ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.7.19

13ようこそコロナちゃん

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第13回:奥野克巳 / 7月1日執筆



 体の自由が効かないような場合、分身ロボットが人間に体を取り戻させてくれる。吉村さんは、分身ロボットには現在一種の計り知れなさのようなものが備わっていて、ロボットが更に進化して人間に近付くにせよ、そのような無骨なロボット性のようなものが残っていてほしいと願う。伊藤さんは、体を拡張し、遠くのものを近くにもたらすロボットの分身の機能を反転させて、近くのものを遠ざける「分―身」化について語っている。
「分―身」化とは、本来は煩わしい異質な現象や存在(例えば、幻聴)を「さん」付けで呼び、自分とは異なる「人格」として認めることである。興味深いことに、自分から切り離すことによって逆に、「分―身」化した現象が仲間にもなりうる。
 皮のような部分が人間の細胞膜でできており、私たちの分身に他ならない新型コロナウィルスに対しても、そのような認識の転換ができないだろうか。一般に敵視され、打ち負かすべき相手とされるコロナを「分―身」化して、そこにいる存在として「コロナさん」と呼ぶ日は来るのだろうかと、伊藤さんは私たちの想像力の可能性を問うている。
 この話を読んで私は、シベリアの狩猟民ユカギールのハンターにとっての獲物のことを思い出した。ユカギールのハンターは、獲物の大鹿であるエルクを「エルクさん」、いやむしろ「エルクちゃん」ないしは「エルク姉ちゃん」として扱う。それは、人間の分身でも「分―身」でもなく、彼らが動物もまた人間存在であると捉えているためである。そうしたことが、デンマークの人類学者レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』にはいろいろと描かれている。


 ハンターは狩猟に出かける時、正装して着飾る。弾薬帯には、色とりどりの紐やビーズが付けられていて、鞘つきナイフは金物細工である。それらのモノに獲物は視覚的に惹きつけられる。
 ハンターは狩猟前夜にサウナに入って、カバノキの枝で体をこすり、エルク姉ちゃんが近寄ってくるように、人間臭を消す。同じ目的で、子や孫を抱くのをやめ、性交渉もやめる。ハンターはまた、小さな儀礼を行なう。ウォッカやタバコなどの舶来品を火の中に投げ込んで、エルクの支配霊をみだらな気分にさせてから眠りにつき、夢の中で自らがエルクに扮して、エルク姉ちゃんの家を訪ねる。そして、酔っ払って性的欲望に目がくらんだエルク姉ちゃんととベッドインする。
 するとどういうわけだか、翌朝狩猟に行くと、エルクの革の外套を身に着け、エルクが雪の上を歩く音を出して、体を前後に揺らしながら、エルクを模倣して歩いているハンターのもとに、性的興奮の絶頂を期待したエルク姉ちゃんが駆け寄ってくる。エルク姉ちゃんは、ユカギールのハンターが雄エルクを真似ているのを見てそれを同種とみなす。ハンターはハンターで、エルク姉ちゃんを見るとともに、エルクであるかのような自分を見る。
 この時ハンターは、エルクである自分と人間である自分という二つの視点の間を揺れ動いている。エルクを見るハンターの視点とエルクによって見られているハンターの視点があまりの速さで入れ替わるため、エルクと人間の種間の境界がぼやけてきて、一体化してしまう。
 ハンターはその時、エルクそのものになってしまう「変身」の危険にさらされるが、その危機を乗り越えて、エルクを十分に引きつけて、最後に銃で撃ち殺す。こういった狩猟が、ユカギールでは今日でも行われている。
 興味深いのは、ウィラースレフが書いていることである。狩猟の駆け引きの場面で、ハンターが何者であるかは、自らのうちではなく、エルクのうちに見出されるのだと言う。ハンターが何者であるかの秘密を握っているのは、エルクのほうなのである。
 エルクの人格性を否定すれば、自らの人格性を否定しまいかねないため、ハンターはエルクの人格性を否定できないところにまで追い詰められる。ハンターの「人格としての意識は、人格としての動物にこそ依存している」と、ウィラースレフは述べている。
 そこでは、人間が動物に人格を付与するのではない。狩猟活動に没入していく中で、人格はむしろ動物のほうにあると確信される。それが何であれ、他生/他者とのコミュニケーションの深みに入り込んでいくのなら、相手にこそ人格が先に与えられていると直観されうるのだという。ウィラースレフは、これが「アニミズム」だとしている。
 こうした動物=人間観を持つユカギールの人たちなら、コロナに対して、エルクに対するのと同じような態度で「コロナちゃん」と呼ぶこともありうるかもしれない。コロナちゃんの次にやって来るのは、尊重すべきウィルスなのか可愛がられる細菌なのか、インフルさんか豚コレラちゃんか…と、想像してみることもできるのではないだろうか、難しいだろうか。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は7月24日(金)掲載を予定しています。