おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2016.4.1

15駅で飲むおじさん

 ベーコンドックとギネス[ベルク・新宿]

 

 

 午前8時すぎ。
 JR新宿駅は通勤で急ぐ人たちが縦横無尽に行き交っている。私は押し寄せる人の波をかわし、東口改札を抜け真っ直ぐ「ビア&カフェ ベルク」に入った。かつてこのまちに住んでいた私にとっては、徹夜仕事明け、ひと眠りの前の生ビールを求めにきた店であり、近くの書店で購入したばかりの本を広げながら呑む店であった。店員さんたちの情熱と愛が詰まった『ベルク通信』目当てに来ることもあったし、友人とここで1杯ひっかけてから夜の街に繰り出したことも数え切れない。
 どんなときだってベルクはベルクであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。いつ訪れても、素速く、かつ丁寧に、吟味された味を提供することに全力投球なのだ。
「お仕事帰りですか?」「お久しぶりですね」そんな会話はここには必要ない。注文だけ通せば、あとは誰でもない客として束の間、店内のさざめきに身を浸し、ぼんやりと過ごせばいい。あらゆる種類の人間が集まる新宿で、雑多な人々に紛れ、透明人間の気分が味わえるのは、ここベルクぐらいだ。

 午前9時。
 通勤前にコーヒーやモーニングを手早く済ませていく会社員が多い。目まぐるしく客が入れ替わる。スタンディングの禁煙コーナーで私が朝食がわりのビールを呑んでいると、若い女性とともにべっ甲の丸いメガネと調えられた口髭が目を引くおじさんがやってきた。
「わたし、白ワインとレバーパテ」とおじさんに頼むと、女性はレジ前のテーブル席に腰を下ろす。黒いコートを脱ぐと胸元がのぞく、やはり黒のセーター。強めのアイラインと伸びやかなマスカラ。それに負けないハッキリした目鼻立ち。髪をアップにし、スッと伸びた背筋に意志の強さを感じる。
「ギネス1パイントと白ワイン。あとレバーハーブパテとベーコンドックね」
 おじさんは注文を受け取ると、女性の前に座った。ふくらみはじめた桜のつぼみが縮み上がるほど寒さが戻った今朝。おじさんはネイビーのフィッシャーマンセーターにダウンジャケット、コーデュロイパンツとカジュアルな格好をしている。ウィングチップの革靴が全体のコーディネートを引き締めている。理知的な額は大学教授か研究者を思わせるが、ファッションのこなれ感からすると業界人かアパレルか。
 気になるからもう1杯。財布からさっき購入したビアチケット(10杯分の値段3150円で11杯呑める。1杯286円!)を1枚もぎり、レジのお姉さんに渡すと、「チケットの方は並ばずに直接頼んでいただいて大丈夫ですよ」と教えてくれる。さすがに平日から朝酒を呑んでいるのは私と例のふたりくらいだったけど、混雑時にはありがたい。覚えておこう。

 出勤前の混雑が落ち着くと、ふたりの会話が途切れ途切れで聞こえてくる。なにしろ私の目の前の席なのだ。
「わたし、ここのレバーだけは食べられるんです。ほかは臭くてぜんぜんダメ」
「○○○(都内で名の知れた高級焼き鳥店)でさえ、食べられなかったよねキミ」
「○○さんが連れていってくれるところ、どこもホントにおいしくて感動しちゃうんですけどねー」
「元手がかかってるからね」(ニヤリ)
「あ、ホントごめんなさい、いつもご馳走になって」
「いや、おれが食いたいだけだから。若い頃、貧乏でさ。風呂なし共同トイレ、共同洗面所のボロアパートに住んでたんだ。そんとき吉野家の牛丼によく世話になったなあ。たしか当時は並盛りが200円だったんだよ。つゆだく大盛りにして肉をこうやって半分によけてさ(両手でエア丼をつくり、フォークを箸代わりにして説明する)、サービスの紅ショウガを半分白飯だけになったところにてんこ盛りにして食べるんだ」
「へえ。そんな食べ方あるんですね。わたし、牛丼屋入ったことない」
 ギネスから通常の生ビールをおかわりし、真面目な面持ちでいかに吉野屋の牛丼がうまいかを説明していたおじさんは、当然だといわんばかりに「女性はああいうところ行かないでしょ」とうなずく。
 ちょっと待って。私もおじさんと一緒で、吉牛には若い頃お世話になりましたよ。徹夜明けの牛丼。朝の光を呪いながら、紅ショウガと七味唐辛子をこれでもかと加えてかきこんでました。つゆは少なめのほうが好みですけどね。
 心のなかで反論していると、おじさんが席を立った。
「腹へらない? 牛丼食っていこうよ」
 漏れ聞こえてきた会話から、彼は経営者であることがわかった。相当な美食家、趣味人らしく、麻布のバーでとびきり旨いカツサンドが出てきたと喜んだら7000円だった、とも言っていた。どれだけ自由になるお金があっても、まだ何者でもなく、何者になれるかもわからなかった青年期に食べた1杯の牛丼が忘れられないのだろう。連日のように徹夜→牛丼→仮眠→出社、の日々を送っていた20代の自分と、いまでこそ白髭(しろひげ)の彼の若かりし頃を重ね合わせ、鼻の奥がキューッとなった。
「わたし、お腹すいてないんで大丈夫です」
 女性が若干引き気味になって断ると、そうだよなと笑い、「おれは久しぶりに食って帰るよ」そう言って、ふたり揃って店を出ていった。

 午後4時すぎ。
 ベルク愛好家のるみ氏が合流するころ、店はにわかに活気づいてきた。
 ビールの注文が次々と入る。たいていはひとり。泡がこんもり盛り上がったビールを受け取るとカウンターに向かってぐいぐい。パッと帰るひともいれば、読書に没頭しながらビールを味わうひともいる。入口の外に置かれたベルク通信をもらって読みふけるひとも。
 女性のひとり客が多いのもベルクらしさだ。ビールだけで済ます男性が多いのに比べ、女性はビールやワインとともに何か食べ物も頼んでいるひとが目立つ。筆者リサーチによると、この日はベルクがこだわる天然酵母パンとハム、パテなどの盛り合わせ「ジャーマン・ビア(orワイン)セット」が人気だった。
 真っ赤なステンカラーコートに白髪ベリーショートのご婦人がこのセットに黒ビールで立ち飲みする姿は堂々としていて決まっている。飲みっぷりのいいことといったら。あっという間に飲み干し、決めていたとばかりに2杯目を頼んでいた。60代、いや70代かな。私もあんなふうにベルクに軽やかに通えるおばあちゃんになりたい。

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 かたや同じ赤のワンピースのるみ氏は、童顔ゆえ赤ずきんちゃんにしか見えない(失敬)。
「おじさん、あんましいませんねえ」と店内を見渡しながら、お気に入りだというラタトゥイユとキッパーヘリング(にしんの燻製)をつまみ、エーデルピルスをおいしそうに呑む。彼女も移動途中や新宿に買い物ついでにひとりでふらりと寄るという。
「ひとに会ってなんだか疲れちゃったな、ってときとか、ここでひとりぼーっとビール呑むのが好きなんです。もう何度も読んだけど、このお話が好きでつい読んじゃう」
 るみ氏が繰り返し読むという壁の「三つのパン屋さんの話」。「生活のためにパンを焼く。それとも、パンを焼くための生活なのか」で始まる短い文章は、ベルクがこだわりたどり着いた道を語っていて、私も好きだ。読むとベルグが何を大切にし、何を我々客に提供しようとしているのか、その魂がわかる。

 午後5時すぎ。
 レジ前に列ができるくらい混み合ってきた。大勢のひとがやってくるベルクで長居は野暮。あまり混雑してきたら失礼しないと、と思いながら注文を待つ人たちを見やり、ひとりのおじさんに目が留まった。レモンイエローのダウンにチノパン。足元はVANSのスリッポン。あれ…見覚えがあるぞ。急いで記憶をたどる。そうだ、先週友人と来たときにも同じ出で立ちできていたおじさんだ。曜日も、時間帯もまったく同じ。
 あのとき、おじさんはたしかアイスコーヒーとゆで卵2個だった。もしかして……。
 レモンイエローのおじさんは壁のメニューに目も向けず、じっと順番がくるのを待っている。自分の番になると手短に何かを告げ、腰にくくりつけたウエストポーチから小銭を取り出すと店員に手渡した。
 固唾を呑んで見守る。店員さんが、レジ前に置かれた「安全おいしい! 自然卵のゆで卵 55円」のカゴに手を伸ばすのが見えた。
 やっぱり! 私たちはお宝を発見した気分になり、引き続き、黄色いおじさんの一挙手一投足を目で追った。
 彼は私たちの喜びようをよそに、あいているカウンターにすっと入ると、コツコツコツ。テーブルの角で卵を割り、器用に殻をむいた。その白い物体を半分かじる。アイスコーヒーをチューッ。残りをパクリ。モグモグしながら、もうひとつの卵を同じ要領で割り、殻をむいて食す。途中、ひといきついたり、まわりを眺めたりすることはなかった。脇目もふらず、一気呵成にゆで卵、ふたつ完食。それから少しスピードをゆるめ、アイスコーヒーを味わうように飲んでいる。

 正味15分。おじさんのベルク滞在時間はそのくらいだった。トレーを返却口に下げると、何事もなかったように店を出ていった。私は思わず追いかける。おじさんは片耳に突っ込んでいたイヤホンをはずすと、気難しそうな表情が人懐こい笑いじわになった。
 埼玉の奥のほうから週に一度、電車で新宿に遊びにきている。酒は呑まない。ハナシを聞くのが好きなんだ。「遊び、ハナシ」と聞き、一瞬女性が相手をしてくれる店かと勘違いしたが、寄席の“噺”だった。末廣亭のことだろう。その前に必ずベルクに寄り、アイスコーヒーとゆで卵ふたつ。注文は決まっているという。
「好きなんだよ、たまごが。うまいんだ、ここの。味が濃い気がするんだよね」
 理由を尋ねると、ちょっと恥ずかしそうに歯抜けの笑顔で教えてくれた。ベルクは自然卵にこだわっているから、おじさんは味のわかる男だ。
 私は礼を言って別れた。レモンイエローの背中は、新宿三丁目方面に続く駅構内の雑踏へふわふわと消えていった。末廣亭の暗がりでもあの明るい色は目立つに違いない。
 黄色はなにいろ? たまごの黄身の色。

BEER&CAFE BERG

東京都新宿区新宿3-38-1
電話:03(3226)1288
営業:7:00〜23:30 無休

1日364万人という世界一の乗降客数からギネス認定されている新宿駅。ベルクは東口の改札からすぐ、地下通路の少し奥まったところにある。知らなければ見逃してしまうかもしれない、わずか15坪の狭小店には毎日1500人以上の“LOVE! BERG!”たちが何かを満たしにやってくる。一時は立ち退き問題に揺れたが、2万人以上の署名を集め現在も営業継続中。生ビール315円(11枚綴りのビアチケットで1杯286円に)、ビアテイスターおすすめの樽生ビール630円〜、今月のワイン315円〜、本日の気まぐれ純米酒420円〜。ベルクドック304円、レバーハーブパテ357円、ポークアイスピック493円、ジャーマン・ビア(ワインも有)セット714円など。ここに来ればなんとかなる。みんながそう思う、みんなのベルク。

 

 

(第15回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2016年4月22日(金)掲載