「いま」と出会い直すための精神分析講義 工藤顕太

2021.9.8

21理想の物語に別れを告げる——精神分析家の欲望とは何か(2)

 

 アルキビアデスの誘惑の意味は、彼がその圧倒的な美貌で多くのひとを惹きつけ、幾度も相手をはねつけてきた過去を持つ、ということを踏まえてとらえなくてはならない。その奔放さも相俟って人々を動かす才覚に恵まれたアルキビアデスにとって、ソクラテスへのアプローチは感情的な「暴走」の類ではなく、それなりに勝算のある計略だったといえる。
 だからこそ、この試みが失敗に終わったことは、アルキビアデスの心に深い衝撃を与えた。その夜ふたりのあいだには何も起こらなかったと明かしたあとで、アルキビアデスは次のように続けている。

さて、みなさんは、そのあとぼくが何を考えたと思いますか? たしかにぼくは、一方では、自分が侮辱されたと考えた。しかし、また他方では、この人の素質と節度と勇気に驚嘆の念を抱いたのだ。そして、ぼくが出会えるとは思ってもいなかったような、思慮と忍耐力の持ち主に出会ったのだと考えた。その結果、ぼくは腹を立てることも、この人から離れることもできなくなった。[1]

 アルキビアデスがソクラテスに対して抱き続ける激しいアンビヴァレンツの根には、この誘惑の失敗という経験がある。この挫折はアルキビアデスに、ソクラテスの備える美徳をまざまざと見せつけるとともに、この哲学者が他の人たちとはちがって決して自分の思いどおりにはならない、ということを思い知らせたのだ。
 じつはこの点、すなわちアルキビアデスがみずからのセックスアピールを総動員してソクラテスを精神的に征服しようと試み、結果的には返り討ちに遭って深手を負ってしまったという点は、ラカンの『饗宴』読解のなかでも大きなウェイトを占める。アルキビアデスの一連の暴露について、ラカンは次のように述べている。

いったい何が、法廷を前にしたアルキビアデスの告白に価値を与えているのか? それは、アルキビアデスが、ソクラテスを主体と主体の関係のそれとは異なる価値に完全に従属させ、服従させようとしたと報告したことである。アルキビアデスはソクラテスと差し向かいになって誘惑の試みを顕示し、このうえなく公然と、ソクラテスを何らかの道具にしようと望んだのだ。それはいったい何に服従する道具だろうか? アルキビアデスにおける欲望の対象、アガルマという良い対象に、である。[2]

  一点確認しておけば、「法廷」というのは饗宴に参加している面々のことであり、これはアルキビデアデスが彼らに「陪審員のみなさん!」と呼びかけながら話したことを受けている。アルキビアデスは「みなさんは、ソクラテスの傲慢を裁く陪審員なのだ」[3]とは捲し立てたのだ。
 ラカンによれば、アルキビアデスが望んだのは、ソクラテスをみずからの道具とすることである。なるほどアルキビアデスは、ソクラテスに他の誰にもない特別な価値を認めている。だが、それはアルキビアデスがソクラテスという対象を欲望していることを意味しない。言い換えれば、アルキビアデスの欲望の対象である光り輝くアガルマと、ソクラテスという存在それ自体とは別物である、ということだ。アルキビアデスはもっぱらアガルマに到達するための手段としてソクラテスを愛しており、その意味でソクラテスは手段とみなされている。
 ここにも、愛の根底にある欲望を掘り起こすという精神分析独自の視座を見てとれる。繰り返しになるが、精神分析が目指すのは主体が自身の欲望を発見するよう促すことである。アルキビアデスのケースにおいてそれは、ソクラテスに対する愛が彼のどんな欲望に根差しているのか、これを浮き彫りにすることに尽きる。
 もっとも、アルキビアデスがソクラテスを服従させようとしていることと、当のアルキビアデスによってソクラテスがどこまでも理想化され、その価値が高められていることとはまったく矛盾しない。実際、アルキビアデスの恨みがましい語りはソクラテスへの賛辞であふれている。本人が告白しているとおり、誘惑が見事に失敗し侮辱されたと感じているそのときにさえ、アルキビアデスはソクラテスをあらゆる徳を体現する感嘆すべき人物とみなしている。この逆説を抜きにしては、アルキビアデスの愛を本質はとらえられないのだ。

***

 興味深いことに、アルキビアデスの自尊心は、あたかもソクラテスへの心酔の度合いに反比例するかのように低下しているようにみえる。「侮辱された」と繰り返す彼の被害者意識も、こうした自尊心の低下の表現にほかならない。
 不幸な恋愛にしばしばみられるこのシーソーゲームのような現象は、フロイトの目にもしかと留まっていた。例えば、「集団心理学と自我分析」(1921年)のなかでフロイトは、「惚れ込み(Verliebtheit)」、すなわち恋愛対象の理想化(過大評価)という事態について、次のように述べている。 

直接的な性的満足へと駆り立てられた欲求は、例えば青年の熱烈な恋愛において決まってそうであるように、いまやすっかり抑え込まれうるものとなる。こういう場合、自我のほうはどんどん要求が少なく控えめに、対象のほうはどんどん尊大で高価なものとなっていくのだ。ついには、対象が自我の自己愛を丸ごと占有するに至り、自我の自己犠牲がその当然の帰結となってしまうほどである。こうして、対象は自我を消尽してしまうのだ。[4]

 性的経験に免疫のない男子が恋に落ち、まるで女神か何かと出会ってしまったかのように頭が麻痺する場合などを思い浮かべてみれば、ここでのフロイトの洞察はよく理解できるはずだ。こういうケースでは、相手は現実という名の重力圏から離脱してたちまち神聖な性格を帯び、リアルな性欲の対象にはならない。それどころか、恋をしている当人は相手に対してはどんな要求もせず、ひたすら献身に終始する。
 フロイトはこれを、「リビドー」(=愛のエネルギー)の問題として考える。対象すなわち恋の相手に向けて大量のリビドーが動員されると、恋するひとの自我は著しい欠乏状態に陥る。これは心理的には、ごくふつうの自己愛が失われ、自尊感情が大暴落を起こしている状態にあたる。だが、さらに面白いのは、フロイトがこうした惚れ込みを人間の批判能力、すなわち「良心」との関係から考察している点だ。
 たしかに、雷に打たれるような恋に落ちてしまったとき、ひとはその相手に対して批判的な距離をとることができず、どんな欠点にも目を塞いでしまう。これは「良心」の麻痺、あるいは機能不全といえる。それだけではない。フロイトによれば、自我の自己愛を支えるのも、じつは良心の重要な機能である。自我は「良心」に照らして自己批判を行い、より望ましい自分、要するに理想の自分に近づいていくことで、自己肯定感を獲得する。フロイトは、このような意味で個人の良心を司る部分のことを「自我理想(Ichideal)」と呼ぶ。
 自己愛と良心とのこうした結びつきに着目すれば、次のように考えることができる。すなわち、惚れ込みを特徴づける「対象が自我の自己愛を丸ごと占有する」という事態は、恋に落ちた人間の良心が、その恋の相手にすっかりジャックされてしまうことに等しい、と。だからこそ、ひとは惚れ込んだ相手を批判することができず、その相手に求められたことをあたかも自分が果たすべき義務のように感じてしまうのだ。フロイトの言葉でいえば、惚れ込みとは「対象が自我理想に取って代わっている」[5]状態にほかならない。
 もう一点補足しておくと、自我理想という内なる批判者の出自は、もとをたどれば、幼少期の保護者からの影響にまで遡る。躾という名の大人からの介入に絶えずさらされることで、子どもは自分に向けられる批判的なまなざしを徐々に内面化していく。やがてそれは親や教師といった個別具体的な他者から切り離され、個人の心のなかで独自の発展を遂げるだろう。そのようにして独立した心理的機能となったものが自我理想である。精神分析的には、この独立こそが大人になるための条件である。
 さて、以上を踏まえて、アルキビアデスの自尊心の低下という問題に戻ろう。といっても、この問題の真相はいまやほとんど明らかになっているはずだ。端的にいえば、アルキビアデスは、厳密にフロイト的な意味で、ソクラテスに惚れ込んでいる。つまり、ソクラテスという対象が、アルキビアデスの自我理想に取って代わり、彼の良心をすっかりジャックしているのだ。たしかにアルキビアデスは述べていた——「ぼくは、ようするに、ソクラテスの命じることなら、なんでもしなければならないと思ったのだ」と。
 このような見立てからすれば、ソクラテスを前にしたアルキビアデスの態度がひどく子どもじみていることにも十分な根拠があるといえる。というのも、アルキビアデスの良心は彼の内面という固有のフィールドを失い、もっぱらソクラテスという他者に委ねられてしまっているのだから。アルキビアデスの自我理想はかつての姿、すなわち幼少期の保護者の姿に退行しているのだ。いつもソクラテスに見透かされているようだというアルキビアデスの苛立ちは、いつまでも親の監視を跳ね除けられず、無力な反抗を続ける少年のそれである。

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 何をするにも「ソクラテスがそれをどう評価するか」を考えずにはいられないアルキビアデス。彼の情熱的なソクラテス賛美は、アガトンへの警告で締められている——「あなたにも警告しておこう、アガトン。この人にだまされてはいけない。ぼくたちが痛い目にあった経験から学んで、用心してほしい」[6]。ほんのつけ足しのような一言だが、長い語りの最後に一種の異物のように置かれていることで、この発言は少なからぬ含みを持っている。実際、ソクラテスが真っ先に反応したのも、この部分である。

本当は、酔ってなどいなかったのだろう、アルキビアデス。酔っていたら、きみが話したことすべての背後に隠された真の目的を、こんなにも見事に隠蔽する企てをできるはずがない。話の最後に、きみがつけ足しのように述べた言葉。これこそ、きみの真の目的だ。なのにきみは、それがすべての話の目的ではないかのように見せかけた。真の目的とは、ぼくとアガトンの仲を引き裂くことだ。[7]

 ソクラテスの「解釈」、精神分析家の介入に匹敵するものとしての「解釈」がいわんとしているところは明確である。アルキビアデスのソクラテスへの愛は見せかけであり、アルキビアデスが本当に愛しているのはアガトンである、というのだ。アルキビアデスは、ソクラテスへの愛を、あくまでもアガトンへの愛の代理として告白した。ラカンは、この代理としての愛を、分析実践のなかで生じる患者の無意識の顕現としての愛、すなわち転移性恋愛とみなすことを躊躇われない。

ソクラテスが欲望しているものを彼が知らないかぎりにおいて、そしてそれが〈他者〉の欲望であるかぎりにおいて、アルキビアデスはとり憑かれている。いったい何に? 愛に、である。この愛については、次のようにいってよい——ソクラテスがなした唯一の功績は、それが転移性恋愛であることを示し、アルキビアデスの真の欲望へと送り返したことである、と。[8]

 ここで思い出しておきたいのは、アルキビアデスはソクラテスを自身の欲望の対象であるアガルマに従属させようとした、という先のラカンの指摘だ。ごく簡単にいえば、ソクラテスはアルキビアデスの愛の対象であり、その愛の根底にある欲望の真の対象はアガルマである。アルキビアデスはつねにアガルマを探し求めており、それを宿している(と彼が信じる)相手を愛するのだ。この枠組みにおいて、愛の対象はいわば交換可能であって、その点でソクラテスとアガトンは互いの等価物になりうる。
 ところで、ラカンはこの一節で、ソクラテスそのひとの欲望が重要な役割を果たしている点を指摘している。ラカンによれば、ソクラテスはアルキビアデスという主体の欲望を捕らえる〈他者〉(Autre)の位置を占める。実際、誘惑の失敗をひとつの契機として、アルキビアデスはソクラテスという人物が何を欲望しているのかまったくわからなくなり、この失敗を長らく引きずっている。ここで直面した〈他者〉の欲望の謎に、アルキビアデスはいまなお囚われているのだ。
 だが、重要なのはここからである。ソクラテスの振る舞いを精神分析家のそれとみなすラカンの読みにおいて、ソクラテスの欲望は、「精神分析家の欲望」のモデルにほかならない。ラカンの考えでは、分析家を分析家たらしめるのは、例えばフロイト学説についての知識の習得や臨床技法の熟達などではなく、この職務で発揮される特異な欲望である。それをラカンは「精神分析家の欲望」と呼ぶ。
 注意すべきは、この欲望の具体的な中身よりもそれが分析主体(患者)にとって謎に留まり続けることそれ自体のほうが重要である、という点だ。ソクラテスの欲望が謎のままであったからこそ、アルキビアデスはこの哲学者のなかに光り輝くアガルマを見いだした。そして、フロイトの洞察を介して述べたように、アルキビアデスのソクラテスへの惚れ込みの正体は、煎じ詰めれば彼自身の失われた自己愛である。つまり、この転移性恋愛にはアルキビアデスのアイデンティティという根本問題がかかわっている。
 アルキビアデスは数々のスキャンダルを巻き起こしながらも、人心掌握に長けた政治家として名を馳せていた。だが、ソクラテスと一緒にいると、そのような自分のあり方に疑問を抱かずにはいられなくなった。彼自身の言によれば、「ぼくにはよくわかっている。ぼくは、この人の命じることに逆らうことなんてできない。でも、この人のもとを離れると、ぼくは大衆に賞賛されたいという誘惑に負けてしまうのだ」[9]
 アガルマの化身となったソクラテスは、アルキビアデスにとっては自身のアイデンティティを揺さぶる存在である。政治か哲学か、名声か本当の善かのあいだで揺れるアルキビアデスは、ソクラテスから逃げ出そうとしてもそうできなかった。それは、すでに述べたように、アルキビアデスが自身の内なる良心をソクラテスにそっくり委ねてしまっているからである。
 あの誘惑の場面のやり取りからもわかるように、ソクラテスは、アルキビアデスが自分のことを理想化していること、つまりアルキビアデスの無意識のシナリオ——精神分析のタームでいえば「幻想」——のなかで、自分があらゆる徳を体現する偉大なメンターの役を割り当てられていることを察知していたはずだ。
 現実のソクラテスは、アルキビアデスに何かを命じたりなどしない。つまりソクラテスはアガトンのシナリオには乗らなかったのだ。むしろ、哲学者はこのシナリオそのものに揺さぶりをかけ、当のアルキビアデスをそこから連れ出そうとさえした。例えば、「きみが本当に愛しているのはアガトンだ」という「解釈」ひとつ取ってもそうである。それはソクラテスとアルキビアデスの閉じた二者関係そのものにまったく別の局面を開くのだ。
 ラカンのいう「精神分析家の欲望」とは、ソクラテスがアルキビアデスにしたように、分析主体が無意識のなかで作り上げている物語を浮き彫りにし、その物語から主体自身を引き離すような欲望である。それがうまくいったときにはじめて、分析主体は自分の欲望を発見する。それは本当の意味で自分を知るということだ。もしかしたら精神分析は、「自身の魂に怠りなく配慮せよ」というソクラテス哲学の根本命題の、ひとつの実践形態だといえるかもしれない。
 ソクラテスからすれば、アルキビアデスの幻想につけ込むことで、つまりアルキビアデスの自我理想の座を自分が占め続けることで、この美貌の青年を服従させ、支配することなど容易かっただろう。しかし、ソクラテスがその種の支配欲に身を委ねることはなかった。なぜなら、彼はもっと強力な欲望に絶えず衝き動かされていたからだ——刑死という極限的な結末を、みずから進んで引き受けてしまうほど狂気じみた欲望に。もちろんそれは、哲学者の欲望、いや、哲学という欲望にほかならない。

[1] プラトン『饗宴』、219D
[2] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 213.
[3] プラトン『饗宴』、219C
[4] Sigmund Freud, Massenpsychologie und Ich-Analyse, in: Gesammelte Werke, Bd. XIII, Fischer, 1967, S. 124.
[5] Ebd., S. 125.
[6] プラトン『饗宴』、222B
[7] プラトン『饗宴』、222C-222D
[8] Jacques Lacan, Le transfert, op. cit., p. 216.

[9] プラトン『饗宴』、216B

 

本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
この連載は加筆の上、
秋に単行本として発売する予定です。ご期待ください。
また、
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