犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.3.15

38犬が歩けば


 私は一応、文章を書くことを生業としている。ここで、若干ビクビクしながら、あたりを伺いつつ「一応」と書いているのには理由があって、それは私が素晴らしい作家や翻訳家の作品を読むことをなによりの喜びとしており、そして彼らを心から尊敬しているからだ。
 世の中には類い希なる才能を持った書き手が多くいる。その文章に触れるたび、私ごときが「文章を書くことを生業としている」と宣言しちゃうことの恐ろしさを思い知る。私なんて同じ土俵に上がってすらいない。そもそも国技館に到着してない。こんな現実に落胆するしかない。堂々と胸を張って「私は文章を書いて暮らしている!」とは、なかなかどうして勇気が出ずに、書けないでいる。今、書いたけどな。三回も。


 数年前まで、仕事の中心は翻訳だった。主にアメリカやイギリスで出版された書籍を日本語に訳すという仕事だが、近年は翻訳だけではなくて、自分の文章を書く仕事が増えた。つまり、元になる英文がない。自分で考え、自分で書くのだ(当たり前だが)。こういった「手本となる文章がない」状態で文章を書くことの難しさは、翻訳が仕事の中心だった時期には想像もしていなかった。今までは英文に助けてもらっていたのだなと痛感する。
 最近、手本なき状態で文章を書く機会が増え、そしてあろうことか「書けない」と焦る機会が増えた。何やら生意気な話だが、パソコンの前で腕を組んで一時間ぐらい悩むことさえある。ああ書けない! と髪をかきむしり、原稿用紙を両手で丸め、後ろにポイッ! と投げる代わりにSNSだ。私も、私も! と手を上げる同業者の顔がちらほら思い浮かぶが、まったく世の中には誘惑が多くて困ったものである。文章を書き、読者に自分の思いを伝える能力のみならず、厳しい自己管理を求められるのがこの仕事。そして書けないという状況に陥ってしまい、暗い穴の底で膝を抱えて小さくなっている自分を救うのも、また自分なのだ。
 このように、実際に手も足も出なくなってしまうとき、私はいつも、とりあえずイスから立ち上がり、外に出ることにしている。膠着状態にあるときに、「とりあえずイスから立つ」ことと、「外に出る」ことがどれだけ難しいかは、多くの方に理解していただけると思う。それでも、とにかく自分を奮い立たせて家を出て、外の空気を吸うようにする。そしてひたすら歩く。だいたい一時間ぐらいだろうか。家に戻り、そして再びパソコンに向かう。ここで、「やっぱり書けないや!」となったことは、実は今まで一度もない。
 記憶している限り、歩いて損したことはない。ひたすら歩いて家に戻って「歩いてしまって腹が立つ」なんて考えたことは、一度もない。むしろほぼ100%の確率で、「歩いてよかった! 気分は最高!」なのである。歴代の犬やハリーとの散歩を、辛いと言いつつ続けてきて私が確信したのは、足を動かせば、手も頭も動くということだ。人間とは、体とはそういうものなのではないか。何も手につかない状況にあっても、とりあえず足を動かせば、かすかであれ必ず光は見えてくる。こう確信できたのは、私の人生にとっては大きなできごとだった。


 もうひとつわかったのは、感情的な刺激を受けることが、伝えようとするモチベーションに繋がるということだ。腹が立つ、感動した、泣けた、寂しかった……なんでもいい。自分の心が震えるできごとに遭遇すると、そこから私たちは言葉を得て、誰かにそれを伝えようと思う。だからこそ、日常的に様々な形で人間の感情を刺激してくれる動物を、私たちは愛でるのではないか。最も身近な彼らから、私たちは日々前進する力をもらっているのかもしれない。
 目の前に常にいてくれる、愛、慈しみ、幸福がペットだと思う。わが家の愛の伝道師ハリーは、今日もでっかい体を横たえて、何もしないという重要な役割を必死にこなしている。朝には私の散歩につきあってくれた。そして私は今こうして原稿を書くことができている。
 やっぱり天使なのかな、ハリーって。天才なのかな、ハリーって。イケワンだけでは飽き足らず、私のモチベーションをどこまでも引き出してくれるハリーは、ロケットの発射台みたいにしっかりと私を支え、そして広い宇宙空間に打ち上げてくれる(話が大きくなってまいりました)。そろそろNASAから連絡が入るはずだ。年俸などの交渉はマネージャーである私を通して下さい。


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この連載は月2更新でお届けします。
次回は3月30日(土)掲載です。