ソウル、オトナの社会見学 大瀬留美子

2019.11.13

01おとなのタバン

 

 K-POP、ファッション、コスメ、美容、グルメ、旅行。さまざまなブームを経て韓流コンテンツは中高年から若年層まで広く支持されており、各分野のインフルエンサーやパワーブロガーらが常に新しい韓国の情報を発信、画一的なブームは分散・多様化している。韓国の首都ソウルはそんなコンテンツを思う存分消費できる大都会であり、バラエティに富んだ滞在が楽しめるため旅行者に人気の都市のひとつだ。市内には朝鮮王朝の歴史を感じられる王宮や関連施設、百済の都「漢城」の遺跡、開化期から日本統治時代の様々な建造物があり、にぎやかでエネルギッシュな在来市場は大変魅力的だ。どこか懐かしい路地裏、韓屋(韓国の伝統建築)のまち並み散策に興味を持つ旅行者も少しずつ増えてきた。
『ソウル、オトナの社会見学』は、わざわざソウルでなくてもという声が聞こえてきそうなものに敢えて目を向け、結果的にソウルゆえにソウルなのね、なるほどなかなか楽しいという活動の記録である。たとえば道、川、ビルディング、看板、暗渠、高低差、町工場、日常に溶け込んださまざまな歴史の痕跡。ソウルの成り立ちや変遷などを調べているうちにすっかりソウルという都市に魅せられてしまった一人の在韓日本人が、ソウルの愉しみ方をほんの少し広げるための鑑賞方法(アプローチ)をゆるやかに紹介する。


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 インスタントコーヒーに砂糖、粉ミルクをたっぷり入れたのが「タバンコーヒー」だ。食堂やオフィス、駅などで小さな紙コップで飲む甘い甘いコーヒー。韓国の日常に溶け込んでいてとても身近な存在である。1970年に韓国の食品メーカーである東西食品から国産インスタントコーヒーが発売され、その6年後コーヒー・砂糖・粉ミルクが入ったスティックタイプのインスタントミックスコーヒーが登場した。お湯さえあれば気軽に飲めるミックスコーヒーは、韓国国内だけでなく外国人にも喜ばれるお土産のひとつにもなっている。
 ソウルのような大都市では「タバンコーヒー」を出す店は少なくなった。それでも、直接作って飲ませてくれるところがある。南大門市場のような大きな市場、通り沿いの屋台、そしてタバンである。
「タバンコーヒー」のタバンは漢字で茶房と書き、喫茶店を意味する。朝鮮戦争の休戦、つまり1950年前半から60年代にかけて文化人や芸術家のアジトだったタバンは、さまざまな目的を持った人と人をつなげるのに重要な役割をするようになっていった。1970年代になると待ち合わせや出会いの場所としてはもちろん、学生らが中心となって詩や音楽を楽しむ文化空間となり、また、アーティストらが公演をする大衆文化の発信地になった。その後飲料の種類の多様化、コーヒー専門店の出現、インスタントコーヒー自動販売機の普及、スティックタイプのミックスコーヒーの登場などで、タバンは少しずつ形を変えていった。
 1980年代になると、インスタントコーヒーセットの入った風呂敷を広げて出前先でコーヒーを作ったり、タバンで男性客の隣に座って接客するタバンアガシ(アガシは韓国語でお嬢さん、未婚の女性という意味)、店を切り盛りしながら彼女らをまとめるレジと呼ばれる女性がいる「チケットタバン」が増えていった。タバンのマダムが横に座って話し相手をするだけでなく、タバンアガシがデートの相手をしたり性的な接客サービスを行うようになり、いつの間にかタバンといえば、淫靡なイメージがついて回るようになった。2000年はじめにも風呂敷包みを持ったタバンアガシをあちこちで見かけ、金社長が電話で「コーヒー2つ」と短く言うと、どこからともなく短いスカート姿の厚底サンダルを履いたタバンアガシが現れて「タバンコーヒー」を作ってくれた。少し前の韓国ドラマや映画にもよく登場し、映画『ユア・マイ・サンシャイン』ではチョン・ドヨンがタバンで働く女性を好演している。地方ではタバンもアガシも健在で、軽自動車に乗って出かける姿を見かけたりもする。
 タバンアガシを呼びインスタントコーヒーを作ってもらってその後は……それは大人のピンクな世界で別途進めてもらうとして、今回は大きなお友だちの社会見学としてのタバンである。独断と偏見から雑居ビルの2階や地下にありちょっと薄暗く、ちょうどよくいい加減な雰囲気の店構え、いつの時代かよくわからないインテリア、客のほとんどが年配の男性、インスタントコーヒーの粒が少し浮かんだコーヒーをスプーンでかき混ぜていただくというイメージの「おとなのタバン」を3ヶ所選んだ。


【初級】乙支路(ウルチロ) シティコーヒー
駅ナカの健全タバン

「シティーコーヒー」は地下鉄2・3号線乙支路3街駅の地下通路街にある。大手ベーカリーチェーン店が2店舗も近くにあるものの、年配の男性を中心としたお客さんで常にそこそこ賑わっている。オープンして30年以上だそうで、駅ナカで家賃のほうは大丈夫なのだろうかと心配になるほど安くて種類豊富なメニューが特徴だ。「タバンコーヒー」ももちろんある。統一感のないインテリア、やや薄暗い店内、テレビが置いてあって少々物憂げな空気が漂っているのがタバンらしいといえばタバンらしい。飲み物のほかに夏の帝王かき氷やコーヒートーストセットもぜひ試してもらいたい。適当にテーブルに置かれたプラスチック容器(砂糖が入っている)を見るとなぜかほっとする。お店を切り盛りするオーナーと思われるアジョシ(おじさん)はいつもシャツを素敵に着こなしており、カウンターの向こうにいる女性の笑みは、目鼻立ちは違うもののどこか大女優・若尾文子のような色気をたたえていて印象的である。



【中級】乙支路 乙支茶房(ウルチタバン)
卵の黄身が浮かぶ韓方茶

 高層ビル街と町工場密集地とのコントラストが非常に明瞭なエリア、乙支路。乙支路3街から乙支路4街は各種加工工場、照明器具や水まわり用品、家具、さまざまな道具や材料を扱う店が連なっている。ソウルの真ん中だというのに、どぎつい絵の具をぶちまけたような色彩にあふれ独特の魅力に満ちている。この町で働く人々の呼吸、様々な機械音は町の躍動感そのものだ。乙支茶房は、観光客にも人気の老舗冷麺専門店である乙支麺屋(ウルチミョノク)と同じビルの二階にある。2019年春、このビルは再開発により取り壊される予定だったが、老舗冷麺店を守れという声がソウル市長の耳まで届いた。取り壊しは一旦白紙に戻ったが、これからどうなるかはまだわからない。1985年にオープンした乙支茶房は、ソウル市から「ソウルに残る老舗店認定」を受けた。年配男性らが談笑する薄暗い店内、年季の入ったビニールソファ、日めくりカレンダー。オープン当時は8人のタバンアガシがいたと、生活感のある服装の雇われマダム(と呼ばせてもらおう)は言う。

「許可なき撮影は禁止、ここは個人スタジオではありません」という張り紙が目に入ってくる。馴染みのお客さんに迷惑をかけるだけでしょ、お客さんがいなければいくらでも撮ってもいいけど守らない人が多いのよ、とマダムは笑う。
 

 乙支茶房に来たら「タバンコーヒー」をぜひ注文してもらいたいところだが、サンファ茶もおすすめ。数種類の韓方薬をじっくりと煎じて作った韓国伝統茶で、体が温まる。
 卵はいれる? いれない? 厨房から声がかかる。タバンのサンファ茶には卵の黄身がぷかりと浮かんでいて、そのまま一口で飲んでもよいしかき混ぜていただいてもよい。



【上級】九老(クロ) 白蓮茶房(ペンニョンタバン)
時間が完全に止まった薄暗い店内

 ソウル南西部にある九老区は工業地域の割合が高く、外国人労働者が多く住むエリア。白蓮茶房は、中国東北地域からの中国人や朝鮮族の人々が集まる九老区加里峯洞(カリボンドン)のチャイナタウン内にある。オープンは1997年だが、銀河茶房、イスル茶房と名前とマダムが変わって続いている。金魚の泳ぐ水槽と喫茶店向けテーブルゲーム機は一見の価値あり。いい加減に作った「タバンコーヒー」は、タバンという文化遺産の保存費用だと思って気持ちよく支払いたい。タバンのマダムは馴染み客と思われる男性とずっと酒を飲んでいる。テーブルの上に並べられた空き瓶がどんどん増えていくのを横目に、甘いコーヒーを飲むのもなかなかよいものだ。



【住所】
シティコーヒー
시티커피
ソウル市中区乙支路131地下311-1号
서울 중구 을지로 131 지하311-1

乙支茶房
을지다방
ソウル市中区忠武路72-1
서울 중구 충무로 72-1

白蓮茶房
백련다방
ソウル市九老区牛馬2キル21
구로구 우마2길 21

(第1回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は2019年11月27日(水)掲載予定です。