猫と詩人 佐々木幹郎

2019.2.5

10ツイラク・ミーちゃんの冒険

 
 (承前) 翌朝、病院へ連れて行くのに、ミーちゃんをキャリーバッグに入れるのが大変だった。彼女は嫌がった。ヨシヨシ、と励ましてお尻から無理やり押し込んだ。キャリーバッグは固い布製で、前後が小さな網状になっていて、それが窓になっている。窓から覗くと、ミーちゃんは暴れている。
 猫というヤツは、大怪我をしても「痛い」とは言わない。そんな言葉を持っていないのだ。「痛い」という顔つきもしない。大きく裂けた左後ろ足の指先には包帯をきつく巻いておいた。傷口はいまも痛いはずなのに、前足の爪を立てて、後ろ足で踏ん張り、猛然と暴れている。「わたしにこんなことをするなんて!」と怒り、ギャーギャーと怒鳴り声をあげ続けた。
 それにかまわず、大急ぎでチャックを閉めて、その上に目隠しのために布をかけた。しばらく鳴き声が静かになったと思ったら、なんだかまた妙な暴れかたをしている。どうやら内側からチャックを開けようとしているようだ。
 オーバーを着て、外に出ようとしてふり返ると、ミーちゃんがキャリーバッグの中から顔を出していた。ついにチャックを開けたのだ。こんなとき、得意そうな顔をしているのが、許せない。アタマから押し込んだ。
 アパートの階段を降りて、駐車場までキャリーバッグを運ぶ途中、急におとなしくなった。鳴き声が変わった。小さくなったのだ。バッグの窓から見える外の世界に気をとられているようだ。彼女がいつも遊んでいる風景が、新鮮な角度から見えて、怯えを越えてしまったらしい。


 病院までは車で二十分ほどの距離だった。車が動き出すと、バッグのなかでまた暴れ始めて、鳴き声が怒鳴り声になった。ミーちゃん、ミーちゃん、そばにいるからね、と声をかけ続けた。
 日曜日もやっている動物病院は、美容トリミング室やペットホテルの施設もあって、小奇麗だった。わたしは診察が始まるまでの間、ガラス越しに、犬のトリミングの様子を見ていた。世の中にこんなに可愛らしく変貌する犬もいるんだ。でも、ミーちゃんは違うからね。毛をカットする必要はない。元気でありさえすれば、わたしにとって最も美しく可愛らしい猫なのだ。
 「野良猫ですか?」と、若い獣医師さんは言った。キャリーバックの中でミーちゃんは声を出さずにじっとしている。これから何が起きるのか、怯えているようだ。「暴れるかな?」と医師は言いながら、ミーちゃんをバッグの中から出し、すぐ全身に大きなタオルをかぶせて、まわりが見えないようにした。驚くほどミーちゃんはおとなしい。さすが専門家の扱いは手慣れている。
 バッグの底に敷いたペットシートを見ると、クシャクシャになっていて、昂奮のあまりオシッコを洩らしたようだ。
 医師は看護師に両足を持たせて、左後ろ足にわたしが巻きつけておいた包帯をほどいた。手羽先状態になっている指先を見て、「裂けているのは一カ所だけですから、たいしたことはありません。手術をして縫合しましょう。そうですね、麻酔をしなければなりませんから、一晩、預からせてください」と言った。というわけで、ミーちゃんは入院することになった。
 彼女は昨夜から今朝までの間、左後ろ足の指先に巻きつけた包帯を外そうとして、そのまわりを舐め続けていた。猫の舌はザラザラとした下ろし金のようなものなので、同じ箇所を舐め続けると、その部分の毛が抜けはじめる。わたしは朝までの間に、二回、彼女が外しそうになった包帯を巻きなおした。そのたびに、包帯の周囲の毛が抜けて、皮膚が見えだしているのに気がついたのだった。
 獣医師はその脱毛状態を見て、左後ろ足指の先端だけではなく、左足の太もものほうまで大きく包帯を巻いた。その上で、猫用のエリザベスカラーを首に付けた。
 誰が「エリザベスカラー」と名付けたのだろう?  十六世紀のイギリスのエリザベス朝時代に貴族たちがしていた衣服に「襞襟」があって、それを真似たカラーが動物の医療用に作られたのが一九六〇年代だという。
 怪我をした動物が傷口を舐めないように、首のまわりにラッパ状のプラスチック製襟巻きを巻く。上下左右は見えにくく、グルーミングも不自由になるが、猫には一時的に諦めてもらう以外にない。ミーちゃんはカラーを付けられても、最初はそんなに嫌がらなかった。きっと何をされたのか、わからなかったに違いない。
 完治するまでに、ほぼ二、三週間はかかるということだった。「明日、引き取りに来てください。明日以降、完治するまで絶対に家の外に出さないように。感染症の恐れがありますから」、と言われたが、野良猫ミーちゃんを家に閉じ込めることなどできるだろうか。
 ところで、ミーちゃんは昨夜の怪我の後、オシッコもウンチもしていないし(オシッコはキャリーバッグの中でしたようだが)、餌も食べていない。自分の身体の異常に気づいて、昂奮しているらしい。
 「一晩、様子を見てみましょう。オシッコもウンチも、困ったらやりますから心配しなくていいです」と医師は言った。
 しかし、その困ったらやる、というオシッコとウンチが、その後の最大の問題であった。ミーちゃんは、いままで外でオシッコとウンチをしていたのであって、わたしの部屋ではしたことがなかったのである。


(第10回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年2月20日(水)掲載