ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.6.9

05元の日常という脅威

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第5回:吉村萬壱、 5月22日執筆



 子供の頃私はテストが嫌過ぎて、学校など消えてなくなればいいと度々思ったものだ。大学受験や就職に失敗した時は、何か世界的な大異変が起こるがいいと願ったりした。しかし現実世界というものは、そう簡単に変わるものではない。そんな当時の私の目に、今回の新型コロナ下の社会はどう映ったであろうかと考えるとちょっと興味深い。
 何より自粛によって会社や学校に行かなくてよくなったという事態は、仕事や勉強の重圧、人間関係のしがらみから人々を一挙に解き放ったという点で特筆に価する気がする。きっと実際に、そのお陰で精神的に生き延びた人も少なくなかったのではないかと思う。彼らは社会の首枷から解放され、元の日常こそが何か途轍もなく不自然なものだったことを改めて思い知ったことだろう。日常性の裂け目に、こんな自由があったのかと。この非日常の持つ解放感は、自粛の不自由さや経済的な不如意にも拘らず、彼らを強く魅了したに違いない。彼らは、もし新型コロナの流行があっけなく終息して何一つ変わらぬ日常が忽ちの内に戻ってきたならば、それこそが本物の脅威だと感じるたぐいの人々である。
 奥野氏の紹介するプナンの人々の暮らしは、私達現代人の日常が少しも客観的実在でないことを教えてくれたが、今回の新型コロナ禍による社会の大掛かりな反応も、以前の日常が何ら不変的なものでなかったことを我々に知らしめた。つまり我々の日常は、伊藤氏が言う「理不尽に与えられてしまうもの」によって幾らでも変わり得るものなのである。
 その一方で、この手の心性とは対照的に「早く普通の日常が戻ってきますように」と切望する強い気持ちもまた、我々の中には存在する。当たり前の日常への信仰、何があっても何度でも見慣れた日常が繰り返し回帰するに違いないという確信には、思いの外揺るぎないものがある。特に経済活動に於いて社会が旧に復することは、全ての困窮者にとって焦眉の急でもある。
 しかし全くひび割れのない完全無欠の日常など存在しない。それゆえに却って、それを信じない少数者を排除してでも万人に現状復帰を望ませるほどに、それは根強い欲求として我々の社会の中に息づいているのかも知れない。
 島尾敏雄の小説「出発は遂に訪れず」には、太平洋戦争中、特攻隊の隊長として部下と共に死ぬ筈だった島尾の出撃前後の心境が綴られている。「自殺艇」に乗り込んで敵艦に体当たりする作戦は、死へと向かう逃れようのない一本道の筈だった。そんな異常事態の中で、島尾は積極的に死を受け止め、高揚する。
「むしろ発進がはぐらかされたあとの日常の重さこそ、受け切れない。死の中にぶつかって行けば過去のすべてから解き放たれるのに、日常にとどまっている限りは過去から縁を切ることはできない」
 しかし出発は訪れず、翌日島尾は終戦を知る。
「出孤島記」には出発が訪れず朝を迎えた彼が、死を免れたという「しびれるほどの安堵」から、たちまちにして日常性の倦怠によって浸潤され始め、「虚脱したような空虚な感じ」に染め上げられる心理が描かれている。非日常を強烈な形で経験した島尾にとって、何食わぬ顔をして戻ってくる巨大な日常は寧ろ残酷な責め苦に近いものとして映ったのであろう。
 これを書いている今日(2020年5月22日)、私の暮らす大阪でも緊急事態宣言が解除された。新型コロナの流行がこの先どうなるか予断を許さないが、今回の災厄に強く反応した人、感染や死を極度に恐れた人、また、非常時にこそ自由があると感じた人などは、島尾敏雄のように、この状況の下で自分の内面をより深く見詰め、あるいは大きく組み替えざるを得なかった人々であろう。そんな人々は、もしこのまま新型コロナ禍が終息に向かったとしても、多くの人々がそれに安堵や歓喜を覚えるのに対して、戻ってきた日常性が重過ぎてとても抱え切れないと感じるのかも知れない。そして彼らは一時的に虚脱した後、解放されたアウシュヴィッツの囚人達のように、少しずつ普通の人間へと戻っていくのだろうか。こういうことは実は一部の人間だけではなく、この災厄を経験した人間には誰でも大なり小なり起こることだと思われる。一旦非日常を潜り抜けた後に感じる、元の日常に対する違和感や拒否感の中にこそ、その後の島尾文学を開花させたような、ポストコロナ社会を創るべき我々が耳を傾けるに足る知恵の種が隠れていそうな気がする。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は6月15日(月)掲載を予定しています。