おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2016.4.26

16炭酸博士なおじさん

 ビーフシチューとボール[日の丸酒場・八広]

 

 

 だれが呼んだか「酎ハイ街道」。
 京成線八広駅から東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅を結ぶ鐘ヶ淵通りには、甲類焼酎に謎のエキスをブレンドして炭酸で割った「焼酎ハイボール」を呑ませる酒場が点在する。この界隈が飲兵衛たちの間で「酎ハイ街道」といわれるゆえんだ。
 高度経済成長期、都会の酒場ではウイスキーを炭酸で割ったハイボールが人気を博したが、こちらは同じ東京でも下町の葛飾区。より安く手軽に飲める大衆酒焼酎が主役。だから、下町一帯でハイボールといえば「酎ハイ」ということになる。

 八広駅からすぐの「日の丸酒場」は、酎ハイ街道のスタート地点ともいうべき名店だ。カウンターで、表面張力するほどなみなみ注がれた琥珀色のグラスを前に、
「同じボールでも店によって流儀があるの、知ってる?」
 下町酒場の我が師匠が言う。

 京成線沿線の酒場を愛する人たちは、「ボール、ひとつちょうだい」「こっちもボールね」などと、まるで友だちのニックネームのように親しみを込めて呼ぶ。
「ほら、ここは最初に炭酸を一気呵成に注いでから、元祖の素(謎のエキスのことを彼はこう呼ぶ)をあらかじめブレンドした焼酎を足しているでしょ。でも、鐘ヶ淵側の『岩金』や『愛知屋』は先に焼酎を入れてから炭酸だし、レモンや氷を入れるところもある。自家製の炭酸を使っているところもあれば、オリジナルの元祖の素をつくっている店もあってレシピは門外不出。下町ハイボールの世界は奥が深いのよ」
 赤いポロシャツにニューバランスのスニーカー。ザンバラのおかっぱ、細縁のスクエア眼鏡の奥のつぶらな瞳を輝かせて、早口で教えてくれる。
 彼とのつきあいは、かれこれ15年になる。同じ京成立石の「ミツワ」というもつ焼き屋で初めてお会いしたとき、当時髪の長かった私に三つ編みをしてくれた(!)。
 立石生まれの立石育ち。メディアでたびたび取り上げられ、週末ともなると観光地のようにひとが押し寄せるようになった立石だが、そんなブームになるずっと以前から、このまちの酒場をくまなく呑み歩き、『酔わせて下町』なる「京成線沿線限定の酒場案内サイト」を運営する一方、町工場の二代目社長でもある。1月11日を「立ち飲みの日」と認定し、世に広めた仕掛け人の顔ももつ。

 口開けの17時をまわったばかり。店内にはカウンターに背広を着た先客がひとり。伸びた姿勢に紳士を感じる50代なかばくらいか。ニュース番組を見やりながら、わたしたちと同じ琥珀色のハイボールを呑んでいる。出先から直帰系の会社員のようだ。
「ビーフシチューと煮こごりを。え、終わっちゃったの。じゃあ、とんぷら、できます? うん、じゃあそれで」
 せっかちなおじさんね。椅子に腰を下ろす前から、品書きも見ずに注文していく。
「とんぷら?」
 すかさず、八広は初上陸のるみ画伯が聞く。千鳥ヶ淵でお花見をしてきたというほろ酔いの彼女は、いつもに増して綿菓子のような浮遊感をただよわせている。師匠はよくぞ聞いてくれましたとばかりに、身を乗り出して説明を始める。
「メニューにとんかつがあるでしょ。あれを天ぷらにしたもので、裏メニュー。ボールにはカツより天が合うと思う」
「へー。さっぱりしておいしそう」
「そうなのよ。僕は呑んだらあんまり食べないから、ほか好きなもの頼んでね。ところであなた、本当にお酒呑める年齢だよね?」
 教え甲斐のある呑み相手を得て、師匠はいつも以上にテンション高くジョークを繰り出す。ハイボールをおかわりする頃には、「好みの声だなあ。社長室に来てとなりで何かささやいてほしい」などと妄想たくましくるみ女史を口説いていた。
 ビーフシチューが熱々の湯気をたててやってきた。洋食屋でよく見かける木製の受け皿に両手輪っかのついた白いボウル。とろりと艶やかなシチューがたっぷりよそわれている。牛肉の塊がゴロゴロ、ほかにじゃがいも、にんじん、玉ねぎと野菜もたっぷり。冬の寒い夜、晩ご飯に食べた母親のシチューを思い出し、ほかほかとした気持ちのままスプーンですすると、意外にもさらりと控えめな味わいだった。
 意外にも、と感じたのは、ボクサーのように精悍な面差しをした3人の兄さんが店を回していたからで、もっと刺激的な味がするかと思い込んでいたからだ。実際には、さらりとしたなかに肉と野菜から染み出た独特のコクがあって、これが元祖の素の香りが独特なハイボールによく合う。煮込みを看板に掲げる酒場は多いが、牛スジやモツではなく、ビーフシチューとはハイカラだ。
「ここは昭和12年の創業だから、その頃は珍しかったんじゃないかな。大衆酒場で洋食なんて、きっとステータスだったと思うよ」

 あとで調べたら、シチューが日本のレストランで食べられるようになったのは明治初期らしい。戦前の酒場を想像すれば、酒は安い焼酎ハイボールでも、高級感を味わえるシチューは喜ばれたに違いない。
 多量の細かい泡がプツプツと表面に浮き上がるハイボールは、時間がたっても口当たりがキリリとしている。炭酸は、店の兄さんの手元を確認したら「ニホンシトロン」の瓶だった。が、炭酸に精通するおじさんは「いや業務用炭酸はリターナブルだから瓶に惑わされちゃダメ。王冠で見極めなきゃ」と言うなり、「すみません、炭酸の王冠いただけますか?」と、ハイボールをつくってくれた長男さんに声をかけている。 
「もう捨てちゃったよ〜。次ね」
 強面で切れ味鋭そうな兄さんに見えたが、対応はやわらかい。

 炭酸の正体知りたさに3分の1ほど残ったボールを一気に飲み干し、おかわりをお願いした。兄さんは冷蔵庫から炭酸の小瓶を1本取り出し、シュッと栓を抜くとカウンターにあらかじめ置いたグラスに勢いよく注ぎ切る。炭酸度が強いのか、荒くれ者のごとくぶわっと泡が立ち飛沫が飛ぶ。間髪いれずに、JINROの瓶に入った謎の液体がブレンド済みの焼酎を迷いなくいちどきに注ぐ。あと1滴間違えればあふれる、というところでサッと止める。見事な芸当に、るみ氏とふたり、ため息が漏れた。
「はいよ」
 手渡された王冠を見ると、「ニッポンタンサン」と記されている。

「ああ、葛飾区の会社だね。活きがよすぎて吹きこぼれ注意の暴れん坊だ」
 たまに酒場で酎ハイやレモンハイを呑んでいるおじさんが、「炭酸が弱い。もっと強いのないの?」と要求している場面に出くわすが、師匠も含め、わたしのまわりには喉が痛くなるほどキツイ炭酸を好むおじさんが多い。
「キック、アタック、パンチ」は、炭酸の強度を示す彼独特の表現で、もっとも強烈なのがキック、次がアタック。ウィルキンソンなど一般に普及している炭酸は比較的おだやかでパンチがある程度なのだと、炭酸講義がつづく。「女性を褒めるのに、美人だね、きれいだね、かわいいね、と使い分けるでしょ。それと同じ。ウフフ」
「ほえー、おじさん、なんでそんなに詳しんですか? すごい」
 声が好みのるみ氏に感心され、嬉しそうな炭酸博士。「いいから、これ食べてよ」とやってきたばかりの「とんぷら」を勧める。昭和の洋食屋さんを彷彿とさせる銀皿にからりと揚がった豚の天ぷら。大根おろしとキャベツの千切りが添えられている。これはソースよりしょう油だね。サクッ。衣にパン粉を使わないとこんなにも軽やかな揚げ豚になるのか。塩でもイケそうだ。つい琥珀のグラスに手が伸びる。

「大根おろしがいい感じ。関西で鶏の天ぷらは食べたことがあるけど、豚は初めて。もたれなさそうで、わたしもこっちのほうがいいな」
 カツより天派のお年頃なわたしたちをよそに、カウンターのとなりでは30代前半と思しき会社員2人組がビーフシチュー、トンカツ、ポテトチーズと、カロリー万歳なつまみをせっせとたいらげている。旺盛なのは食欲だけじゃない。ハイボールをぐんぐん飲み重ね、「○社の案件さ……」と男同士、仕事について熱く語っている。翻って口開けからの先客は、ひとり刺身(イカ刺しから貝へ)をアテにハイボールを呑りながら、体躯のいい店の三男さんと野球の話をしている。ともに読売ジャイアンツのファンのようだ。

 今宵は、るみ氏にメロメロな師匠の案内による「酎ハイ街道」ハシゴ酒の旅。
 次の店の算段をしていると、ふと疑問が湧いた。
「そもそも、だれが酎ハイ街道と名づけたんですかね。素晴らしいネーミング」
「え、オレだよ、オレ。なに、知らなかったの?」
 なんと。このおじさん、詳しい詳しいと思っていたけど、ホントにホント?
「八広から鐘ヶ淵界隈にかけては、居酒屋だけじゃなくてラーメン屋やスナックまで下町ハイボールが浸透していてね。それでここは『酎ハイ街道』しかないと命名したんだ」
 立石に生まれ、立石で家業を継ぎ、京成線沿線の下町酒場を誰より愛するおじさん。どの酒場にも顔がきくに違いないが、一見の客と変わらぬ店との距離感を保っている。これが彼の流儀なのだろう。足と舌と肝臓とで蓄積した下町酒場史をとわず語りに聞いていると、日本全国をくまなく歩き、辺境で黙々と生きる庶民の暮らしを浮き彫りにした民俗学者、宮本常一の名が浮かんだ。もうちょっと軟派だけど(失礼)。
 酎ハイ街道には、店の主がご年配となり、惜しまれつつ閉める名酒場がいくつもある。師匠には、社長業はデキる部下に任せて、下町の宮本常一になってもらいたい。そして、いつか『東京下町酒場紀行』を綴ってもらうのだ。もちろん、編集は私の手で。

日の丸酒場

東京都墨田区八広6-25-2
電話:03(3612)6926
営業:17:00〜23:30 不定休

京成線八広駅から高架下を歩くこと2分。純白の暖簾に「大衆酒場 日の丸」の堂々たる墨文字がはためく。からりと引き戸を開ければ、白の上っ張りが清々しい三兄弟の兄貴たちが迎えてくれる。強面に見えますがご安心を。きっちり丁寧な仕事ぶり、行き届いた客あしらいは女ひとり酒でも安心して身を任せられる。ビール500円、ブワッと炭酸の飛沫があがるほど勢いよく注がれる焼酎ハイボール300円、冷酒450円、ワイン700円。名物ビーフシチュー600円、エビフライ500円、とんかつ350円など揚げ物豊富、しめさば350円、あじタタキ550円、貝類450円など刺身も豊富。季節によって、にこごりや鍋料理もあり。

 

 

(第16回・了)

 

この連載は月1でお届けします。
次回2016年5月25日(水)掲載