おじさん酒場 山田真由美・文 なかむらるみ・絵

2015.7.3

07たまごに焦がれるおじさん

 目玉焼きとハイボール[こしの・渋谷]

 

 

 昔はそれほど興味がなかったのに、酒を呑むようになって好きになったものがある。
 たまごだ。
 だし巻き卵、目玉焼き、ニラ玉、キャベ玉、卵とじ……たまごほど変幻自在な食べ物はない。
 夢のようなたまごワールドを教えてくれたのは、編集の師匠だ。まあるい顔の、笑うとくじら目になるおじさんで、知り合った頃、私は30歳ちょっと。先輩は50歳を過ぎていた。
 たまごが好物だと公言し、おでん屋に行けば真っ先にたまご、焼き鳥では鶏肉そっちのけでうずらのたまご、居酒屋では納豆オムレツ、中華ではニラ玉、かに玉、ハイボールがうまいバーではスコッチエッグと、とにかくたまご、たまごである。お花見に誘われ、待ち合わせの千鳥ヶ淵に行ってみれば、作ってきたというお重のなかに端正なだし巻きが並んでいた。先輩“シェフ”のだし巻きは砂糖っ気がなく、海苔が間に挟まれたり、ネギが混ざっていたりして、いかにも酒飲みがこしらえた一品だった。
 最初は朝食じゃあるまいし、たまごごときで酒が呑めるかと閉口していたが、渋々つついているうちに、黄色くてふわふわの不思議な代物が連れていってくれる多彩で奥深い世界に夢中になっていった。その傾向は、酒場で女がひとり呑んでいても好奇な目で見られない年齢になってから拍車がかかったように思う。若造が頼めば子どもっぽいが、大人ならツウに見えるじゃないか。とかなんとか言い訳をしながら、とりわけ好物の目玉焼きを見つけると、嬉々として注文してしまうのであった。

 渋谷の道玄坂。いつ来ても騒々しいまちだ。ケバケバしいピンクの電飾看板にしかめ面になりながら坂をあがると、別世界が待っている。ビルの1階にあるカウンター8席だけの「たべものや こしの」。佐賀は有田出身の女将さんが和服に割烹着で迎えてくれる。有田焼の窯元の娘さんで、器はすべて有田焼。なにより、しっとりと落ち着いた大人の空間は渋谷では貴重で、藍や紅、群青など鮮やかな色柄が特徴の酒器や器を愛でながら呑む酒は格別だ。

「三浦哲郎のエッセイに、ゆで卵を食べる話があってさ」
 こしのさんのつくる濃ゆい角ハイに「相変わらず好みだわ」と満足していると、となりで先輩が言う。私をたまご好きにさせた張本人である。
「なんでも、家族の年中行事として“ゆで卵を食べる日”を設けているんだって。奥さんが一度に10個ゆでて、子どもたちと食べるんだけど、それがどうしようもない固ゆでで、うまく飲み込めずにむせちゃうんだよな、三浦が。面白いのは、たまごにむせている様子を見て、子どもたちが『お父さんの鼻から黄色い粉が煙のように出ている』と言う。卵の黄身だぜ、それ。ホントかどうか知らないけど、可笑しいと思わない?」
 先輩はじつに愉快に、たまごのエピソードを語ってくれた。
 私は話の内容よりも、たまごが大好きな先輩が嬉しそうに話すほうが可愛らしくて可笑しくてたまらなかったのだが、その話を聞いていたのだろう。一緒に呑んでいる相手と商談めいたことをしていたおじさん(バリトンボイスで声が響き渡るのだ)が、話を中断して大まじめにこう言った。
「たまごは旨いよなあ。6つぐらいいっぺんに食べてみたいものだ」
「いやだわぁ、6つも食べたら体に悪いですよ」こしのさんが笑う。
「いやオレは本気だ。腹がへってきたな。ママ、これなに? 豚の角煮? いいね、それもらおう。たまごも入れてよ」
 とろりとあめ色に煮込まれた豚バラの塊とともに煮込んだたまごが大皿に盛られている。作曲家の三枝成彰似の白いポロシャツのおじさんは、角煮の皿の煮たまごを指さし、全部食べかねない勢いだ。
「先輩、ここにもたまご好きのご同輩がいますよ。男の人ってたまご好きな人が多い気がするんですが、気のせいかな?」
 素朴な疑問を投げかけると、黙ってひとりで酒を傾けていた大学教授風のメガネのおじさんが反応した。
「僕もたまごに目がないタチですね。あなたの指摘は間違いないと思いますよ」
 ニヤリ笑って、「ママ、だし巻きお願いできるかな?」と頼んでいる。
「可笑しいわ。大の大人の男性がたまごで盛り上がるなんて。ふふふ」
 ボトルの焼酎をおじさんにつぎ足し、「しょうがないわね。お時間ちょうだいしてもよければ、つくりますよ」と笑顔を向けた。
「待つよ、どこまでも♡」
 美人女将が相手だ。そりゃあ語尾にハートマークが見えるってもんだ。艶っぽいやりとりを聞いていたら、私も無性にたまごが食べたくなってきた。
「こしのさん、目玉焼きできますか?」
 メニューにはないのを承知で、おずおずと聞いてみる。
「あら、山田さんもたまごが好きなの?」
「じつは……。目玉焼きでお酒、呑めちゃうんですよね、私」
 私と十も歳の違わない涼やか美人の女将さんはいたずらっ子のまなざしで、
「たまごはひとつ? ふたつ? 固さはどれくらい? ハムは入れる?」
 3択もさせてもらえるなんて完全にノックアウト。女将さんにほだされているおじさんをここでたくさん見てきたけれど、私も惚れちゃいそうだ。
「目玉だから、やっぱりふたつがいいな。じゅくじゅくの半熟、ハムもお願いします!」
 先輩を忘れ、自分の好みだけで頼んでよかったかしらと横を見ると、ニコニコと目尻を下げている。
「いつのまに、きみはそんなにたまご好きになったの?」
 先輩がたまご好きにしたんですよ、と言うかわりに、空になった先輩のレモンサワーをもう一杯注文した。
「オレたちにも目玉焼き、ちょうだい。たまごは4つ、ハムはなし。黄身の表面が白くなるくらいの加減でね」
 ポロシャツのおじさんからも声がかかる。4つ! それにオーダーが細かい! 筋金入りのたまご好きおじさんだ。
「ハイハイ、わかりました。たまご、買っておいてよかったわぁ」
 こしのさんがフライパンにたまごを割り落とした。じゅわ〜〜っ。パチパチパチ。店内に、なんとも平和な音が広がる。
 かくして、4人のおじさんと私の目の前には、だし巻き卵、目玉焼き、ハムエッグがそれぞれ並んだ。
 とぅるんとした白身の世界の中心に、一糸まとわぬ艶やか黄身がふたつ。有田焼の美しい器に完璧な目玉焼き。贅沢だ。

 目玉焼きを前にすると、いつも躊躇してしまう。箸を入れた途端、黄身が溶け出し、それを残らず食べるのが難しいからだ。ドギマギしている私をよそに、4つもの目玉焼きを頼んだおじさんたちは、「旨い、旨い。やっぱりたまごは最高だ」と連呼しながら食べている。こちらが、先輩と半分ずつ味わっているうちに、一瞬にしてペロリとたいらげた。
「幸せだなあ。オレはいまものすごく幸せだ」
 加山雄三かっ(笑)とツッコミを入れたくなる台詞で締めくくり、ポロシャツのおじさんは、これから歌いにいくんだと同行者とともに席を立った。
「おかげで楽しかったよ。飲み屋で目玉焼きを喰う女性。やるね、気に入った。またここで一緒に喰おう、たまご」
 陽気に言って、おじさんは渋谷の歓楽街へ消えていった。
 鼻から黄色い粉は見えなかったけれど、夢中でたまごに食らいついているその姿は、一瞬、ハンプティ・ダンプティに見えた。『鏡の国のアリス』の挿絵で見た、擬人化したたまごのあのキャラクターだ。

たべものや こしの

東京都渋谷区道玄坂2-16-19
電話:03(3770)9888
営業:17:00〜24:00 土日祝休

道玄坂。喧噪と派手な電飾看板を抜けた坂の途中、ビルの1階に「たべものや こしの」の筆文字看板。ひとに連れてきてもらわなければ、自分では到底見つけられなかった渋谷の隠れ家。カウンター8席を、和服に割烹着が美しい女将ひとりが切り盛りする。季節の総菜が大皿に盛られ、愛でながら「これ、ください」とお願いするのが楽しい。たまご料理は、客の求めに応じて目玉焼きのほか、ハムエッグ、だし巻き卵と多彩。日本酒は磯自慢、東一、久保田など。焼酎各種。濃いハイボールもおすすめ。