちに向けた、言論に対する言論での対抗が目論まれている。この作品は、何よりもまずそのような創作(フィクション)として了解されなければ、そこに込められた真のメッセージは読み解けない。」(納富信留『哲学の誕生——ソクラテスとは何者か』、前掲書、一八二頁)

 

次回は2020年8月31日ごろ更新