犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.3.1

37春の気配


 日増しに暖かくなってきて、なんだかほっとしている。正直な話、真冬のハリーの散歩は修行レベルで辛かった。というか、完全に修行だった。山からは雪交じりのシャーベットみたいな風が吹いてくるし、鉛色をした湖はザブンザブンと荒れまくっているし、どれだけ着込んでいても足元から冷気が上がってきて体がカチコチになるし……。ニコニコと笑顔で歩くハリーの横で、私の頭の中には滝行のイメージしか湧いてこなかった。その上、突発的なできごとがあると(野生動物を発見したりすると)ハリーの怪力は遺憾なく発揮されるから、リードを握る指がちぎれるかと思ったことが何度もあった。しかし、ようやく、この地域にも春がやってきたようだ。とりあえずご苦労様と自分に言いたい。


 ひなたぼっこが大好きなハリーは、春が近づいてきたことを敏感に感じ取っているらしく、暇があると(いや、毎日暇なはずだが)ベランダでお腹を出して寝そべっている。真っ黒い体に太陽の光をたっぷり吸収しながら、そよそよと吹いてくる春の風を楽しんでいるように見える。近所の幼稚園の幼い子らに「わんちゃーん!」と声をかけられれば、目をかすかに開いて、長い尻尾をパタリと振ったりもする。とにかく、彼はこんな日常を彼なりに楽しんでいるようである。
 私もなんだか楽しい気分である。仕事を中断して、ベランダにいるハリーと並んでごろりと寝転ぶことが増えた。ハリーは本当に気のいい犬で、私が横に寝て、なんだかんだと話しかけてもまったく気にならないようで、平気な顔をしている。でっかい体を思い切り伸ばして、大あくびをし、そしてグーグーと寝はじめる。頭をいくら撫でても、体を揺すっても、なすがままだ。まるで、柔らかくて、でっかいサンドバッグみたい。肝っ玉が据わっているのか、これが大型犬の特徴なのか。とにかくハリーはあまり動じない犬だ。


 そんなハリーを見ていると、とても神経質だったけれど、愛らしかった犬のことを思い出す。ハリーがわが家にやって来る前に飼っていた、スコッチテリアの「トビー」だ。トビーはハリーとは対照的に10キロにも満たない小柄な犬だった。ただし、のんきなハリーとは正反対の、テリアらしい忙しい気質で、よく吠え、よく走り、よくケンカをした。抱き上げられるのを嫌ったし、初めて会う人を強く警戒する良き番犬だった。飼い主であっても、触りすぎればギャン! と吠えられたものだ。同時に、留守番を難なくこなす落ち着きもあった。自分の寝床で日がな一日ゆっくりと過ごすことが大好きだった。つまり、ハリーよりはずっと「我が道を行く」タイプの犬だったのだ。
 トビーが、私のすぐそばで過ごすようになったのは、晩年になってからだ。特に、病気になってからは距離が縮まったように思う。毎日たくさんの薬を飲ませ、身の回りの世話をすることが増えたからだろう、トビーはどんどん素直になり、どんどん穏やかになり、落ちついた表情を見せるようになった。私が出かけようとすると、不安そうに見送るようになったこともよく覚えている。
 結局トビーは一年の闘病の後、あっという間に亡くなってしまった。犬の死は何回か経験したが、こればかりは慣れるものではない。言葉を持たない動物が重い病となったときの、この世の悲しみのすべてのようなその姿は、消えることなく心の片隅に残り続ける。飼い主ができることは苦痛を軽くしてやることだろうが、いくらやったって足りないような気がして、後悔ばかりだ。同時に、やれることはすべてやったではないか、それで充分だとも考える。浮かぶのは、楽しそうに湖を散歩しているトビーの姿だ。あの子は今頃、どこで何をしているのだろう。ちゃんと天国に行けただろうか。
 ハリーが来てからというもの、大型犬を飼育することの過酷さにしばらく思い出すことも減っていたけれど、私と今まで暮らしてくれた歴代の犬たちはすべて、間違いなく、私にとっては大切な一頭であり、家族であったのだ。


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この連載は月2更新でお届けします。
次回は3月15日(金)掲載です。